こんにちは。

 

今回は、主イエスの受肉について書きます。

 

これを知らんのやったら、キリスト者とは言えへん位に非常に重要な内容です。反キリストであるカトリックやカトリックに同調するプロテスタント、殆どの今日の教会が語るイエスは、聖書が証しする主イエスではありません。勿論、偽預言者のRAPTが語る「神様」というものも主イエスではありません。彼らの教えは、聖書を都合良く利用しとるだけで、聖書の真理に基づかへんさかい、信用に値しません。反キリストは、主イエスが神の子であることを否定するのではなく、主イエスが受肉され、人性を取られたことを否定します。これは反キリストの特徴の一つやさかい、よう覚えておいてください。

 

新約聖書 ヨハネの手紙一 四章二節〜三節(拙訳)

次のことによって神の霊を知ることが出来ます。イエス・キリストが肉体を伴って来はったことを公然と明言するすべての霊は神からのものです。そして、イエス・キリストが肉体を伴って来はったことを公然と明言せえへん霊はすべて神からのものではなく、これは、反キリストの霊であり、それが来ると聞いていましたが、今既に世に居ます。

 

同上 五節〜六節(拙訳)

偽預言者たちは世から出ており、それ故、世のことを話し、世は彼らに聞き従います。我等は神から出ています。神を知る人は我等に聞き従いますが、神から出てへん者は我等に聞き従いません。これによって、真理の霊と迷謬の霊とを知る。

 

これはまさに、偽預言者RAPTとそれに追従するRAPT信者たちや地上の諸教会と諸教派の自称聖職者らやそこに集まる信者たちを言い表してます。盛んにRAPTが世のことである陰謀論を一生懸命書き、RAPT信者はそれに関心を持って集まります。そして、陰謀論で人々の関心を集めた後で聖書を曲解した独自のRAPT教をRAPT信者に教え込んでいます。RAPT信者を見る限り、主イエスはそっちのけでRAPTを信じている状態に陥っています。カトリック信者も聖書を無視し、ローマ教皇や司教等の言うことを聞き、正教会信者は総主教等の言うことを聞きます。プロテスタントでは牧師らが聖書を無視して私的解釈やイエズス会由来の偽りの神学を吹聴して、プロテスタント信者らはそれを真に受けてます。皆が聖書を無視するさかい、父なる神と主イエスに逆らって背き去っています。彼らは聖霊ではなく、悪霊に満ちています。拙者にはそう見えます。彼らが、聖書の真理である拙者の言うことを受け入れへんのはこのためです。

 

さて、話を戻し、主イエスが肉体を持つ人となって来られたことは聖書にはいくつかありますが、例えば、以下です。

 

新約聖書 ヨハネによる福音書 一章十四節(拙訳)

言は人となって、我等の間に住みはった。

 

新約聖書 テモテへの手紙一 三章十六節(拙訳)

神は肉体において現され、霊において義とされ、

 

上の言(ことば)とは、主イエスのことであり、神が肉体を取られたともあり、それが主イエスです。しかし、人間性のある肉は悪です。肉は弱く、サタンが誘惑して罪を犯させる媒体やからです。主イエスを産んだマリアは当然に罪を犯したことがある普通の人間でした。結婚するまで処女を守るだけでは人生において罪を一度も犯さないことにはなりません。聖霊によって宿った主イエスは罪深い人間には普通は宿れませんでしたが、主イエス御自身が人間の形を取ることでマリアの胎に宿ることができたのです。そして、我々と同じ罪への弱さを持ってお生まれになりました。しかし、普通の人間とは異なり、聖霊によって宿ったので、マリアから罪を引き継ぐということも有り得ないのです。主イエスは我々と同じ肉体を取られましたが、決して罪を犯されませんでした。

 

新約聖書 ヘブライ人への手紙 二章十七節〜十八節(拙訳)

それ故、(イエスは)神に付随する慈悲深く信頼出来る大祭司となって、民の罪を償うために、すべての点で兄弟たちと同じようにならんとあかんかった。彼御自身、誘惑を受けて苦しまれたさかい、誘惑を受けている人たちを助けることが出来はるんです。

 

このように主イエスは我々人間と同じ経験をなさったさかい、我々人間に共感して憐れんで助けることが出来はります。

 

