保守リベラル | 評議会のブログ

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「リベラル」は、だいたい2つの方向に分かれてく。権力が個人の内面とか人権とか財産権とかに土足で踏み込んで制約をするんはええもんやないと言う「権力からの自由」と、みんなの自由を実現する為には、国や権力が個人の領域に介入するとになる。

市場に任せとくと、格差や不平等が生じるから、金持ちからいっぱい税金をとって、みんなで分けて、各自が自由を追求するための基礎要件を国が賄うと言った権力が積極的に関わらせる。それが、真の自由に到達するという考え方になるわけや。福祉国家、マルクスの革命とかにつながる。

自由を求めると言いながら、人々の自由を制限し、その典型が共産主義やから、権力からの自由を求めるが、それは小さな政府になり、現代的な発展型としては、徹底して規制を緩和し、経済を自由な競争に委ねる新自由主義になっていったりする。

現代では、新自由主義経済が進んだ結果、いろんなところに歪みが生じ、格差が広がるグローバル資本主義の問題にぶつかってる。

要は、どっちもやり過ぎると問題が生じるから、真ん中の均衡状態を考える。バランスのとれたもんにせなあかんっちゅうわけや。

それが、「保守的リベラル」や。

統一教系ら、特にニッポン人らは、善悪の二元論にて天の父を基準にする言うんは表立ってのことで、自分らを「善」にして、自分らが描く神を善立てて来た。

せやから、均衡をとるにしても様々な善立てが拮抗する。善立てが善立てをして、嘘が嘘で塗ったくってくようになる。

辻褄が合わへんようになれば、相手の短所をピックアップして揚げ足をとっては悪立ててくことで、自分らは善であると思い込み、思い込ませてく。せやから、全体の流れが見えへんようになり、粒ひとつひとつを見て、見えへん全体を描いては、イメージを作り出してる。

バブル崩壊後の90年代以降に、この枠組みを踏襲し始めた。ソ連の崩壊、冷戦の終了で、やっぱり共産主義はダメやったとなったはええけど、共産主義を悪立ててその傘の下で自分らを善立ててきたもんがなくなるとなれば、アジアの悪と言うイメージがついた為、別の道を探した。

そこで飛びついたんがアメリカの枠組みで、「保守」に対する「リベラル」やった。それまでは、保守の方が「自分たちがリベラルだ」と言うてた。北朝鮮や中国は全然自由がない、ほんまの自由主義者は我々やと。

ところが、左派が「リベラル」と言い始めた頃、アホどもは同じくアメリカの枠組みを使って、「我々は保守だ」と言うようになった。

どうしても悪怯れることを避けたいが故に悪を悪とは思わへん性癖が身に付いてきた。

 

 

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