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 プライベートで弁護士であることを言わないことが多いのですが、ふとしたことで知られると、「ちょっと相談にのってもらっていい?」と言われることがあり、話しをきいてみると、相当なモラハラがあり、結局その後に離婚にいたったママ友が何人もいます。見知らぬ弁護士に相談をするのにはハードルが高いけれど、知り合いに気軽に相談できるなら相談したいと思うくらいの抑圧を感じている人は多く、昨日ご紹介した、『坂の途中の家』のような家庭は、日本中にごろごろと転がっています。韓国の小説『82年生まれ、キム・ジヨン』を読んで、他人事に思わない人は、日本にも多いと思います。

 私は、共同親権導入に反対するためにツイッターを始めましたが、私の目標は、学校・職場・家庭という集団のなかで、個人が個人として尊重される社会の構築にあります。個人の尊重は憲法13条で保障されている人権ですが、憲法に記載されている人権は、当然に与えられてきたものではなく、かつて侵害されてきた人権のカタログだから、不断の努力で護ることが必要です。今日は、家族について思うところを述べます。

 憲法24条は、家庭生活における個人の尊厳と両性の本質的平等について保障していますが、家族の中で個人の尊厳が侵害されやすく、両性の本質的平等が保たれてこなかったという過去を表しています。

  DVの構造は、圧倒的な力の差で相手を押さえつける人間関係にあります。人と人との距離が近く、日常生活のすべてにおいて自分の言動が批判的に審査され、一言発するにも、「ばかにされないか」「怒られないか」「揚げ足をとられるのではないか」など、脳をフル回転させて緊張感にさらされる。「機嫌のいいときもあるんです」などと言いますが、よく思い出してください。彼の機嫌がいいときですら、「いつ地雷を踏むだろう」とドキドキしていて、心安まるときなどないのです。

 DVのある家庭では、「力による支配」という構造により、人と人との虚偽が近く、個人の尊厳をふみにじる過干渉が生じています。そして、その近すぎる距離を、加害者も被害者も「愛情」だと勘違いして、共依存状態に入る・・・。

 DVのある家庭で、子どもは被害者とともに加害者の虐待の対象となる場合も多くありますが、加害者のターゲットが配偶者だけになる場合もあり、サバイブするため、加害者とともに加害者としてふるまわざるを得ず、被害者が黙っていればうまくいくと思い込むようになることもあります。母親がボコボコに殴られているのに、別居すべきでないと言いに来た子どもに、その理由を尋ねると、「家族だから」「絆があるから頑張らなくちゃダメだ」などと言いました。

 

 自分だけ安全なポジションにいることをよしとせず、加害と被害を公平に見極める子どもは「天使」だと思います。教室でいじめが起こったときに、被害者の手をとって、たちむかえる子どもは、人格がすぐれた「天使」であり、被害者の意向に影響されているという人はいません。

 

 DV家庭でも同じことが起こります。自分がターゲットになっていない子どもが、面会交流を拒むと、相手方が仲良し写真を出してきて、被害者に「子どもは私と会いたいはずだ。子どものために大人になれよ」と迫りますが、善悪を見極め、被害者をかばう子どももいます。それを監護親の影響を受けたとみることは不適切ではありませんか。その子どもの自尊心を軽くみるべきではないと、私は思います。

 人と人との距離が近いことは、時として重篤な被害を生み出します。令和元年度の犯罪情勢によれば、殺人(既遂)の検挙件数248件のうち、配偶者間の事件は53件に及び、殺人既遂事件の5分の1をこえています。安心安全であるべき家族が、家族であるが故に危険であるともいえるのです。

 個人の尊厳がまもられていない家族が離婚した後に、過度な共同養育が義務づけられることが恐怖です。令和元年度の司法統計によれば、妻が申立人となった離婚調停44040件のうち、「暴力をふるう」が9039件、「精神的に虐待する」が11094件。冒頭にも書きましたが、感覚的にはさもさりなんという数字です。

 共同親権推進派の中には、自分はDVと関係がないと思っている方もいらっしゃるかもしれません。でも、DV加害者が、共同親権推進の活動の輪に加わっていることを否定できる人はいないと思います。「子どもは親に会いたいはずだ」「共同養育をすることが良いことである」という価値観自体、DV・モラハラの被害者にとって「暴力」を内在しているということを考えてみて欲しいのです。ここ数年、日本の司法は、面会交流原則実施論といわれてきました。親子の断絶を招いた原因は、本当に単独親権制度なのでしょうか?

 

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