ところで、マリアと言えば、カトリックの無原罪懐胎という教義があります。そもそも、原罪というものは存在せえへんことは過去記事「聖書と主イエスの教えは嘘ではなく、真理です」で説明済やけど、この教義は、マリアが彼女の母親の胎にいたときから神の特別な計らいで汚れず、それからずっと罪を犯さへんかったというものです。そのマリアから生まれたからイエスも同じ性質を取ったという説明をカトリックは聖書に記載があらへん作り話を勝手にしてます。即ち、マリアは我々と同じ肉体と人間の本性を持ってへんということです。せやから、カトリックはマリアを聖なる存在として崇めています。このような理論は有り得ません。聖書的根拠が一切ありません。

 

新約聖書 ローマの信徒への手紙 八章三節(拙訳)

肉の弱さのために律法が出来んかったさかい、神は御自身の息子を罪の肉体の姿で遣わし、罪を滅ぼすために肉において罪を罰しはったんです。

 

上記から明らかのように、主イエス(御子)は人間と同じ罪への傾向を持った肉体を伴って地に来られたとあり、無原罪懐胎が虚偽であることが明白です。そして、どこにもマリアについて、彼女が神聖であるかのように伝える記述はありません。主イエスが地でなさったことは、神がその力で罪を滅ぼしたのではなく、我々と同じ人間の姿で罪に打ち勝たれました。肉は多くの問題や罪を引き起こすものですが、それでもなお、神である主イエスは罪を滅ぼすために敢えて肉体という形を取って罪に打ち勝たれたんです。

 

新約聖書 フィリピの信徒への手紙 二章五節〜八節(拙訳)

あんた方の内にこのことを気にしときなさい。それはキリスト・イエスにもあることです。彼は、神の様態でありながら、神に等しい者であることを固守すべきこととは思わず、むしろ自身を無にして、僕の様態を取り、人間の姿になりはりました。また、人間のようなやり方が見られ、謙虚であり、死に至るまで、十字架の死に至るまでも従順でした。

 

殆どのキリスト者は、主イエスの真実を知らへん。主イエスの本質を知らないのに、「神様」とか、「主よ」と言ったところで、主イエスは、「あんた方のことは知らない」と言われる(マタイ七章二十三節拙訳)のはこのとおりです。空虚な信仰です。殆どの人々は、主イエスは神やから罪を犯すはずがないし、我々人間とは違うのだから当たり前だとか思っています。しかし、これは聖書が教える主イエスではありません。主イエスは、我々と同じ肉体と立場を取られ、誘惑も受け、試練に勝利されました。我々人間は罪を犯す存在ですが、同じ人間という立場に立たれ、罪を犯さず罪に打ち勝った主イエスは、我々の問題を理解してくださいます。ですから、神は真実であり、公平な方です。主イエスの神性部分は、人間である我々にはその仕組みは理解し得へんさかい、知らないままで問題無いねんやけど、主イエスが受肉して、どのような人性を取られたかは知らなあかん事実です。主イエスは、系図上はダビデの子孫として、人間が神の掟を犯した人間の本性の影響を受けて、自らを堕落した人間にまで御自身を低くしはって来られました。

 

新約聖書 ヘブライ人への手紙 二章十四節〜十五節(拙訳)

それ故、子らは肉と血を共有しとるさかい、イエスもまた同様に、これらのものを共有しはりました。それは、死の権力を持っている者、つまり悪魔を死によってその権力を無効にし、ずっと死の恐怖で一生涯奴隷の状態に従属するすべての者たちを解放しはるためでした。

 

新約聖書 ヘブライ人への手紙 四章十五節(拙訳)

我等は我等の弱さに同情出来へん大祭司を持ってるんやなくて、罪を犯されへんかったが、あらゆる点において我等と同様に試練に遭われたんです。

 

