【174】ガダルカナル島の戦いは根拠無くアメリカ軍の兵力を見積もったわけではない。
「もう一つ日本軍の大きな欠点は情報を軽視したことである。その典型例が昭和十七年(一九四二)八月に始まったガダルカナル島攻防戦である。」(P393)
と、説明されています。これに関してはまったく同感です。
ところが不思議なことを説明され始めます。
「この島をアメリカ軍に奪われたと聞いた大本営はただちに奪回を試みるが、アメリカ軍の兵力を二千人くらいと根拠もなく見積もり、それなら九百人ほどで勝てるだろうと一木支隊を送り込んだ。」(P394)
あれ? 変なこと言うなぁ、と思いました。
ガダルカナル島がまだ奪われていない段階で、一木支隊は「増援」として派遣されたのです。
アメリカ軍による完全な奇襲でしたが、日本軍は各地で敗れながらも徹底抗戦します。
それから、大本営は、「アメリカ軍の兵力を二千人くらいと根拠もなく見積も」ったのではなかったんです。
ちゃんと「二千人」の根拠を持っていました。
大本営は、海軍第11設営部隊からの情報、及び米軍の作戦を「漏らしてくれる」ソ連のルート(駐ソ武官からの情報)から、「アメリカ軍は2000の兵力でガダルカナル島の飛行場を攻撃・破壊するつもりである。」と考えていました。
ですから、ミッドウェーの上陸作戦のために準備していた一木支隊、つまり第7師団歩兵第28連隊2300名をただちに増援部隊としてトラック諸島におくり、第一梯団として916名がガダルカナル島にまず上陸したのです。
二千人くらいだから「それなら九百人ほどで勝てるだろう」と一木支隊を送ったのではありません。そもそもそれでも半数ですから、「勝てるだろう」とは考えていません。第2梯団、それから横須賀第5陸戦隊が後送されていました。
一木大佐が上陸するのに際して、「事前情報」として「連合軍は2000人ほど」と伝えられたのです。
2000人だから900人送ったのではありません。
情報収集能力が日本軍は低かったのです。
これとは対照的にアメリカ軍は、「コーストウォッチャー」(沿岸監視機関)という情報局を太平洋諸島に配備し、情報のみを専門的に集める組織を用意していました。
これにより、一連の日本の反撃行動、上陸はすべてアメリカ軍に把握されていました。
せっかく日本軍の弱点を「情報を軽視した」と指摘しているのに、その説明が「二千人くらいと根拠無く見積もった」こと、と説明したのでは不的確です。
「アメリカ軍陣地に突撃した八百人のうち七百七十七人が一夜にして死んだ。」(P394)
これも不正確な説明です。
8月20日の夕方6時からの戦闘が始まりましたが、夜10時半より、イル川を渡河する作戦を決行しました。しかし重火器をそろえていた米軍の攻撃を受けて、第一回の渡河で100名、第二回で200名ほどの犠牲を出してしまいます。
一木支隊は攻撃を停止し退却しようと、翌朝5時に部隊の状況を確認しているとき、アメリカ空軍機が一木支隊を見つけます。さらに迂回したアメリカ海兵隊が一木支隊の退路を断ち、包囲しました。最後の抵抗を試みますが、空軍機からの機銃掃射をあび、さらに6台のアメリカ軍戦車が投入され、一木支隊は壊滅することになりました。掃討戦も執拗で、海岸に追い詰められた兵士は狙撃されて命を落としています。
一木隊はアメリカ軍陣地に突撃して777人が死んだのではありません。
「その報を受けた大本営は、それではと今度は五千人を送り込んだ。」(P394)
これも誤りです。一木支隊壊滅の報が届く前に川口少将率いる部隊の輸送が始まっていました。
「結局、ガダルカナル島をめぐる攻防戦は半年近くにわたって行なわれ、日本軍は夥しい人的被害を出し大量の航空機と戦艦を失って敗退した。ガダルカナル島で亡くなった陸軍兵の多くは餓死だった。」(P394)
と説明されています。
ガダルカナル島に投入された日本兵は3万1000人以上で、撤退できたものは約1万人。戦死者は5000名で、1万5000人は餓死・戦病死と言われていますが…
撤退することが困難な負傷者には、捕虜となること防ぐために自決させるか(手榴弾などによる爆死)、戦友によって銃や銃剣などで殺害されているのです。
「生きて虜囚の辱めを受けず」という陸軍大臣であった東条英機が、1941年1月に発令した「戦陣訓」が実行された一例です。
実態は「陸軍兵の多くは餓死だった」というようなものではありませんでした。
『ガダルカナル戦記』(亀井宏・光人社)
『歴史群像』「ガダルカナル海兵隊戦記」(白石光・学習研究社)
『戦争体験の真実 イラストで描いた太平洋戦争-兵士の記録』(滝口岩夫・第三書館)
『失敗の本質 日本軍の組織論的研究』(戸部良一・中公文庫)
『ガダルカナル学ばざる軍隊』(日本放送協会取材班・角川文庫)