東野圭吾・著 「虚ろな十字架」 

書き下ろし・・・光文社・単行本(ソフトカバー)2014年5月刊。

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【あらすじ】

 
11年前に小学校2年生の一人娘・愛美(まなみ)を殺された。
当時、母親の中原小夜子が、ほんの僅かな時間だけ近所のスーパーに出かけた時、窓を割って侵入した強盗に襲われ残忍な手口で殺害されてしまった。


愛美の父・中原道正は、数年前に妻・小夜子と離婚し、広告代理店を辞めて伯父から引き継いだペット葬儀屋を営んでいる。
愛美殺害事件当時の捜査担当だった警視庁捜査一課・巡査部長の佐山刑事の訪問を受け、
今度は離婚後に旧姓を名乗る浜岡小夜子までも、何者かに路上で刺殺されてしまったことを知る。


小夜子とは親として、強殺犯の蛭川和男が死刑になることだけを望んで、裁判で弁護士相手に共に闘って来た経緯があった。
そして漸(ようや)く高裁の控訴審で死刑判決を逆転して勝ち取ったのだった。


二人は判決に納得したものの、死刑囚の蛭川は最後まで反省することはなく、被害者家族への謝罪もなかった。「面倒だから」控訴せず死刑台に臨んだ男。
蛭川は、かつて強盗殺人の罪で無期懲役の判決を受けたが、刑務所での更生が良好と判定され仮出所した。
ところが仮出所中に強盗殺人の再犯を犯したのだ。酌量の余地なく死刑判決が出て執行されてさえいれば、愛美は殺されずに済んだのだ。


*


犯人の死刑を望まない被害者家族はいない。中原も小夜子も、たとえ犯人が死刑になろうとも娘は戻らない、そして夫婦生活の再出発へと転換できないでいた。
この虚しい現実に直面したまま過ごしているうちに、夫婦関係は破綻してしまったと感じ合った。夫の方から後ろを振り返らないよう離婚を決意し、互いに別々の道を歩むことにした。


離婚後は連絡し合うこともなかったが、何と小夜子の葬式を切っ掛けに、彼女の家族や友人を通して彼女が精力的に行動していたことを知ることとなった。
小夜子は、かつて大学時代の同級生で雑誌編集者・日山千鶴子の計らいで、フリーライターに変身し被殺害者遺族会という組織で活動していた。
それは、死刑制度とは何なのかについて、自らの体験を元にしつつ、真相・真実を追い求めていた。それは同時に、娘の死の悲しみを乗り越えんがためだったか。


中原は、全ての死というものは何時か受容・受忍せざるを得ないと理解し、自分が選んでいた再出発の道とは懸け離れていた事実に衝撃を受けた。
真摯に生き続けていた元妻の闘いの足跡を、今更ながら巡礼のように辿る元夫。そして次々と真相が明らかとなる・・・。


*


過去の罪悪と因果を掘り返したために起きたものなのか !? そんな不条理な !!

小夜子が万引き犯を取材しているうちに辿り着いた、小児科医と恋人が中学生時代に封じ込めた罪悪とその贖罪的行為。その真相を暴き自首を勧めた小夜子。前科者の自分を大切にしてくれる娘の婿に報いようとした蛭川---身内に優しい人情の常。

被害者よりも生存している罪人に甘い、国家の行政・立法・司法の三権。

---それら矛盾が渦巻く問題を提起する東野ワールド。






【終章の抜粋】


p300
浜岡小夜子のいうことは正論だった。「今の法律は犯罪者に甘いですからね。人を殺(あや)めた人間の自戒など、所詮は虚ろな十字架でしかないのに。
だけどたとえそんな半端な十字架でも、せめて牢屋の中で背負ってもらわなければなりません。この罪を見逃せば、すべての殺人について見逃す余地が生じることになります。」


p301
「どんな理由があろうとも人を殺した者は死をもって償わなければならないというのが彼女(浜岡小夜子)の信念であることは、例の『死刑廃止論という名の暴力』の原稿からも明らかだ。」


