『日本国紀』読書ノート(177) | こはにわ歴史堂のブログ

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177】アメリカの大規模な反攻が無いから講和を進めなかったわけではない。

 

「昭和一八年(一九四三)の時点で、日本の国内経済はすでにガタガタになっており、生産力は著しく低下し、戦争の継続の見通しは立たなくなっていたが、アメリカの本格的な反攻がないため、講和の画策もしなかった。」(P398P399)

 

まるで講和を考えなかった原因がアメリカにあるかのような説明です。

戦争の継続の見通しが立たなくなった段階で、終戦を考えてもよかったはずですが、1943年段階では東条内閣は講和など一切考えていません。

そもそも「中国大陸に限っては戦いを有利に進めていた」(P399)と説明されているように、1943年に入ってからも、フランスとは「共同防衛協議」をおこなって広州湾に軍を進駐させ、揚子江(現在の長江)北部、武漢西方に第11軍を展開させて中国の守備隊を壊滅させています(①江北殲滅作戦)。さらに同5月には洞庭湖西方、長江南部に第11軍は進軍し、民間人を含む中国軍3万人を殲滅しました(②江南殲滅作戦)11月には、湖南省北部で中国軍と激突しています(③常徳会戦)

そして1944年からは「④打通作戦」を展開します。

これは中国大陸縦断作戦とでもいうべきもので、中国内陸部の連合軍基地の破壊、仏印への陸路を開くことを目的としたものでした。投入総兵力はなんと50万人。800台の戦車、7万の騎兵を用いて作戦距離は驚きの2400㎞。そして、この作戦は成功しているんです。

「国内経済がガタガタ」で、「生産力は著しく低下」していて「戦争の継続の見通しは立たなくなっていた」はずなのに、1943年以降、①~④の軍事作戦を次々展開し、戦果をあげています(③の常徳会戦は成功・失敗、意見が分かれるところですが)

このような作戦展開が可能な理由は、資源・食料などを徹底的に「現地調達」したか、日本国内あるいは満州国・朝鮮で食料・物資を強烈に絞り上げて中国大陸に送っていたかのどちらか、あるいはその両方でしょう。

 

「アメリカの本格的な反攻がない」(P398P399)という説明もあまり賛同できません。

というのも42年3月からアメリカは「ウォッチタワー作戦」といって、東南アジア・太平洋諸島を、一斉に奪還する大規模な作戦を展開するからです。何より、「ガダルカナル島攻防戦」はこの作戦の一環によるものです。

 

「アメリカが一年間休んでいたわけでは決してない。ヨーロッパ戦線を戦いながら、日本への反攻準備を着々と整えていたのである。」(P399)

 

1943年2月、ガダルカナル島を奪われ、5月にはアッツ島の日本軍が全滅させられます。キスカ島も攻撃を受けましたが、7月、日本軍はなんとか包囲から脱出に成功しています。11月にはギルバート諸島のマキン島、タラワ島で日本軍が全滅しています。

「反攻準備」を着々と進めていたのではなく、着々と日本の勢力範囲を奪って縮めていっています。

1943年9月、ガダルカナル島失陥を受けて、御前会議で「今後採ルベキ戦争指導大綱」を決定し、「万難ヲ排シ概ネ昭和一九年ヲ目途トシ、米英ノ進攻ニ対応スベキ戦略態勢ヲ確立シツツ、随時敵の反攻戦力ヲ捕捉破摧ス。帝国戦争遂行上太平洋印度洋方面ニ於テ絶対確保スベキ要城ヲ千島、小笠原、内南洋及ビ西部ニューギニア、スンダ、ビルマヲ含ム圏域トス」として「絶対国防圏」を設定しました。 

以上からわかるように「アメリカの本格的な反攻がないため、講和の画策もしなかった。」(P399)というのは誤りで、むしろ「アメリカの本格的な反攻を受けても、戦いを継続し、講和を考えることは無かった。」と説明すべきです。

「絶対国防圏」を設定した、ということは、それは同時に、南太平洋の最大基地、ラバウル(10万人の兵を擁する)を含む「圏外」の日本軍は、置き去りになったことも忘れてはなりません。

 

さて、以下は、細かいことが気になるぼくの悪いクセなのですが…

 

「エセックス級空母が終戦までに十八隻就役した…」(P399)

 

と説明されていますが、17隻の誤りです。おそらく1945年就役の「プリンストン」を「終戦までに」と勘違いされていると思います。「プリンストン」は194511月就役しています。

 

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