「空中から爆弾を落としたとは思ってないんですよ。
下から爆発」~元空軍少尉 本田稔氏の証言!





【戦士の証言】元第343海軍航空隊 少尉 本田稔氏に聞く




出典
「マヤ歴の修正と1260日」 
http://angel.ap.teacup.com/gamenotatsujin/1212.html

 <転載開始:すべて原文のまま>

幾多の実際の戦闘で、爆弾や爆発状況を見ていた軍事的に専門的知識のある彼が
広島原爆の爆発の瞬間に広島城上空を紫電改で単独飛行しており目撃体験、
その生々しい証言では

「私は空中から爆弾落としたとは思ってないんですよ。下から爆発、
何で何が爆発したと思って上を気をつけてませんから
全然知りませんねB29に対しては・・・」の一言。

彼がウソの証言をしているとは思えません。
この発言後の日本の戦争への取り組み方への疑問も、彼の軍人としてのまじめさ、
冷静な判断の持ち主であったことが伺えます。

2つのユーチューブの証言、どちらもインタビュアーがB29からの投下に
ついてとあえてB29を絡めて聞いているのですが、
彼は完全にB29については存在をスルーしています。
戦闘機乗りならまずは上空をチェックしたり爆撃機を探すはずです。

つまりは、彼が目視できる範囲に爆撃機は見当たらなかったということでしょうね。
爆発前にも、もしB29が上空にいて投下したとしたら飛行気乗りとして
目の前の状況を捉えるはずです。

この大和のことも含めて、戦後の敗戦処理のために、とにかく本来の家族を守ろう、
故郷を国家を守ろうとしていたクソまじめな優秀な軍人たち(陸軍、海軍それぞれに)
を一同に集め一瞬で大量抹殺する。

それがずる賢い敵国とも手を結んだ支配者層の考えていたことでしょう。
だからそれまでも日本の軍人の多くが派遣された現地で戦闘することもなく
本国からの援助も薄く餓死や病気で殺されていた。

戦争の本質目的は、支配者層を将来脅かすことになるであろう目覚めた軍人たちと、
同じ国民でも違う民族たちの浄化殺人であると思います。
敵国との戦という茶番を使ってごまかして。

この証言ビデオ、地上起爆に疑問のある方に見ていただきたいです。
何しろ戦闘のプロの見識ですから。

<転載終了>
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重要関連記事として

広島・長崎原爆投下のどちらにも
「命のサイレン」が鳴らなかったのは一体何故!?

http://ameblo.jp/64152966/entry-11417940977.html





メルマガ第12号~
「原爆を造らなければ良かった」と言い残して死んだある日本人技術者


もみじ
★メルマガ第12号は3部からなる構成 になっていますが、
特別に、第2部の一部を公開します。

<転載開始>

広島に原爆を投下されたという大本営発表の
「1945年8月6日 午前7時45分から8時15分」の時間帯に、
『広島市民は誰一人として、B29特有のエンジン音も、機影も目撃した者がいない』
と云う事実である。
しかし、『広島は一瞬にして地上から消えた』訳である。
まるで「手品」である。「手品」には必ず種がある。
この場合の手品の種は「地上起爆の目撃者が全て殺された」と云う事と、
ラジオと新聞報道で「アメリカの爆撃機による空中投下」を繰り返し流し、
テレビ時代に入ってからは、B29の映像とキノコ雲を同時に映像化して、
それらしくシナリオ化している。極めてシンプルな手口である。
広島・長崎での被爆体験記録では、肝心の
『地上に設置された巨大な瓦斯タンク(核弾頭と起爆装置)』の目撃に
関する記述が削除されていることは確かである。

広島市東部から20kmの地点に在る『中野探照灯台』上空附近を飛ぶB29は、
すでに9,630mの高度をとっていたはずである。
つまり、中野探照灯台の兵士たちは9,630mからの爆音を聞いていたということになる。
その時間は、午前8時14分と報告されている。
それから、1分後の8時15分に起爆するのだが、中野探照灯台から2~3分の時間を
必要とするが、原爆機は最高速度600kmを、わざわざ320キロメートルに落し、
広島市上空では「機関を停止してグライダー飛行に入る」のである。

こんな爆撃をしたら「自爆による墜落攻撃」である。
B29の爆弾搭載量は9トンと云うが、5トンが限界である。
乗員11~12名を機長・副操縦士・航空機関士・気象士・爆撃手・通信士・
原爆要員等を考えると、乗員は逆に15名程度に増えるし、
機銃装備を取り除いても2~3トンの削減が限界だろうし、
護衛戦闘機がいないのだから、幾ら超高度10,000mを飛行できても、
高度が上がれば燃料消費量も上がり、往復の燃料にも問題が発生するから、
通常は高度を下げて飛行して、目標地点の近くで高度を上げる事になる。

