『日本国紀』読書ノート(199) | こはにわ歴史堂のブログ

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199】「農地改革」はアメリカの社会実験ではない。

 

「…GHQの一番の目的は、日本を二度とアメリカに歯向かえない国に改造することだったが、共産主義者やそのシンパは、日本を大きな社会実験の場にしようとも考えた。」(P436)

 

と説明されていますが、GHQの目的は、非軍事化・民主化を通じて日本社会を改造し、アメリカだけでなく、東アジア地域にとって日本が再び脅威となることを防ぐためです。あくまでも百田氏による独特な解釈に過ぎません。

「共産主義者やそのシンパ」が「社会実験」をしようとした改革でももちろんありません。

「五大改革指令」のうち、婦人参政権の実現、はすでにアメリカを初め世界の思潮でした。労働組合の結成奨励は、アメリカのニューディール政策の中ですでに実行されていることです。教育の自由化も、まずは外枠の学制の改革で、教育使節団の調査と勧告によって1947年から法整備(教育基本法・学校教育法)されています。秘密警察および治安維持法の廃止も、戦前の総動員体制の除去ですからポツダム宣言にもとづくものです。財閥解体はすでにアメリカで実施されている反トラスト法をもとにしていますし、農地改革などは自作農の創出が目的です。地主と小作の対立構造は戦後日本の貧困化が進むと社会主義革命の温床にもなりかねません。むしろ自作農創出は、フランス革命以来、農民の保守化をもたらすもので、日本の資本主義国化、「赤化」を防ぐという意味でも有効でした。

世界史的な観点から眺めれば、GHQの改革は「共産主義やそのシンパ」による「社会実験」である、などという言説は成立しません。

 

「一般企業でも労働組合が強くなり、全国各地で暴力を伴う労働争議が頻発した。これらはソ連のコミンテルンの指示があったともいわれている。」(P435)

 

の説明にいたっては意味不明です。「ソ連のコミンテルン」などは戦時中に解散しています(1943年5月)し、コミンテルンの幹部はみなスターリンによって粛清されています。その後継組織のコミンフォルムは194710月ですから、GHQの改革とはまったく無関係です。

https://ameblo.jp/kohaniwa/entry-12445732189.html

https://ameblo.jp/kohaniwa/entry-12448009857.html

 

「財閥解体」「農地改革」については以前にも少し説明しました。

https://ameblo.jp/kohaniwa/entry-12431453664.html

https://ameblo.jp/kohaniwa/entry-12439535011.html

 

さて、「農地改革」についてですが。

 

「この改革は実は戦前の日本でも検討されていたが、財閥や政界有力者、華族の反対が強く、実現できずにいた。それをGHQは一種の社会実験として行なった(こんなことはアメリカでは絶対にできなかった)。」(P437)

 

と説明されていますが、「農地改革」はアメリカにできないことを日本で「実験」的におこなったものではありません。

そもそもアメリカは、建国以来、「独立自営農」というのが基本で、農地改革のようなことをする必要はありません。南北戦争中でもホームステッド法を出して公有地を自ら開拓すれば無償で土地を得られるようにしていて、「自作農」創設は「実験」でもなんでもなく、アメリカを中心とするGHQだから推進できた改革ともいえます。

 

「『農地改革』は現代でも進歩的文化人といわれる人たちや唯物史観論者に過大評価されているが、理由は共産主義の「配分」に近いからだ。」(P438)

 

と説明されていますが、農地改革を過大評価している「進歩的文化人」や「唯物史観論者」はどなたでしょうか。

農地改革の「過大評価」というのがどのようなものかが示されていないので何ともいえません。目的と結果が一致している場合は、それは過小でも過大でもない評価、と言うべきで、その点、「寄生地主制の除去」「自作農創出」が目的で、農地の半分を占めていた小作地が1949年には13%となり、3割ほどだった自作農が、1949年には約6割となりましたから、目的と結果は一致しており、教科書をはじめ、「過大評価」は説明されていないのが現状です。

 

「しかし現実には日本の地主の多くは大地主ではなく、小作農からの搾取もなかった。」(P438)

 

と説明されていますが、地主が大地主か小さい地主かは問題ではなく、寄生地主制を除去し、自作農をつくることが目的です。「農地改革」を誤解されていると思います。

また、「搾取」に関しては、その定義にもよりますが「地主」は地価に税をかけられ、現金で納めるのですが、小作人は地主に小作料を「現物」で納めていました。

つまり、地価に課せられた税は一定ですから、地主は小作料を引き上げれば差額の利益を増やすことができました。良心的な地主も多数いたことは確かですが、地主-小作の貧富の差は激しく、経済力の差と社会的威信の差は明確にありました。

 

それから、唯物史観、社会主義的な視点から農地改革をみると、これはむしろ農民の保守化を促す政策で、むしろ「評価」はされていません。

1946年に再結成された「日本農民組合」を中心とする農民運動は、農地改革を後押ししましたが、農地改革が終わると急速に収束し、194712月以降、農業協同組合(農協)が各地に設立されました。自作農となった農民は保守化し、独立後の議会では、保守系議員の票を支えていくようになります。

 

「一見公平に見える農地改革だったが、弊害も小さくなかった。」(P438)

 

としてあげられている以下の説明は、「弊害」の説明としては誤っています。

 

「戦後、日本の食料自給率が先進国の中で最低水準になった原因」(P438)は「農地改革」にあるとは普通説明しません。自給率が半分くらいになったのは1980年代で、1965年あたりから低下していきます。これは高度経済成長による日本の工業化、第三次産業の増加に原因を求めるのが普通です。

 

また、「(地主が分散したことで)都市開発や道路建設の用地買収交渉が困難となり、経済の停滞につながった。」(P438)という説明は、インターネット上の説明にもみられますが誤りです。そもそも「高度経済成長」の説明と矛盾しますし、何より百田氏自ら「地主の多くは大地主ではなく…」と説明されています。

1941年と1950年の「経営耕地別農家比率」が教科書などにも紹介されています。

「5反以下」は32.9%から40.8%、「5反から1町」は30.0%から32.0%です。

「1町から2町」は27.0%から21.7%、いわゆる2町以上の大地主は10.1%から5.5%です。用地買収が困難になるほどの変化はほとんどありません。

 

よって「農地が細分化されたことによって効率が悪くなり…」という説明も適当とはいえません。むしろ、小作人から自作農になったことによる生産意欲が高まる、というメリットのほうが大きく、農地の機械化や多様な農作物の栽培、ということにつながったと説明すべきです。

 

「農地改革」によって「神社がさびれた」(P438)という説明にいたっては、「弊害」といえるようなものではありません。地方の神社の建物や祭礼を支えてきたのが地主で、財力を失ったから神社が荒廃した、という説明はどうなのでしょうか…

国家神道として、国費から幣帛を支給されていた神社も多く、神道指令による神社の国家管理が失われたことを理由にするほうが適切ではないでしょうか。

「日本の伝統の拠点」の一つが神社であったことは否定しませんが、戦前は軍国主義に利用され(1938年から1945年まで)、本来の地元との深いつながりがあった祭礼や信仰はむしろ中断されていた側面もあります。

戦後は、むしろ旧来の伝統や地元の人々の本来の信仰が回復された地域も多かったことを忘れてはいけません。