知っているようで知らない「因幡の白兎」の謎(その11 王権と海人) | にゃにゃ匹家族

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1. 志賀の皇神(しかのすめがみ)

 

「万葉集 巻七」に、玄界灘を行く旅人が航海の安全を海の神に祈る一首が見られます。

 

ちはやぶる鐘の岬は過ぎぬともわれは忘れじ志賀の皇神(しかのすめがみ)

 

(訳)波浪の荒い恐ろしい鐘の岬をどうやら無事に過ぎたけれど、私は忘れまい志賀の神様を。

 

「志賀の皇神」(しかのすめがみ)とは、国宝「金印」が発見された志賀島に鎮座する志賀海神社の祭神「綿津見三神」のことです。志賀海神社の参道には、この歌の歌碑が建てられています。

歌碑の説明によれば、この歌は奈良へ向かう官人がその途次、航行の難所として知られる鐘ヶ崎を通過した際に詠んだ歌で、詠み人の安堵の気持ちと航海の安全を祈る心持が伝わってきます。

 

この「志賀の皇神」、「綿津見三神」とは、紀元前から志賀島を本拠地に活躍した海人族「安曇族」の祖先神で、現在も志賀海神社の神主家は「阿曇氏」です。

 

「古事記」「日本書紀」には、この「綿津見三神」の誕生譚が語られていますが、それによると、この「海の神」は、黄泉の国から逃げ帰ったイザナギが、穢れを払おうと禊をし、海で体をすすいだ際に誕生しました。

そして、その後さらに禊を続けるイザナギの目や鼻などから 「アマテラス」や「スサノオ」「ツキヨミ」といった三貴子が生まれます。つまり「綿津見三神」などの「海の神々」は、皇祖神とされる「アマテラス」よりも先立って生まれていたことになります。

 

皇祖神「アマテラス」よりも先に生まれたということは、日本の国が形作られる以前から活躍した神々だと考えられていたからでしょうか。そして、この一首に見られるように、「志賀の皇神」は、荒海を渡る海人族はもとより、後の世でも広く「海の守護神」として信仰を集めていたようです。

 

それにしても「皇神(すめがみ)」とは、並々ならぬ表現ですね。

 

辞書には、「すめがみ」とは、“天皇”の大和言葉である「すめらみこと」を語源とする“皇祖神”という意味と“統治する(統べる)神”という二つの意味があると書かれています。

 

また歌の原文は、万葉仮名で書かれてあり「しかのすめがみ」、「鹿之須賣神」となっています。

万葉仮名の須賣神」を、書き下した場合に「皇神」と書かれる場合と「統め神」と書かれる場合の二つがあるようです。

 

つまり、「すめがみ」と称されるのは、皇室にゆかりのある場合か、またはその地域を統治した神様である場合です。

では、この「志賀の皇神」とは、どちらなのでしょうか。

 

「綿津見三神」を祖神とする「安曇族」は、前回、前々回に書きましたように紀元前に中国華南地方から、水稲耕作等の技術を携えて渡来し、その後大陸との交易活動によって、日本列島に鉄資源や養蚕等の技術をもたらし、各地で水田の開鑿事業などにあたったと考えられる部族です。

 

多くの小国に分立していた紀元前の日本列島に、稲種をもたらし、鉄器を使用した土木事業で国土を開拓することによって、古代日本の統一国家の成立を裏側から支えたのが、「安曇族」をはじめとする海人族だったと考えられます。

 

そんな彼らが統一国家の「王権」とどのように関わったのか。

今回は、神話や伝承に現われた「王権」と「海人族」の関わりについて読み取っていきたいと思います。

 

 

2.竜尾を持った天皇

 

「尾籠(びろう)な」という言葉は、辞書によれば「無作法な様。不適切な作法」という意味で、現在でも「尾籠な話で申し訳ないが・・」というように使われたりします。

 

「尾籠」―「尾を籠める」ことが、なぜ無作法で不適切なことなのか、室町時代に編纂された「塵添壒嚢鈔」(じんてんあいのうしょう )に次のような奇妙な伝説が記されています。

 

海神の子孫と考えられていた第15代応神天皇には、ためにその体には竜尾があった。

 

ある時、天皇がお出ましになる際に、女官が早まって障子をたててしまい、衣に隠れていた天皇の竜尾をうっかり障子に挟んでしまった。怒った天皇は

 

「尾籠なり」(しっぽを挟んでおるではないか。無礼者)と、女官をお叱りになった。

 

これが、狼藉のことを尾籠と呼ぶようになった起源である。

 

そして「記紀」に描かれた山幸彦の話―山幸彦が海神の宮に行き、そこで海神の娘トヨタマ姫と結ばれてウガヤフキアエズ尊が生まれたことに触れて、次のように結語します。

 

「然レバ、地神五代ノ葺不合尊(フキアエズノミコト)ヨリシテハ、海神ノ末ニテオマセバ竜尾ナンドヤ御座シケン。其義ナラバ応神天皇ノ御比(オンコロ)マデ、竜尾マシマシケルトヤ申侍ラン。」

 

つまりは、海神の娘から生まれたウガヤフキアエズ以降、海神の子孫である天皇は代々竜尾があったに違いないと、この中世の百科辞典の編纂者は記しています。

 

では、どうして海神の子孫ならば、竜尾を持つのでしょうか?

