知っているようで知らない「因幡の白兎」の謎(その12.日本書紀の秘密①) | にゃにゃ匹家族

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新しい天皇陛下のご即位とともに「令和」の時代の幕が開けました。

ニュースでは、令和の御代を多くの人がそれぞれにお祝いし歓迎する様子が見られました。

最近では西暦を使う機会も増えましたが、やはり日本人は「元号」には愛着が深いようですね。

 

私たち日本人が千年以上にわたって、「天皇」を「和」の象徴として戴き、その御代の元号によって年月を記録してきた歴史に思いをはせると、今更ながらに感慨深い思いがしています。

 

ところで「天皇」という称号や、「日本」という国号はいつごろから使われ始めたのでしょうか。

 

諸説あるようですが、中国の史書や出土した木簡の記述の中に「日本」や「天皇」の文字が認められるのが、7世紀末~8世紀頃というのが現在のところ定説となっているようです。

673年に即位した天武天皇の時代から、国号が「日本」と定められ、王が「天皇」と呼ばれるようになったということですね。

第40代天武天皇(大海人皇子) 少し怖いお顔をされています。確かにカリスマ的なお方だったようです。

 

白村江の戦いでの大敗、その後の唐帝国の駐留占領という国家的危機を経て、672年壬申の乱を制した大海人皇子は即位すると、天武天皇として新しい国家「日本」を目指します。

 

「冠位48階制」や「八色の姓」によって、天皇を中心とした位階制度や氏族の身分秩序を定め、「大宝律令」の前身となる「飛鳥浄御原令」に着手し、律令国家としての基礎を作りました。

 

さらに、「日本書紀」や「古事記」の編纂を命じて、古来から天皇が一系にして日本国を治めていたという「国史」を記しました。

 

「日本書紀」では、初代神武天皇の即位を次のように記しています。

 

「辛酉年春正月庚辰朔、天皇卽帝位於橿原宮、是歲爲天皇元年」

(辛酉年(紀元前660年)、正月1日に、天皇は橿原宮で即位された。この年を天皇の元年とした。)

 

ここには、「天皇が帝位に就いて日本を統治し、ここから天皇の歴史すなわち皇統が始まる」ということが述べられています。

ちなみに旧暦正月1日を新暦に直した211日が、「建国記念日」になっていますね。

 

このように「天皇」を国の統治者と位置づけ、官制や律令によって臣民を治めるという天武天皇の国家ビジョンは、その後の日本という国の形(国体)を決定づけました。

 

政治の形(政体)は、鎌倉時代以降の武家の幕府政治、また、近代以降の立憲君主制などへと変遷を遂げましたが、天武天皇以降に名実ともに万世一系となった皇統は、千年以上を経た現在も続き、世界にも稀有な「国体」を維持しています。

 

今回は、「日本書紀」や「古事記」とは、当時どのような意図で編纂されたのか、その秘密や歴史背景を探ってみたいと思います。

 

 

1.大王(オオキミ)から「天皇」へ

 

日本の古代には、「日本書紀」や「古事記」に記されていない国々がありました。

 

福岡県の志賀島で発見された国宝「金印」(漢委奴国王)について、中国の「後漢書東夷伝」には、次のような記述があります。

 

「建武中元二年(AD57年)、倭奴国、貢を奉じて朝賀す、(中略)光武、印綬を以て賜う」

 

また、「魏志倭人伝」には、女王卑弥呼で有名な「邪馬台国」をはじめ、「狗奴国」や「伊都国」などがあったことが記されています。

 

しかし、これらの「奴国」や「邪馬台国」などについて、日本書記にはなんの記述もありません。

 

また、「宋書」によると、倭の五王と呼ばれる、倭国王「讃」「珍」「済」「興」「武」らは、宋代を通じて朝貢を続け、「安東大将軍倭国王」に任じられています。

 

「太祖の元嘉二年、また司馬曹達を遣わして表を奉り方物を献ず。讃死して弟珍立つ。使いを遣わして貢献し、自ら使持節都督倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓六国諸軍事、安東大将軍倭国王と称し、表して除正せられんことを求む。詔して安東将軍倭国王に除す。」

 

しかし、この代々の5人の倭王の事績についても「記紀」は、一言も触れていません。

 

これは、一体なぜなのでしょうか?

 

答えは、これらの国々はいずれも中国の冊封下にあったということです。

冊封を受けるとは、朝貢し中国皇帝の臣下となり、爵位や印綬を賜ることです。冊封を受ける側は皇帝の権威を背景に持つことで、外交や軍事、交易等で有利になるというメリットがあります。

 

しかして、天武天皇が「日本書紀」で示した「日本国」とは次のようなものでした。

 

日本書紀の神代上の冒頭

 

「古天地未剖、陰陽不分、(中略)故天先成而地後定。然後、神聖生其中焉。」

(昔、天地がいまだに分かれず、陰陽も分かれていないとき、(中略)よって天が先にできあがり、地が後からできた。そして、神がその中に生まれた。)

この後、神々は伊弉諾、伊弉冉をうみ、この二柱の神は、日本の国生みをします。

 

日本国は、このように天地の始まりのはるかな古へより、神々によってつくられた国であり、どの国とも対等な独立国であるというのが日本書紀の立場です。

ですから、中国に朝貢し臣従関係にあった「奴国」や「邪馬台国」「倭国」のことを記すことはありません。

 

「漢委奴国王」や「親魏倭王」「安東将軍倭国王」の「王」という文字は、冊封国の首長を意味します。


天武は、それまでの君主号「大王(おおきみ)」から「天皇」へ改称し、さらに独立国としての日本の成り立ちと天皇統治の正当性を「日本書紀」に表しました。


こうして「天皇」を頂点とする挙国一致をはかることで敗戦と皇位争いという当時の国家存亡の危機を乗り切ろうとしたと考えられます。

 

次回は、「日本国」や「倭国」が中国史書にどのように記されているか。「倭国」と「日本国」の関係について考えます。(続く)