↑のつづき。
さて、遷都の歴史シリーズです。
平城京以前の遷都(せんと)の本当の場所を深掘りしていくのだが、中々に大変な作業である。
どうにかせんといかん(笑)
と、いうことでまずはおさらい↓
643年「飛鳥板蓋宮」
645年「難波長柄豊崎宮」⇒香川県さぬき市
655年「飛鳥宮」
662年「朝倉宮」
667年「近江大津宮」 ⇒徳島県鳴門市大津
672年「飛鳥浄御原宮」 ⇒徳島県小松島市大林
684年「白鳳大地震」⇒四国に大被害
694年「藤原京」⇒❓️
710年「平城京」⇒奈良
~~~~~~~~~~~~~~
712年「古事記編纂」
713年「各国風土記編纂」
720年「日本書紀編纂」
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白鳳大地震をキッカケに、
阿波(倭)から奈良(大和)に遷都し、
人の大移動が始まった。
今回は藤原京の謎について…
である。
キーワードは
『持統天皇』
『柿本人麻呂』
『万葉集』
『新益京』
と言ったところだろうか。
●持統天皇
第41代天皇にして、皇室史上3人目の女帝。
在位期間は西暦690年~697年。
諱(イミナ)は鸕野讚良。
和風諡号『高天原廣野姫天皇』。
頻繁に吉野に足を運んでいた。
『吉野行幸』である。
※行幸とは天皇が外出すること。
定説では奈良の吉野川の側に置かれた
離宮『吉野宮』に赴いていたとされている。
●柿本人麻呂
西暦660年~724年頃の人物。
その出自については未だ不明である。
『歌聖』と称され、
万葉集には多くの歌が残され、
万葉集第一の歌人と言われている。
天武朝の頃には歌人として活動を開始しており、
持統朝には、花開いていた。
人麻呂は、持統天皇に重宝されていた。
にも関わらず、出自不明…
人麻呂の歌で年代が確定しているのは、
持統天皇の在位期間である。
藤原京時代後半~平城京遷都後には
作品が残っていない。
つまり、その期間に死去したとされているが…
こうも解釈出来る。
藤原京時代後半~平城京遷都後、
人麻呂は皇都から離れた場所にいた。
遷都後にも、遷都前の場所に残ったのだ。
つまり、
「奈良には行かず、阿波に残った」。
人麻呂の歌には海にまつわる歌が多い。
そして、奈良県には海は無い。
人麻呂は、平安時代には『人丸』と表記されるようになる。
人麻呂終焉の地も定かではないが、
現在の島根県益田市が有力であるとされており、
没したとされる場所は、
かつて、益田市沖合にあった『鴨島』なのだそうな。
※鴨島は、中世の地震と津波により水没したとされ、
伝説上の島である。
伝説ということは、やはりよくわかっていない。
例により、
敬愛する阿波古代史の第一人者である
awa-otokoさん のブログや、
書籍『道は阿波より始まる』等によると、
徳島県鳴門市には『人丸神社』が、
徳島県吉野川上流の加茂宮には『ひとまる神社』が鎮座している。
かつては、『美芳野(みよしの)』と呼ばれた。
つまり、この美芳野こそが、『吉野宮』だったのだ。
また、
現在、徳島県那賀郡那賀町谷内に鎮座する
八幡神社は、『柿本神社』であった。
この地一帯は、昔『島根郷谷内』と呼ばれていたのである。
那賀郡賀茂山周辺、つまり那賀川流域は、
西暦700年頃までは水位が現在より高かったのだそうな。
水位が高かったということは、
この流域一帯の低地は、大小の島々だった。
つまり、『カモの島々』だったのである。
人麻呂が没した伝説上の島『鴨島』は、
阿波徳島の那賀郡島根郷にあったのだ。
那賀郡の地名はかつて阿波国の南にあった
『長国』の名残り。
長国は、「伊の国の面」にあった。
つまり、『伊津面(イヅモ)』にあった。。
●万葉集
作 柿本人麻呂
山の間ゆ 出雲の児らは 霧なれや
吉野の山の 峰にたなびく
八雲さす 出雲の児らが 黒髪は
吉野の川の 沖になづさふ
出雲娘子が溺死してしまい、
吉野で火葬している様を描いた歌だが、
島根県の出雲から奈良県の吉野川までの距離は
不自然なほど遠い。
しかし、阿波徳島に置き換えると、
吉野川を下った海岸沿いの地域は
『伊津面(イヅモ)』と呼ばれていた。
この歌は、徳島県内だけで起こった出来事を歌っているのである。
他にも挙げればキリが無いが、
歌聖人麻呂の歌は、ほぼ阿波徳島の情景に置き換えることで、矛盾無く理解することが出来る。
作 持統天皇
春過ぎて 夏来たるらし 白妙(しろたえ)の
衣(ころも)干したり 天の香具山
