知っているようで知らない「因幡の白兎」の謎(その10.海人族のルーツ) | にゃにゃ匹家族

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1.泉小太郎伝説

 

むかし安曇と千曲の2郡の間は、大きな湖で、そこには犀竜という女の竜神が棲んでいました。犀竜は、東の高梨という処に住む白竜王と結ばれて、やがて「泉小太郎」という男の子が生まれました。

 

小太郎は、母竜から離れ、人間の子として育てられますが、その脇腹には、生まれながらに鱗の文様がありました。

子太郎を育てたお婆さんは、成長した小太郎に告げます。

 

「太郎、お前の父は山に住んでいる白竜で、お前の母は湖に住んでいる犀竜だ。だからお前は神の子なんだ。お前は、力があるばかりでなく、人の気持ちがわかり、知恵も勇気もある。だから、あの湖の水を流して、広いたんぼを作っておくれ。」
 

母を探して旅に出た小太郎は、湖のほとりで母龍に再会します。

「僕はお母さんと力を合わせて、湖の水を流して、広いたんぼを作って、村人にお礼をしたい。」

「そうだね、お前と一緒ならどんなことでもできるよ。お母さんは岩にぶつかって穴をあける。そのため目が潰れるかも知れないが、お前は背中の上でしっかり舵をとっておくれ。」
 

犀竜はそう言うと、背中に太郎を乗せて湖の中に潜り、あらん限りの力をこめて岩にぶつかりました。その音は数日続き、母竜の目は潰れ、湖は血で赤く染まりました。
とうとう岩は大きな音と共に砕け、湖の水が滝のように流れ出しました。
水は犀川から千曲川へ流れ込み、越後の海へと注がれます。

後にはひろい平野が現れました。

小太郎はその平野で暮らし子孫繁栄したのだといいます。

 

 

昔見たテレビアニメ「まんが日本昔ばなし」のオープニングは、でんでん太鼓を持った童子が竜の背中に乗って天翔るシーンでした。それは「♫ 坊や、よい子だ。ねんねしな。」というテーマ曲とともに、とても印象に残っています。

これは「小太郎と母龍」というお話の最後の場面で、母と子の強い絆を感じさせる昔話として、今も多くの人に愛されていますね。

 

このお話のもとになったのが、上記の信州安曇地方に伝わる「泉小太郎伝説」です。

 

前回(その9)でもご紹介したように、日本列島は、古来より地質がもろく、また降雨が多いため、頻繁に山の崩落や土砂崩れを引き起し、国土全体が、湖沼や湿地に覆われていたといいます。

 

日本の各地には、この「泉小太郎伝説」に描かれたように神様が湖を突破り、干し上げることで、田畑を切り拓いたといういわゆる「蹴裂伝説」が、数多く残っています。

これらの伝説とは、古代から人々が湖沼を開鑿しながら田畑を切り開いていったという歴史があり、また、その技術に優れた「竜神」と呼ばれた人々がいたことを伝えているのではないでしょうか?

 

「泉小太郎伝説」には、そういった時代の人々の思いや願い、また開鑿事業にあたった「竜神」たちの労苦が表現されているようです。

 

2.「竜神」とは「海人族」だった。

 

「竜神」とは、どんな人々だったのでしょう。「泉小太郎」という名前にそのヒントが隠されています。

 

素潜りで漁撈をする人々は、「アマ」といって「海人」や「海女」と表記しますが、古代では、「白水郎」と書かれていました。

万葉集や日本書紀、肥前風土記などに、「アマ」を「白水郎」と記述した多くの例が見られます。

 

荒栲(あらたへ)の藤江の浦に鱸釣(すずきつ)る

白水郎(あま)とか見らむ旅行くわれを  

         柿本人麻呂  (万葉集1-23

 

この「白水郎」の名前の由来は、中国揚子江の異名である「白水河」にあります。

揚子江中下流域の潜水漁民が、「白水郎」と呼ばれていて、彼らは、「竜神」を信仰しており、その身に「竜蛇」の入れ墨を持っていたといいます。

 

「魏志倭人伝」に記された日本の倭の海人たちもまた体に入れ墨をして、潜水漁をよくしました。また、その使いが中国に出向いた際は、自ら「大夫」(中国周時代の官位の一つで領地持ちの身分)と名乗ったといいます。

 

男子無大小 皆黥面文身 自古以來 其使詣中國 皆自稱大夫 倭水人好沉没捕魚蛤

 

入れ墨”や”潜水漁””鵜飼漁”など倭の海人と中国華中華南の漁民には、多くの共通点があります。さらに倭の海人たちのルーツが中国にあると考えられていたことなどから、彼らは「白水郎」(アマ)いう名前で呼ばれるようになったのではないでしょうか。

 