高度が低くければ、自爆戦闘機(神風)からの攻撃は必至である。
それでは、無防備だから、テニアン島からの往復を考えると、
機銃装備を外すとは考えられない。護衛戦闘機が豊後水道まで護衛すれば、
飛行機のエンジン音は当然大きくなる筈だが、その証言は何処にも無い。

この当時の巨大爆撃機のレシプロエンジン(発動機)を上空9,630mで、
『中野探照灯台(広島市東部)』上空附近から、3機(1機エノラ・ゲイ)が
「機関を停止」してグライダー飛行して、広島上空に侵入して、
弾倉の格納されている「原爆の起爆装置をセットON」して、弾倉トビラを開けて、
フックを外して原爆を投下し、広島市の地上から520~550m上空で都合よく起爆
したとしたら、それ自体でB29は爆風に巻き込まれて墜落である。

長崎では逆に原爆を搭載して、曲芸飛行の様に、10,000mから急降下して
地上すれすれを飛んだのは、広島のB29投下シナリオの「手品」が、
多くの広島市民にばれた教訓として、地上起爆を演出するために、
地上すれすれを飛行して、さも飛行機(B29)が「原爆を投下」しましたよ!
と「手品」をした訳である。

米国戦略空軍“シルバープレート部隊(原爆搭載の専門部隊)”の広島・長崎
への飛行記録は、曖昧な物が多いし、日本側の記録も曖昧と云うか、
体験者の置かれた地理と時間と環境(屋内と屋外とか)によって違いが発生している。

広島の場合は、(1)小型機が1機先行し、B29の3機がこれに従って飛んだ「4機」説。
(2)大型機3機のみで小型機は認められない。「3機」説。
(3)始終大型機2機のみであったという「2機」説。
<若木繁敏著、「広島反転爆撃の証明」 p78から>呉海軍に居て、
救助活動に一時狩り出された「暁部隊(海軍陸戦隊)」の隊員の証言では、
屋外のベンチで休んでいたら、「いきなりドンーと来た」と云っているし、
若木重敏も自宅で静養していたら、「いきなり 光り、ドンーと来た」と証言している。

良く考えて見ると、大半の証言が「ピカ ドン」である。
「ブオーンと来て、ピカ ドン」ではない訳である。
空襲警報が有ったとか?無かったとか?は、確かに問題である。
しかし、結論は広島・長崎の体験者の大多数が証言している「ピカ ドン」
「ピカッと来てドン」は一致している(長崎の場合は、B29の急降下の証言があるが、
原爆搭載の重量では急降下は不可能である)。

この単純な問題「ピカッ!ドン」こそが、広島・長崎の原爆は地上起爆されたもの
であり、B29での空中投下でない証拠である。良く広島では3個のラジオゾンデ
(気象観測器)が出て来るが、このラジオゾンデの投下は「7時27分前後」が
妥当な時間であるし、もしラジオゾンデで原爆を観測するのであれば、
「8時15分以後」の気象変化デターを収集すべきである。

B29の1機が気象観測機であれば、「7時」には広島上空に侵入する必要があるから、
空襲警報は6時台に発令される事になるが、空襲警報は7時9分であるから、
気象観測機と本隊は同時に広島上空に侵入したことになる。
つまり「気象は極めて良好」だったことになり、ラジオゾンデを投下する必要性はなくなる。
そして、2機~4機の飛行機は、7時27分前後に広島市上空を通過して、
8時14分に再び広島市上空に舞い戻ったと云うのだが、この8時14分を確認しているのは、
何故か?『中野探照灯台』だけなのである。

広島市民であの特徴的なB29の飛行機音を聞いた人は誰一人として存在しないから、
全ての証言が『ピカッ!と光ってドン=ピカドン』な訳である。
B29のテニアン島から広島まで飛行時間(飛行経路は発表されていない)を、
極分かりやすく鷹島伯忠(本名:木佐木輝雄)氏は説明している。

鷹島伯忠(本名:木佐木輝雄)著の「真昼の寝言」p208に、次の様に書かれている。

(2)広島市へ原爆を投下した3機の行動
01:45(午前1時45分)テニアン島を離陸
05:05 硫黄島を通過
07:09 広島市「警戒警報発令」(警戒警報は黄色信号)
07:31 広島市「警戒警報解除」
*08:14『中野探照灯台』通過
08:15 原爆投下

ここで注目すべきことは、テニアン島から広島市までの往路は6時間
30分、広島市からテニアン島までの帰路は5時間42分で、約50分の
差があることである。子供が登校する場合でも、行きは道草をしない
が、帰りは道草をするのが通常の行動である。なぜ3機のB29は広島市
への往路で50分もの道草をしたのか?まさか、良心の呵責で広島市へ
来るのが嫌になって、迷走台風のようにグズグズしていたわけでもあ
るまい。これも相手を油断させるための戦術であったのであろうか?
であるとすれば、その戦術にはあの天才軍師『諸葛孔明』も脱帽して
感服したことであろう。アメリカ軍にとっての『広島原爆投下』は
『パールハーバー』の報復であったのであろう。