天香具山は元々は奈良ではなく、阿波にあった。
↓
持統天皇も柿本人麻呂も、阿波徳島にいた。
持統天皇の和風諡号『高天原廣野姫天皇』。
なぜ、「高天原」の「ひろの姫」なのか…
徳島県の神山町は、阿波古代史において
高天原比定地であり、『広野』の地名が現在も残っている。
持統天皇の出身地である可能性を感じさせる。
また、持統天皇の夫である『天武天皇』。
諱は『大海人』。
「大海人(おおあま)」は、幼少期に養育を受けた凡海氏(海部一族の伴造)から。
これは徳島に「海部(かいへ)」の地名として
痕跡が残っている。
その父親は『舒明天皇』。
和風諡号は
『息長足日広額(おきながたらしひひろぬか)天皇』。
「たらし」とは、ふんどしの古語であり、
海に入る際に、ふんどしを垂らして潜ることで、
鮫から身を守ると言われる、
古代からの海人族の風習である。
阿波徳島の天香久山付近、「アスカ」と呼ばれた地域を本拠地とした天皇達が
海人族の血を受け継いでいる証拠である。
●新益京
実は、『藤原京』の名称は大正時代に作られた。
元々は、『藤原宮』。
または、『新益京(あらましのみやこ)』。
「新たに増した都」という意味である。
※わざわざ「新たに」と名付けられているところが、重要なのです。
日本書紀によると、
西暦676年、天武天皇が「新城(にいき)」の選定に着手し、その後巡行をおこなった。
その場所は明確にはなっていないが、
「藤原宮」の始まりはここからだとされる。
つまり、段階的に造営されたのである。
整理する為に、時系列で並べてみよう。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~
676年 天武天皇が新たな都の選定に着手
684年「白鳳大地震」⇒四国に大被害
686年 天武天皇死後、造営工事は頓挫。
690年 天武天皇の皇后であった女帝
持統天皇により、造営工事は再開された。
694年 藤原宮に変遷。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~
阿波にいた持統天皇は奈良大和に移り、
そして、柿本人麻呂は阿波に残った。
歴史の表舞台から消えていったのだ。
皇室の始まりは阿波徳島。
編纂当時、古事記は
数ある風土記でも唯一天地開闢から描かれた
阿波風土記の物語だった。
日本列島には様々な国があり、それぞれに歴史や神話があったはず。
たったひとつの国が、
徐々に他国を平定していき、
大地震をキッカケに皇都の場所は
四国から奈良大和に移っていった。
そして、
長い年月をかけて、ひとつの国が出来上がった。
「倭」⇒「大和」⇒「日本」。
それぞれの国で祀る神様は、
「倭(イ)の国」の神に塗り替えられていったのである。
さてさて、めでたく奈良大和に新たな都
『新益京(藤原京)』が生まれたのだが、
ここで懸念されることがあった。
『天皇』は自らの故郷を大切にしていた。
(そりゃそうだ)。
様々な理由があるにせよ、都を遷すことで
皇室のご先祖様に顔向け出来ないとも感じていたのかもしれない。
そこで、720年に編纂された日本書紀である。
表向きでは外国人向けに日本の歴史を伝える為の
『正史』という扱いだが、肝心なのは地名や人名に用いられる「漢字」である。
それまで明確に区別されていた
『倭』と『大和』や
『筑紫』と『竺紫』などを
ごちゃ混ぜにしてしまい、
後世の国学者の目を欺いた。
しかし、本当の目的は、
『皇室は元々奈良大和に在った』と
思わせるためである。
『神武東征』。
初代天皇が、九州から近畿に入り統治した。
この構図にしておけば、初代天皇からずぅ~と
天皇家は近畿地方を中心としたことになる。
皇室にも「後ろめたさ」はなくなり、
立地的にも国内を統治しやすい
奈良や京都で地に足をつけて
国作りをおこなえることになったのである。
そして、その壮大な計画を実現した人物こそが、
『藤原不比等』。
古事記日本書紀編纂においての
最高責任者である。
人は信じたいものを信じ、
見たいものを見る。
そして、「最初に聞いた話を信じる」傾向にある。
皆さん、この話は信じないで大丈夫です🤣
では、最後に書籍『道は阿波より始まる』を
参考に作って見た地図を紹介します。
これは↓一体どこのことでしょう。
つづく。
ではまた❗
参考資料↓
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