大祭司は主イエスのことです。主イエスが我々人間と同じ立場であったことが明確に書かれてます。主イエス自ら人間となりはって、我々と同じ立場を経験しはったことで共感することが出来、人間の弱さを思いやることが出来はるんや。経験に基づかへん知識や理論だけでは本当に共感することは出来へんさかい。しかし、反キリストは、主イエスを心は神で、肉体だけが弱い人間だと言います。また、彼らは、空腹を感じたり、痛みを感じるというような身体の経験は我々と同じようにしたが、誘惑を受けても罪に勝利するという部分は我々人間とは違うと言い、完全には人間ではなかった扱いにします。何度も言いますが、主イエスは我々同じ人間の肉体(人性)を取って地上に来られ、あらゆる経験をされ、誘惑にも遭ったがそれに負けずに罪を犯さず、肉の欲に打ち勝ったのです。せやから、我々人間は主イエスによって希望と力を持てるんや。もし、主イエスが人性を取られずに神性のみしか持たない存在であれば、我々にはまったく希望はありまへんなぜなら、人間は神ではないので、同じことをすることは出来へんさかい。つまり、人性が無い神の言葉は人間に対して説得力が不十分ということです。罪を犯す可能性のある誘惑を受けること自体は、罪ではありません。誘惑に遭うこと自体が罪だと、誤った考え方をする人も居てるでしょう。しかし、罪を犯す可能性が無ければ、それは誘惑とは言えません。例えば、主イエスが地上に居はった約二千年前の当時と現在を比較して、ゲームや漫画、テレビ、映画というような娯楽が主イエスを誘惑することが無かったという主張をする人がいますが、これは実にくだらない考えです。こういう考えや疑問を持つ者は、主イエスの完全性を信じたくない、または罪から離れたくないためにこういう考えが出てくるのです。答えは、すべての意志を神に委ねるのか、サタンに委ねるのかの違いです。即ち、神とサタンのどちらにひれ伏すかという問題です。どちらにも委ねへん、「自分の心は自分のもんや」という人はサタンや悪霊に操られます。自分で気付かへんだけ、認めたくないと勝手に思い込んどるだけで、実際はそうなんです。そういう自我の強さは傲慢さに繋がり、神に敵対しとるからです。そう仕向けることでサタンはそういう人を滅ぼせるさかい。

 

主イエスは、人間がどのようにすれば神の掟を守って生きられるかを示すために、人間の形を取って地上に来られたのです。もし、人間を罪から救うことが、十字架での死だけで解決できるのならば、人間という形を取らず、神が天から降りてきてその場で「神である私が、多くの罪を犯す人間のために、代わりに私が死のう。」とでも言って死なれた方が分かり易かったでしょう。しかし、神は、そのような方法を取りはらへんかった。なぜなら、そのような方法では人間を罪の報酬である死から救うことを根本的に解決出来へんからや。神の最終目的は、この地上で楽園を造ることではないし、次の世で永遠に生きるために罪とは無縁でなくてはあかんからや。人間はよく言い訳をします。例えば、「自分が罪を犯すのは悪い遺伝子のせいだ。」とか、「親や先祖が罪を犯す人間なので、その遺伝を受けた自分も罪を犯すのは避けられない。」というようなものです。このような言い訳が出来へんように、主イエスは我々と同じ肉体を取られたのです。主イエスの死まで父なる神に従順な生涯(フィリピ二章六節〜八節)は、不従順な人間に反論の余地を無くしました。

 

新約聖書 ヘブライ人への手紙 二章十一節(拙訳)

実に、清める方も清められる人たちもすべて一つの源から出てるからや。それ故、(イエスは)彼らを兄弟と呼ぶことを恥としはらず、

 

しかし、生まれ変わった人と主イエスの品性が、すぐにまったく同じになるということではありません。なぜなら、主イエスは常に聖霊に満たされて、一度も罪で汚れたことがなく、人間の模範となる存在だからです。一方、主イエスを信じて洗礼を受けて生まれ変わった人は、過去の罪への傾向と将来においても罪を犯す可能性になる誘惑と戦い続けて成長しなければならない段階があります。死まで従順であってこそ、また、神への愛故に神の掟を守ることを自分の命よりも重要と思って殉教をも辞さない数少ない真のキリスト者だけを主イエスは兄弟と呼ぶことさえ恥じはらへんということです。なぜなら、主イエスがその人生を地上で生きた際に成し遂げはったことやからです。それを人間にも真似て欲しいと父なる神と主イエスは思し召しです。そのために主イエスは目に見える模範となられたんや(一世紀当時生きた人間だけが直接目で見れたという意味で、後世を生きる人々は聖書で確認出来る)。せやから、真のキリスト者と、主イエスを信じない不信仰の者、異教徒、生まれ変わったと勘違いしとるにわかキリスト者とは天と地の差があります。以下の聖書の箇所です。

 

新約聖書 ローマの信徒への手紙 八章七節〜九節(拙訳)

なぜなら、肉の気質は神に対する敵意で、神の律法に服従してへんからで、従い得ないからや。肉の支配下にある者は、神を喜ばせることも出来へん。しかし、神の霊があんた方の内に住んどる限り、あんた方は肉の支配下にあるんやなく、霊の支配下にあります。しかし、もし誰かキリストの霊を持ってへんなら、その者はキリストのもんやない。