「白」と「水」を、一字で書くと、「泉」になり、「白水郎」とは「泉郎」(=「泉小太郎」)と同義になります。また、泉小太郎の脇腹の「鱗の文様」は、海人たちががその身に刻んでいた「竜蛇の入れ墨」に通じます。

 

つまり「泉小太郎」という名前は、湖の開鑿などの土木事業を得手とする「竜神」が中国由来の海人族であると考えられていたことを示していると思われます。

 

3.太伯伝説

 

彼ら「海人族」は、中国華中華南地方の習俗を色濃く受け継いでいますが、実は、いくつかの中国の史書には、彼らが自らの起源について伝説を持っていたことが記されています。

 

3世紀に書かれた「魏略」逸文では、

其旧語自謂太伯之後  

(その昔のことを聞くと自ら太伯の後裔であると語った。)

 

正史「晋書」でも、自謂太伯之後と記され、また、「梁書」「北史」でもその記述は受け継がれました。

 

さらに、宋末に書かれた「通鑑前編」では、

日本いう、呉の太伯の後なりと。けだし呉滅んでその支庶(傍流)、海に入って倭となる。」

とあります。

 

倭の海人が、自ら語ったという「太伯の後」というルーツ。では、一体「太伯」とは、何者でしょうか。

 

「太伯」とは、春秋時代の五覇の一つ「呉」の始祖で、周王室の長男でありながら末弟に王位を譲って南の地に落ちのび、その地で「呉」の国を建国した人物とされます。

 

「臥薪嘗胆」の故事で有名な「呉越の戦い」の結果、BC473年に呉は越に滅ぼされます。国を失い、海に追い落とされた呉の民は、その後どこへ行ったのでしょうか。

 

彼らは、水稲耕作の文化をもち、漁撈や航海に長けていました。

敗戦の民である呉の一支族が、海を渡り新天地に降り立ったと思われるBC5BC4世紀ごろ、日本列島では西日本を起点として弥生式文化が始まっていきます。

東シナ海を海流に乗った彼らがそのころに日本にたどり着き、西日本の地に定住したと考えることは、無理な想像とはいえないのではないでしょうか。

中国浙江省の水郷風景   (人民中国インターネット版より)

中国華南地方は、古代から日本と強い結びつきがありました。

水運が盛んで「白水郎」が活躍しました。

近くには最古の稲作集落「河姆渡遺跡」があります。

遠景には、「呉越の戦い」の舞台となった「会稽山」が見えています。 

 

4.弥生時代を支えた海人「安曇族」

 

日本の海人族の雄は、北九州を根拠地とする「安曇族」です。

彼らが海に落ちのびた呉の民の子孫だとすれば、「臥薪嘗胆」を旨とする彼らは、日本の地に落ち着いてからも、呉の国の再興を期して、しばしば九州と中国を行き来したのではないでしょうか。

 

それは、何よりも中国大陸の戦況を知るためであったでしょうが、また、交易によって財力をつける目的もあったでしょう。

BC334年仇敵の越の国も滅びると、彼らはその交易活動をさらに発展させていきました。

交易活動に加えて戦乱の中国大陸から逃れてくる人々を運んでくることもあったようです。

 

春秋戦国時代に、儒教の教えを説いた孔子は、しかし、道の行われざることに絶望し、

いかだに乗って、海に浮かばん

と言ったといいます。孔子ですらそのように思ったのですから、戦乱から逃れて海外に渡ろうとする民は少なくなかったと思われます。

 

有名な「徐福伝説」では、徐福は数千人の童男童女や百工を率いて、日本に渡ったと言われていますが、それには、プロの海運業者の手引きがあったはずで、自らも渡航の経験を持つ「安曇族」はその適任だったと考えられます。

 

そうして日本へ渡った民の中には、養蚕や織物職人、また陶工、金工などがいて、日本へ新しい技術やの文化を流入させることとなりました。

 

優れた航海技術により、鉄などの貴重資源を輸入し開鑿などの土木事業に活躍した安曇族は、渡来民の入植を手助けすることで、技術や文化の受け入れにも大きな役割を果たしたのでした。

 

「竜宮小僧伝説」や「天の羽衣伝説」は、木工や機織りなどの技術を持つ渡来民と地元民の関わりが伝説となって言い伝えられてきたものではないでしょうか。

 

日本の各地には、信州の「安曇郡」をはじめ、「安角」「安住」「渥美」「厚見」「安曇川」など、「アヅミ」ゆかりの地名がたくさん見られますが、それらは、湖を開鑿したり、機織りや鍛冶職人の渡来人を定住させたりといった「安曇族」がかかわった由縁でついた地名なのではないでしょうか。

 

このように国づくりを支えた「安曇族」は、当然王権とも深い関わりを持つこととなります。

 

次回からは、安曇族が古代国家成立の裏方として王権に深いつながりを持ったこと、さらに、このシリーズのテーマであります「因幡の白兎」のワニとウサギの関係について考えてみたいと思います。