『日本国紀』読書ノート(182) | こはにわ歴史堂のブログ

こはにわ歴史堂のブログ

朝日放送コヤブ歴史堂のスピンオフ。こはにわの休日の、楽しい歴史のお話です。ゆっくりじっくり読んでください。

テーマ:

182】ドイツに原爆を投下せず、日本に投下したのは人種差別とは断言できない。

 

「アメリカ軍による最も残虐な空襲は、同じ年の八月に、広島と長崎に落とした二発の原子爆弾(原爆)だった。これも無辜の一般市民の大量虐殺を意図したもので、明白な戦争犯罪である。この時点で日本の降伏は目前だったにもかかわらず、人類史上最悪の非道な行為に及んだことは許しがたい。」(P493)

 

いささか、唐突に説明が始まりました。

たいへん同意できる部分もあるのですが…

1945年3月の東京大空襲以降、各都市への空襲が続きましたが、「その流れ」で8月の原爆投下に至ったわけではありません。

 

「この時点で日本の降伏は目前だった」のでしょうか…

戦う能力が無いことと、負けを認めないことはまた別です。

1945年7月、小磯国昭内閣にかわって鈴木貫太郎内閣が発足しました。

「あくまでもこの戦争を完遂すること」「本土決戦のための陸軍の企図する諸政策を具体的に躊躇なく実行すること」を入閣条件として阿南惟幾陸軍大臣が就任しています。

戦局があらゆる面で絶望的になっているのに、満州から3個師団、1戦車師団を転用し、本土の在来師団を再編成しています。

そして大本営直轄の東日本の作戦担当として第一総軍、西日本の作戦担当として第二総軍、および航空総軍を新設して、「本土決戦」の構えをつくりました。

「決戦訓」も示達されています。

私の叔父たちはみな軍人でしたので、「決戦訓」、暗記しており、よく聞かされました。

「皇軍将兵は、皇土を死守せよ。」

「皇土は天皇在しまし、神霊鎮まり給ふの地なり。誓って外夷の侵襲を撃攘し、斃るるも尚魂魄を留めて之を守護すべし。」

「挙軍体当り精神に徹し、必死敢闘、皇土を侵犯する者悉く之を殺戮し、一人の生還なからしむべし。」

杉山第一総軍司令官も「敵の一人を斃すに我が一〇人を犠牲とするも敢て辞せず。」と指示しています。

また、8月までの終戦工作においても、朝鮮は留保し、満州帝国の独立を維持する、ということを条件として展開しています。

8月までの段階で、これではとても降伏目前だったとはいえない状態でした。

(『戦史叢書 本土決戦準備()』防衛庁防衛研修所戦史室・朝雲新聞社)

 

すでに日本は「特攻」を実現し、本土決戦も辞せず、そしてなお朝鮮半島はもちろん、満州帝国も維持しようとする態度を示している以上、「戦争を早期に終わらせる」ことをアメリカ軍は考えざるをえませんでした。

そこで、1945年7月、ドイツ降伏後の処理と、対日降伏勧告のためにポツダムで米・英・ソの首脳が集まり、米・英・中の3ヵ国の名でポツダム宣言を発しました。

ポツダム宣言に対して、日本政府はこれを拒否する声明を出すのではなく、しばらく意思表示をしないこととしたにも関わらず、「態度を明確にしないのはいかがなものか」と軍部におされ、7月28日に記者会見をしました。

 

「私は、三国共同声明はカイロ会談の焼き直しと思ふ。政府としては何等重大な価値あるとは思はない。ただ黙殺するのみである。」

とし、さらに

「われわれは断乎戦争完遂に邁進するのみである。」

と発表しました

 

「黙殺」は“no comment”ではなく、「われわれは断乎戦争完遂に邁進するのみ」と直後にあることから、“ignore”と訳されてしまいました。

こうして8月2日、ポツダム会談は終了し、3日に原爆投下作戦が発令されたのです。

 

「原爆の効果を知る実験」と言える側面もありますが、「吾等の軍事力の最高度の使用は日本国軍隊の不可避的且完全なる破壊を意味すべく、又同様必然的に日本本土の完全なる破壊を意味すべし」とポツダム宣言にある「警告」を“ignore”している、とアメリカが解釈していることも理解しておく必要があります。

核兵器という「軍事力の最高度」を使用することを決めた以上は、当然、その効果を知るための準備もするでしょう。

「原爆の効果を知るために投下した」と考えるか「原爆の投下をする以上はデータを採るのは当然」と考えるかは、史料的には前者より後者のほうであったと思います。

 

「何より忘れてはならないのは、原爆投下には有色人種に対する差別が根底にあるということだ。仮にドイツが徹底抗戦していたとしても、アメリカはドイツには落とさなかったであろう。」(P403)

と説明され、その根拠として、

「昭和十九年(一九四四)九月にニューヨークのハイドパークで行われたルーズベルト米大統領とチャーチル英首相の『核に関する秘密協定』において、原爆はドイツではなく日本へ投下することを確認し合っているからだ。」(同上)

と説明されています。

 

でも、これはどうでしょう。そもそも1945年7月16日に史上初の原子爆弾実験が成功しています。そして1944年9月の段階ではドイツの主要都市は「原子爆弾」で破壊する意味が無いものがほとんどでした。「東京はその後も何度か大空襲に遭い、全土が焼け野原となった。アメリカ軍はその年の五月に東京を爆撃目標リストから外したほどだ。」「原爆投下候補地にはそれ以前、通常の空襲を行なっていなかったことが挙げられ…」と百田氏自ら説明されている通りで、ドイツはまさにこの状況だったからです。

 

「原爆投下の目的は、ソ連に対しての威圧だった。アメリカは戦後の対ソ外交を有利に運ぶために原爆投下を昭和二〇年(一九四五)の五月には決定していた。」(P403)

 

1944年9月にイギリスとアメリカが秘密協定で「原爆はドイツではなく日本へ投下することを確認し合っている」と説明されています。だとすると日本に原爆投下をすることはすでに確定済みだったのではないでしょうか… 

「ソ連対する威圧」であったことは確かですが「戦後の対ソ外交を有利に運ぶため」という説明は微妙に違います。

 

ポツダム会談は1945年7月17日から開催されました。

この段階ではトルーマンには前日の原爆実験の成功の報告が届いていませんでした。

アメリカは早期の戦争終結をのぞんでいたので、先のヤルタ協定でソ連が参戦するかどうかを気にしていました。

そこでスターリンに確認すると、スターリンは8月15日に参戦する、と告げたのです。

これにトルーマンは安心したのですが、そこに原爆実験成功の報告が届いたのです。

トルーマンは方針を急遽変更し、原爆投下で早期に日本を降伏させ、ソ連の対日参による日本の占領を最低限にとどめようと(あるいはうまくいけば阻止しようと)したのです。(『トルーマン回顧録』恒文社)

「戦後の対ソ外交を有利に運ぶ」ためではなく「対日戦をアメリカに有利なように終わらせる」ために原爆投下を急いだというべきでしょう。

 

原爆投下は、着々と進める壮絶な国をあげての抵抗をおそれたものでもあり、警告を無視された結果でもあり、人種差別でもなく、実験でもなく実行されたものでした。さらに、ソ連への威圧の目的は、「戦後の外交」よりも「有利な終結」にあったのです。

『原爆投下への道』(荒井信一・東京大学出版会)

『十五年戦争小史』(江口圭一・青木書店)