 

肉の支配下にある者というのは、主イエスを信じてへん人と、主イエスを信じるとは口先だけで言うものの本物の信仰を持たず、聖霊を受けて生まれ変わっておらず、神の律法を守ってへんにわかキリスト者のことです。即ち、その人の気質は神の律法に服従せんと神に敵対しとるということです。キリストの霊、即ち、聖霊の支配下にある人間でなければ神の律法を守って神に服従することは出来へんということや。我々人間は、主イエスのように、生まれながらに聖霊に満たされることはありません。しかし、主イエスに対する信仰を告白して洗礼を受けた人ならば、それ以後聖霊に満たされることは出来ますが、注意が必要です。聖霊に満たされても、我々の人間の本性は残ったままです。せやから、我々は死ぬまで誘惑や試練と戦い続けなあかんのや。人間の本性を持つ以上は、それらから解放されることはありません。生まれ変わった人間から肉の本性が無くなるのは、キリストの再臨時、終わりのラッパが鳴るとたちまち一変されます(コリント一 十五章五十二節参照)。重要なんは、キリストの勝利と従順は、人間としての性質において成されたということです。主イエスの人性について、カトリックやプロテスタントをはじめ、多くの偽善者や偽預言者が誤った教義を広めた結果、キリスト者と称する者たちは多くの過ちを犯しています。もし、あんたが主イエスの神性のみばかり注目して人性を無視するならば、主イエスの受肉という真理から離れ、反キリスト側につくことになります。主イエスは、我々に人間としての模範を見せられただけではなく、「人間は神の律法を守ることが出来ない。」というサタンの嘘を否定するために、地上で完全やったんです。サタンは、「神は人間が守れないような掟を人間に与えた。だから、人間はその掟を破るのだ。」と神に主張し、神はそれに対する答えを与えなければあきませんでした。その答えが主イエスの受肉です。もし、主イエスが受肉して人性を取られへんかったなら、サタンは主イエスに対して、「あなたは神だから罪を犯さなかったのだ。」と反論するでしょう。実際は、主イエスは人間として地上に来られ、人間として誘惑や試練を受け、人間が出来る従順によってサタンを黙らせることができたのです。しかし、それでもサタンは、「主イエスが神としての力を使わなかったかは証明出来ない。」と主張するかもしれません。しかし、主イエスは、罪の贖いのための犠牲となるだけに地上に来られたのではありません。人間が信仰によって神の律法、掟、戒めに従えることを証明する模範となるために来はりました。多くのキリスト者は、犠牲となった主イエスを愛していると口先だけで言うが、それだけではまったく不十分です。主イエスは、我々が歩むべき道を示され、神に従順になれるかを教えられ、行動によって、どのようにして我々が神に従うのかを見せてくださいました。その主イエスの愛に気付いて、真似て行いで示すべきです。我々は主イエスを信じて、聖霊を受けて生まれ変わって、主イエスのように罪に打ち勝つ者になれるのです。主イエスの受肉という真理こそが、朽ちることのない福音であり、キリスト者の基礎を成すものです。これを知らずして、キリスト者と名乗る者は、にわか信者です。幼児洗礼や儀礼的に洗礼を受けても関係ありません。聖書を字面だけ追って読んだり、RAPTのような偽預言者や偽善者が、聖書を都合よく引用するだけで真理を説かないサタン崇拝者の言うことに耳を傾けてはいけません。

 

主イエスの真実を知っていただけましたでしょうか。十字架は救いを与える単なる出来事や見世物ではないのです。主イエスは、我等と同じように誘惑や試練に遭い、人間としての悩み、苦しみも経験されました。同じユダヤ人でありながら、他の律法学者やファリサイ派の人々からは妬まれ、忌み嫌われ、悪霊レギオンに取り憑かれた人を癒しても家畜の豚を失った人々から町から出て行くように言われたり、故郷のナザレでは崖から突き落とされそうになったり、受け入れられませんでした。それでも、一切、人々に対して暴言を吐いたり、呪ったり、破滅を祈ったり、復讐したりしませんでした。我等が清められた真のキリスト者となるために、主イエスは地上に来はったのです。今回書いた内容は非常に重要な内容です。是非、この内容を忘れず、主イエスを信じ、聖書にのみ根拠を求め、他の偽善者や偽預言者の言うことや世に出回る解説本等に騙されないでください。

 

拙者は一人でも多くの人が救われるように願っています。

 

以上