【175】フランスとは戦争をしていないし、「総力戦」を誤解しているところがある。
第11章以降、誤解や誤認の説明が増えてきました。
もちろん、著者の歴史観や思想・信条は自由なのです。でも、事実が誤っていたり誤解されたりしていると、それをもとにして生まれた歴史観は、やっぱり誤っている可能性が高くなってしまいます。
また、日本史の通史でも、近現代史は、ほとんど「世界史」と一体です。
世界史についての知識に誤りがあったり、その説明が不正確だったりすると、それと繋がる日本の歴史解釈にも誤りを及ぼしてしまいます。
「日本はアジアの人々と戦争はしていない。日本が勝った相手は、フィリピンを植民地としていたアメリカであり、ベトナムとカンボジアとラオスを植民地としていたフランスであり、インドネシアを植民地としていたオランダであり、マレーシアとシンガポールとビルマを植民地としていたイギリスである。日本はこれらの植民地を支配していた四ヵ国と戦って、彼らを駆逐したのである。」(P391~P392)
日本の支配に対して抵抗したゲリラや、各地の反乱、それを日本軍が掃討したことをご存知ないかのような説明です。
また、日本は、アメリカとは交渉を進めていました。真珠湾攻撃と前後しましたが宣戦布告をして戦争をしています。
これについても、「奇襲するつもりはなかった」「大使館のミスのせい」「アメリカの陰謀」などと、よく説明される方はいるのですが、イギリスについては、何の事前交渉も事前通告もなく、マレー半島を奇襲攻撃しているのです。不思議とこれについては誰も触れません。
フランスに関しては、仏印進駐の際に、陸軍の協定違反による強引な上陸で、フランス軍と戦闘になったことはありますが、ヴィシー政権とは戦争をしていません。
「また中国大陸に限っては戦いを有利に進めていた。」(P399)と説明されていますが、フランスの租借地広州湾を協定に基づいて日本軍は利用し、ヴィシー政権との友好関係(1942年2月21日・共同防衛協議)があったからこそ、有利に戦いを進められたといえます。フランスとは戦っていない、というべきでしょう。
意外に思われるかもしれませんが、オランダへの宣戦布告は、1942年1月に入ってからでした。
1942年1月に内閣が作成した「大東亞戦争ノ呼称ヲ定メタルニ伴フ各法律中改正法律案」の「説明基準」の中で、対オランダ戦と対ソ連戦を「大東亜戦争」に含む、と規定しました。
日ソ中立条約をやぶってソ連が侵攻した、とはよく言われますが、「関特演」にせよ「説明基準」にせよ、戦局によっては、日本は「北進」、つまりソ連と戦争をする計画であったことは明白です。実際、オランダとはこれに基づいて宣戦布告をおこなっています。
「大東亜戦争を研究すると、参謀本部(陸軍の総司令部)も軍令部(海軍の総司令部)も『戦争は国を挙げての総力戦である』ということをまったく理解していなかったのではないかと思える。」(P394)
と説明されています。まったく同感ともいえるのですが、後の説明を読むと、どうやら政治・経済・軍事の用語としての「総力戦」(教科書でも説明されています)という言葉を誤解されているようです。
「総力戦」とは、①強い権限を持つ政府あるいは軍部が、②軍需工業優先の産業に編制し、③女性や青少年を軍需工業の生産に動員し、④食料の配給制などを実施して、⑤国民の消費生活を統制する体制のことを言います。
この点、日本は「総力戦を理解していなかった」どころか、十分理解し、ルーデンドルフの『総力戦論』にも適合する、もっとも典型的な総力戦体制を作り上げることに成功しているといえます。
後にP394~P398で延々と説明される問題点は、総力戦体制をとったものの、敗戦してしまった国に共通する例にすぎません。
むしろ、インフラも整備されておらず、そもそも資源や物資が国内で自給できない状況で「総力戦」体制をとっていることが誤っていただけです。