 

「魏志倭人伝」に描かれた倭の海人たちは、鮫などから身を守るまじないとして、その身に竜紋などの「文身」(入墨)を施したと記されています。

 

男子無大小 皆黥面文身 (中略) 文身亦以厭大魚水禽 後稍以為飾 諸國文身各異 或左或右 或大或小 尊卑有差 

 

(訳)男子はおとな、子供の区別無く、みな顔と体に入れ墨している。(中略)入れ墨は、また大魚や水鳥を追い払うためであったが、後にはしだいに飾りとなった。諸国の入れ墨はそれぞれ異なって、左にあったり、右にあったり、大きかったり、小さかったり、身分の尊卑によっても違いがある。

 

海中深くもぐり、また海原を自在に航海した彼ら海人族は、自らの出自を海神(竜神)に求めていたのでしょうか。

彼らは、自らを海神の係累であることを表すためその身に、証としての「竜紋」や「鱗紋」を刻みました。


部族や身分にって、入れ墨の形や位置が異なっていたというのですから、「竜蛇」や「鱗文」の入れ墨はいわば彼らの「紋章」のようなものだったのでしょう。


胸に入れ墨を持つのが「胸形」と呼ばれ、後に「宗像氏」となり、背中に入れ墨を持つ「尾形」が「緒方氏」となったともいわれています。

そして、志賀海神社の「阿曇氏」をはじめ、これら古代の海人族を祖先に持つ氏族の子孫には、代々脇腹に鱗の文様がある子が生まれてくるという伝説があります。

 

「尾籠」の故事とは、海人族の子孫の王者ならば、鱗はもちろんきっと立派な竜尾もあるに違いないと中世までも語り継がれていた背景から生まれたのでしょうか。

 

或いは、海神の出自を誇る天皇自身も竜尾を持つふりをして、衣の裾が挟まれたときに、

「尾籠なり」とのたまわったのでしょうか。

 

いずれにしても「海神」と「天皇」さらには「海人族」の間には、深い関係がありそうです。

 

 

3.「海神宮訪問」というイニシエーション

 

さて、山幸彦(ヒコホホデミ)が海神宮を訪れることになる経緯は、有名な「山幸海幸神話」としてよく知られています。

 

ある時、海幸彦と山幸彦の兄弟は、それぞれの生活の道具である弓矢と釣り針を交換し、海幸彦は山で狩りをし、山幸彦は海で漁をしようとしますが、うまくいきません。そこで道具をもとにもどすことになったのですが、山幸彦は、兄の釣り針を失くしていました。

 

山幸彦は、自分の剣をもとに千本の新しい釣り針をつくり兄に償おうとしますが、兄の海幸彦は、許さずもとの釣り針を返せと、山幸彦を責め立てます。

 

困り果てた山幸彦は、塩椎神(しおつちのかみ)の教えのとおり、海神宮に赴き、そこで海神の姫トヨタマ姫と結ばれます。そして失くした釣り針も見つかり、さらに海神から「潮満珠」と「潮干珠」を授けられ地上に戻ります。

 

山幸彦は海神に教えられた通りの呪詛の言葉を言いながら兄の海幸彦に釣り針を返します。その後、呪詛の言葉通り貧しくなった海幸彦が攻めてくるのですが、山幸彦は「潮満珠」と「潮干珠」をつかい兄を服従させたのでした。

 

他方、山幸彦の子供を身ごもっていたトヨタマ姫は地上へとやってきて、ウガヤフキアエズを産みますが、ワニの姿となって出産するところを山幸彦に見られ、怒って海神宮に戻ってしまいます。そして妹のタマヨリ姫を代わりに地上へ送り、ウガヤフキアエズを養育させます。

やがて成長したウガヤフキアエズは、タマヨリ姫を妻とし、4人の子供が生まれます。そのうちの一人が初代天皇とされる神武天皇です。

青木繁作 「わだつみのいろこの宮」 

木の枝に座っているのが山幸彦、赤い衣で山幸彦と視線を交わしているのがトヨタマ姫です。

 

初代天皇の誕生について語るこの神話が表しているものは何でしょうか。

 

山幸彦(ヒコホホデミ)は、海神の娘トヨタマ姫を娶り、さらにその子のウガヤフキアエズは、叔母のタマヨリ姫を娶って、初代の神武天皇が生まれました。神武には海人族の血が濃厚に受け継がれていることになります。

また、山幸彦は海神から授かった珠により絶大な力を得ています。

 

つまり、ここには、古代の王権の成立過程において、海人族と婚姻を重ねた過程があり、さらに海人族の力が大きく寄与していたということが神話の形で表されていると思われます。

 

山幸彦は、はじめは兄の海幸彦に頭が上がらない立場です。兄から借りた釣り針を失ったばかりに、いくら謝っても許してもらえず、釣り針を取り戻すことを命じられ、途方に暮れます。

 

しかし、この山幸彦がひとたび海神宮に行って帰ってくると兄弟の関係は逆転するのです。

 