p305
花恵は続けた。「主人(仁科史也)は二十一年前に一つの命を奪ったかもしれません。でもそのかわりに・・・医師として多くの命を救い続けています。
・・・それでも主人は何の償いもしていないといえますか。刑務所に入れられながらも反省しない人間など、いくらでもいます。そんな人間が背負う十字架なんか、虚ろなものかもしれません。
・・・ただ刑務所で過ごすのと、主人のような生き方と、どちらのほうが真の償いだと思いますか」


p316
「二十年以上も前に、若気の至りで作っちまった子供を殺したことぐらいが何だ。堕ろしたのと変わらんだろうが。」


p317
自首して刑務所に入ったら、どんないいことがあるのか。・・・日本のルールがそうだから、罪に向き合うにはそうするしかないと思っただけだ。ただし、それが真に自分の意思なのか、・・・。


p319
「あの老人(町村作造)は刑務所に入るのだろう。彼の娘(仁科花恵)や、その夫である仁科史也も、加害者の家族として多くの苦難を背負うことになる。
そして---。悲劇はそれだけでは終わらない。あの中原(道正)という人物の行動次第では、悲劇の連鎖はまだ続くかもしれない。」


p326
「たしかに矛盾だらけだ」「人間なんぞに完璧な審判は不可能、ということかもしれませんね」






【私見】


私は、死刑は存続すべきと思う。
人を殺した人は死刑で償わせるべき。正当防衛を立証できない限りは。
裁判官の前で罪を悔いる姿勢が現れたとしても、それは人の心が残っているのなら当然の行為。死刑執行まで大いに悔いてほしい。


殺人罪について、公訴時効を廃止したのは歓迎する。


問題は冤罪。確かに課題はまだまだ残る。
人の目撃証言は当てにならない。監視カメラやDNA解析の技術が向上したのは喜ばしい。
警察ばかりに任せないで、捜査検事、そして捜査判事が本来のあるべき姿。
撲滅のため三権が最大の改善策に尽くすべきなのに、それを理由に免罪符として死刑廃止に走るのは、似非(えせ)人権論者。


それから、歴代の相応しくない法務大臣たちが、死刑囚の執行を回避していることに憤りを感じている。


刑罰を更生が著しいと酌量し軽減することに反対する。 更生して刑を全うするまで罪を悔いて、初めて真っ当な人間性となろう。
刑務官が自分たちの成績を上げるため、刑務所の施設が手狭という背景、保護監察が杜撰(ずさん)など問題が多過ぎるのである。


戦争は更に酷い。人を殺しても勝てば国家を挙げて正義の面(つら)をする。
これでは殺人者を裁けない。だから戦争は放棄すべきなのである。
「安保法」は逆行を目指す。米英仏韓らの好戦国に加担しようとしている。


*


東野氏の著作を久し振りに今月、「人魚の眠る家」(2015)・「虚ろな十字架」(2014)と続けて読んだ。
2作に共通するのは、前者が脳死と臓器移植に対する、そして後者が殺人被害者の死と殺人加害者の死刑に対する、それぞれの肉親=遺族の情愛を読者たちはどう捉えるか? である。

私は、生きている遺族の情や判断を優先すべきではなく、死んだ本人が生き続けていたとしたらどう思うか(霊の無念さ)を深く偲びつつ、法を定め法の裁きをしなければいけないと思う。

何故なら、生き残っている人間を優先する考え方は、戦争に勝利した国家を正義とする考え方に相通じると思うからである。





■ 東野圭吾氏の著作(2012年以降)と私のブログ


笑小説シリーズ・歪笑小説(2012年1月 集英社文庫)
ナミヤ雑貨店の奇蹟(2012年3月 角川書店 / 2014年 角川文庫)・・・中央公論文芸賞
ガリレオシリーズ・虚像の道化師 ガリレオ7(2012年8月 文藝春秋)
ガリレオシリーズ・禁断の魔術 ガリレオ8(2012年10月 文藝春秋)
夢幻花(2013年4月 PHP研究所)・・・柴田錬三郎賞
加賀恭一郎シリーズ・祈りの幕が下りる時(2013年9月 講談社)・・・吉川英治文学賞
疾風ロンド(2013年11月 実業之日本社文庫)
虚ろな十字架(2014年5月 光文社)
マスカレード・イブ(2014年8月 集英社文庫)
ラプラスの魔女(2015年5月 KADOKAWA)
人魚の眠る家(2015年11月 幻冬舎)