「真昼の寝言」本文には<*08:14『中野探照灯台』通過>は無いが、
ここでは追加挿入して見ると、B29爆撃機は2度広島市内に入って居ることになる。
それは、午前7時27分前後と午前8時15分前後の2回となる。
午前7時27分~午前8時15分の約50分(48分)の間、B29はどこを飛行していたのか?
広島県でないことは確かである。
近県でエンジン音を聞いたとか?近県で空襲警報が発令された事実がないからである。
これが、所謂広島攻撃でも第2攻撃目標が「博多(小倉/北九州市)」だったと云う
説なのだろうか?

しかし、約50分の間に「広島ー博多(小倉/北九州市)」間を原爆を搭載した状態で
飛行するのは戦略的に見て意味のないことである。
鷹島伯忠(本名:木佐木輝雄)氏が云う「50分の差」とは、<8時15分(原爆投下時間)
ー1時45分(離陸時間)=6時間30分(390分)。
7時27分前後(広島市上空到達時間)ー1時45分(離陸時間)=5時間42分(342分)の
差約50 分(48分) >と云うことである。

若木重敏氏は小豆島方面への往復飛行を推測しているが、この点は不明である。
逆に鷹島伯忠(本名:木佐木輝雄)は、『広島高等工業学校・応用化学科教室
(戦後は広島大学に)』での体験を次の様に証言している。

「真昼の寝言」p291~292
その日は月曜日であったので1時限に遅刻せずに来た者は30名余り
(註7)であった。1時限は鈴木教授(註8)の無機製造化学である。
今日は相律の話という訳で、教授は図面を押ピンで黒板に貼られた。
参考までに、警戒警報は8時前(註9)解除されてゐたものである。
それからさて講義と言うので、我々がペンを握った時である。
突如、教室の静寂と沈黙を破って不快な爆音(註10)が遥かに聞えたのである。

「おかしいのー」と誰かが言った次の瞬間、青白き閃光(註11)は
教室を襲ったのである。世にも恐るべき原子爆弾と誰がこの時思った
らうか?

(註9)午前7時31分 警戒警報解除ー警戒警報発令は
午前7時9分:ラジオの情報は「敵少数機が広島湾を北上中」と知らせる。
(註10)当時の飛行機は全てプロペラ機でジェット機はまだ実用化さ
れていなかった。文中の「不快な爆音」は「ブルン、ブルン・・・」
という響きで、オートバイのエンジンがなかなか始動しない時に似て
いた。私は「赤とんぼが飛んでいるのかな」と思った。赤とんぼとは
>練習機のことである。その当時の練習機は赤く塗られていた。

と云うのである。鷹島伯忠(本名:木佐木輝雄)は、東京の工廠で勤労動員されて
いた時に、B29のエンジン音を聞き慣れているので、「赤とんぼのエンジン音」と
「B29のエンジン音」を聞き違える可能性はないと考えられる。
この「赤とんぼ=練習機」が広島市の上空を訓練飛行していて、
空中でグライダー飛行した後、エンジンを空中で始動させたから、
【突如、教室の静寂と沈黙を破って不快な爆音が遥かに聞えたのである。

「おかしいのー」と誰かが言った次の瞬間、青白き閃光は教室を襲った】と成る訳である。
若木重敏氏の本に書かれている「小型機1機」とは、日本の紫電(若しくは紫電改)が、
空中で訓練の一環として「グライダー飛行とエンジン飛行」をしていたという目撃証言
なら、鷹島伯忠(本名:木佐木輝雄)の体験と合致する。

更に鷹島伯忠(本名:木佐木輝雄)は、当時の記事として
【爆心地は大本営跡附近と書いてあったが、果たしてこれは如何?
昭和20年9月20日ーp296ー】と記憶を書き留めている。
これは、日本製原爆完成全文の中でも書いた筈だが、広島城(広島大本営)の
地下牢に監禁されていたB29のパイロットが、正門附近で無傷の姿で座り込んでいたが、
歩行は不能で「水を求めていた」と云う証言から見て、爆心地近くの地下牢にいたから、
「外見は無傷でも体内はぼろぼろだった」のだから、明らかに
【原爆は広島城(広島大本営)に設置された瓦斯タンク状の建物】と云う推論とも
合致する証言であるし、若木重敏氏が見た光の方向(広島城を延長した山)とも
一致してくる。