また、陸軍・海軍によるさまざまな「不統一」「不一致」は、ドイツはもちろんアメリカでも見られていることで、「総力戦」とはまた別問題です。
「日本の同盟国ドイツでは軍需大臣のアルベルト・シュペーアが徴兵の権限まで持っていたため、一流の職人や工場労働者は戦場に送らなかった。」(P396)
と説明されていますが、シュペーアが軍需大臣となったのは1943年から2年間だけで、
1930年代後半から徴兵制や軍需の諸制度を整備、運用したのはトートでした。彼が死去した後、シュペーアが任じられたのです。
1943年以降、ヒトラーは閣僚に専門性の高い人物を任命しなくなっており、戦局の悪化が進むにつれて、自分の意を直接的に反映してくれる人物を選んでいます。
シュペーアは建築家で、「自分は門外漢」としてヒトラーに辞退を申し出たくらいでした。また、1944年1月から5月までは病気で入院しており、名前だけの軍需大臣でした。10月以降は、それまでの方針(戦争に必要な物資を調達するという方針)から、敗戦後のドイツをいかに早く立ち直らせるか、ということに切り替えていて、「一流の職人や工場労働者は戦場に送らなかった。」という方針はこの時からです。
また、ドイツが「戦争末期まで工業生産力が低下しなかった」というのも、シュペーアのこの方針転換以降です。
しかし、1945年にはヒトラーは「ネロ指令」を出して、ドイツ及びベルリンを「焦土」とし、敵に工業生産施設を使用されないようにするため、工場などの破壊を命じています。ですから大戦末期にはドイツの工業生産はゼロになり、工場などの施設は稼働していなかったのが現状です。
「…出世は陸軍士官学校と海軍兵学校(および陸軍大学校と海軍大学校)の卒業年次と成績で決められていたのだ。個々人の能力はほとんど考慮されない。」(P397)
という説明も、同意できますが、ただ、日清・日露戦争の「司令官」クラスは、薩長出身、つまり「個々人の能力が考慮されない」時代に選ばれた人々でした。
むしろ広く才能のある者を「平民」も含めて選出する士官学校の制度はそれなりに人材を集めていたことは確かで、一概に否定してしまうのはどうでしょうか。
「戊辰戦争や西南戦争を経験していた日清戦争や日露戦争の司令官クラスとはまるで違っていた」と説明されていますが、日清・日露戦争よりも戊辰戦争や西南戦争から学ぶことが多かったという説明には無理があります。
「戦争は局地戦で勝利を収めれば勝てる」というのが誤った教訓ならば、戊辰戦争や西南戦争から学んだ教訓こそこれに該当するはずです。
「宣戦布告の文書を、不手際でハル長官に手渡すのが遅れた日本大使館員」(P398)
と、またここでも批判されていますが、「答えのある問題には強いが、前例のない辞退への対応力は格段に落ちる」と指摘されているように、大使館員たちには、「日本がアメリカに攻撃をかける」ことは一切知らされておらず、しかも外相が、間違いが起こらないようにと「余裕」をもって提出させようとしたのに、海軍が作戦決行のできるだけ直前にまで引き延ばそうとして、「30分前にハル長官に手交するように」命じたから起こった「不手際」です。(大使すら、ハル長官に手渡して大使館にもどってから日本が攻撃を開始したことを知りました。)外交官を適切に運用できなかったのは、当然、大臣・軍部に責任にがあったと言うべきでしょう。
「これでは、宣戦布告の遅れを国が黙認していたと、アメリカに受け取られても仕方がない」(P398)
と、ありますが、アメリカが「国が黙認していた」と考えるのは、不手際の大使館員を処罰しなかったことではなく、事前交渉も通告もしていないイギリスに対して真珠湾よりも先にマレー半島に奇襲攻撃をかけたからです。
これでは「奇襲攻撃をするつもりはなかった」といってもアメリカには信用してもらえません。