海幸彦との戦いでは、海神からもらった「潮満珠」で高潮を起こして溺れさせ、許してくれというと、今度は「潮干珠」で水を引かせて救ってやる。

すると兄は、お辞儀をして「この後はあなたの守り人となりお仕えします」といい、その後その子孫たちは、その溺れた時の様子を演じて代々の天皇に仕えることとなったのです。

 

こうして山幸彦は支配者となり、海幸彦はそれに仕える臣下となりました。

 

このように見ると、「海神宮訪問」が、まさに王者となるための力を得る必須条件であることがわかります。

 

この辺りの事情を、少し神話から離れて考えてみましょう。

 

海に囲まれた日本列島では、貴重な文物や新しい文化、技術は海を越えてやってきます。

そこでは、海を渡るための手段をもち、鉄などの貴重資源の輸入、さらにそれらの分配を操作する者が、必然的に大きな権力を持つことになります。

 

長距離海上交易を一手に握っていた安曇族の国「奴国」とは、後漢王朝から金印紫綬「漢委奴国王」を下賜された当時最大の通商国家でした。

 

その奴国の物資の集散基地であった志賀島の「志賀海神社」は、「竜の都」と呼ばれ、すなわち「海神宮」でありました。

「海神宮」を訪れてその娘と婚姻を結び、「海神の珠」を授かるということは、鉄資源の確保はもちろん比類ない彼らの機動力や組織力を味方につけることをも意味していました。

 

「山幸海幸神話」は、海人族の力が王権の成立や国家統一の過程において決定的な影響力を持ったことを表しています。

 

そして王権の基盤が固まったのちの時代でも、この「海神宮訪問」は、王者の資格を得る為の通過儀式―イニシエーションとして、祭祀化されていきました。

 

 

4.即位儀礼としての八十島祭(やそしままつり)

 

かつて、新しい天皇が即位し「大嘗祭」が行われた翌年に即位儀礼の一環として、天皇の使いが難波津で執り行う「八十島祭」という儀式がありました。 


新天皇の勅使として、天皇の乳母(典侍)などが、巫女や官人、御琴弾などを率いて難波津に赴きます。

乳母である典侍は、天皇の衣が入った箱を預かっており、その箱を海原に向かって開くと、御琴弾が奏でる琴の曲に合わせて、天皇の衣を揺り動かします。その後祭物が海に投げ入れられ祭儀は終わります。一行は帰還すると参内して天皇に御衣を返上し「御祭平安奉仕畢由」と報告して八十島祭は完了しました。


 「古事類苑」には、次のように記されています。

 

天皇卽位ノ後、使ヲ攝津國難波津ニ遣シテ、住吉神、大依羅神、海神、垂水神、住道神ヲ祭リ、天皇ノ御衣ヲ納レタル筥ヲ搖動シテ禊ヲ修シ、祭リ訖リテ後祭物ヲ海ニ投ズ、是ヲ八十島祭トイフ


この祭儀は、勅使が乳母であり、付き従う官人も神祇官に所属しているため、元々は天皇自身に直結した私的な祭祀と考えられていたようです。

 

文献上は、850年の文武天皇から1224年の後堀河天皇までの22回が記録されていますが、記録に残されるようになったのは、官祭として盛大に執行されるようになってからとみられ、それ以前は、天皇の私的な祭儀、王権に関わる神秘の行事として記録されることなく継承されていたと考えられます。

 

この祭儀の起源は諸説あり、5世紀の倭の五王時代には、天皇自ら難波津に赴き、海原に向かって点在する島々を「大八洲(おおやしま)」にみたて、その精霊を天皇の体内に取り込むという古い大王祭祀があったとも言われています。

 

何よりもこの祭儀のクライマックスは、琴が鳴り響く中で、新たに即位した天皇の形代(かたしろ)というべき衣が海に向かって披露され、何かを取り込むかのように揺り動かされるところだと思われます。

その後海に投ぜられる祭物とは、前年の大嘗祭で天皇が着用した荒妙(あらたえ)という衣服をはじめ、鏡、玉、酒、米、アワビ、海藻等の海の幸などです。

 

琴の音に呼び寄せられるのは、海中深く鎮まっている海の神々でしょうか。

海に投ぜられる祭物の数々とは、海の神々への捧げものでしょうか。

 

ところで、この海辺の祭儀の様子は、神功皇后の御代、海神の使いであった安曇磯良を誘い出すために、皇后一行が海中に舞台を作り神楽を奏したという伝説を思い出させます。

 

神楽の音に誘われて海中から現れた安曇磯良は、その手に潮を操る霊力を持つ潮盈珠・潮乾珠を持っていました。そして、その珠を得た神功皇后は、三韓出兵を成功させることができたのです。

 

 

古代、新たに即位した天皇は、一連の即位儀式を執り行ったのち、翌年自らの形代(御衣)を海辺へと遣わせました。

それは、「八十島祭」という海辺でのイニシエーションの形で「海神宮への訪問」を果たしたということなのかもしれません。

また、それは、とりもなおさず海神の霊力を付与され王者としての資格を得ることだったのです。