『相生橋とか島病院とか広島産業奨励館の上空520m~550(570)m』云うのは
「広島城での地上起爆と云う真実」を、大日本帝国政府(現日本政府)が国民を
騙すために捏造した「広島平和式典と云う政治歌舞伎の為の舞台」でしかない。
日本製原爆使用後の広島城の写真では、堀割の石垣は崩壊していない様に見えるが、
一方向からの写真なので判断が難しいが、広島城の大本営建物の庭には、
巨大なクレーターができた筈だから、其処はいち早く埋め戻されたと考えるならば、
古い地層と埋め戻し土は別のものが使われているから、確認はとれる事になる。

広島県が検証の発掘調査を断固拒否すれば、やはり『広島城(広島大本営)が、
人類史上第1号の日本製原爆の起爆地点。所謂グランドゼロである』。
そして、1945年8月6日午前7時30分前後に広島上空に侵入したB29の2~3機は、
その後広島市を離脱して一路テニアン島へ向う航空航路へ操縦桿を向けたのである。
それは、キノコ雲(爆風と熱線)による墜落を逃れる為であった。

この日の飛行をシルバープレート部隊では
「ピクニック仕事」と呼んでいた事は確かである。
シルバープレート部隊の1人「クロード・ロバート・イーザリー機長」は、
広島への原爆投下を懺悔して、統合失調症?になったと云う説があるが、

これは、真逆で
「広島上空へは、空気を運んだだけのピクニック仕事だったよ」と酒の席で
発言していたから、米国空軍側から排斥されて精神障害者として社会的に
抹殺された訳である。


更に云うならば、日米開戦時に活躍した「野村吉三郎 駐アメリカ合衆国特命全権大使」
の本当の肩書きは「大日本帝国政府(大本営)の情報機関のトップ(局長)」
と云う訳である。
それでは「ハル国務長官」もアメリカ側諜報機関のトップだった事になる。
これでは、明らかに「日米関係は軍事同盟関係にある戦争」と呼ぶべきものである。

そして、野村吉三郎は戦後“日本ビクターの役職につく”のは、
アメリカ“RCAビクター(アメリカ海軍が母体)”との関係維持の為と云うことは、
日米諜報機関による外交関係の再構築に入った事を意味するものであったと
考えるべきである。
だから、朝鮮戦争で北朝鮮を空爆したB25は、旧大日本帝国海軍のパイロットが
操縦桿を握っているのである。



天皇裕仁と参謀本部と仁科芳雄と有末精三等を含めた「御前会議」の内容とは?

『当初の計画としては、日本が製造した、ウラン型原爆(李ウ殿下開発)と
プルトニュウム型原爆(湯川秀樹グループ開発)を、
広島と長崎に6日に同時に投下する予定で在ったのだが、
飛行機搭載直前にプルトニュウム型原爆が故障した為に、
6日に広島だけに投下されてしまった問題について、
仁科芳雄に意見を求めたので在る。

15日終戦は、自治会(町内会)に連絡済みだし、日本放送協会の放送も決定している。
まして、欧米連合国側から約束と取り付けた「天皇の戦犯免除条件」についても、
プルトニュウム型原爆が予定通り爆発しなければ、反故になりかねない状況となった。

そこで、仁科芳雄と有末精三朝は、所沢から朝鮮総督府(現北朝鮮)の原爆施設に飛んだ。
その後、終戦日15日までの最終タイムリミットから、逆算して「9日」を攻撃日として、
原爆の故障箇所の復旧作業を湯川秀樹に指示し、トンボ返りした。

9日以後、理研で仁科芳雄のニコニコ顔が目撃されている』これが、山本洋一氏曰
「科学者のデカダンス(仏:décadence。意味:退廃的なこと)」と云う心情となる。
これで「自虐的」にならず。戦後を鉄面皮顔で出世し、原子力発電に翻弄する
日本人科学者集団は、その精神構造は「科学者の平和宣言」が表看板でしかない事を
証明している。
店の裏では、更なる「夢の水爆兵器(マッチ箱位の大きさ)」で地球を破壊する
計画しか念頭にない。
これで世界覇権が完成するからだ。
その時間稼ぎに、イランだ北朝鮮だパキスタンだのの「核兵器疑惑」を連日、
国内で報道している。
世界で一番「日本の核兵器使用(アメリカの核も日本製)」が高い。


<転載終了>
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本物黒酒 ‏@honest_kuroki
https://twitter.com/honest_kuroki/status/739522052239958016

これが、日本が実施した広島の核実験、1945年8月6日朝8時満潮の元安川。

米国は核爆発技術の拡散を恐れ、米国が投下したことにして世界を脅している。

今も中性子を完全に遮蔽する技術や素材は無い。兵器級濃縮ウランは空を運べない。







出典
https://twitter.com/honest_kuroki/status/738679086332018689



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