【130】「バルティック艦隊」は世界最強というわけではない。
「ロシアの国家歳入約二十億円に対して日本は約二億五千万円、常備兵力は約三百万人対約二十万人だった。しかもコサック騎兵は世界最強の陸上部隊といわれ、海軍もまた世界最強といわれていた。」(P315)
「海軍もまた世界最強といわれていた」というのは、当時の世界の評価としては少し違うと思います。
前回、高橋是清が世界の投資家・銀行家たちに公債引き受けをさせるための苦労を「自伝」で説明していたことを紹介しましたが、これを読むと世界の評価は「陸軍はロシアが優位、海軍は日本が優位」というので定まっていたことがわかります。
これはバルティック艦隊の戦艦の指揮官でも認識していて、1904年10月9日の艦隊士官送別晩餐会(海軍司令官アレクサンドロウィッチ大公主宰)で、戦艦アレクサンドル3世の艦長ブファウォストフ大佐は、
「…我々は、ロシアが海軍国ではないこと、それに政治資金がこれらの艦船に無駄に使われたことを知っています。あなたがたは勝利をのぞまれたが、しかし勝利などはありえないのです。おそらく我々の艦隊の半分は、途中で失われるでしょう。たぶん私が悲観的過ぎるので、全艦艇はあるいは無事に黄海に着くかもしれません。しかし着いたとしても、東郷は、我々を木っ端微塵にしてしまうでしょう。東郷の艦隊は、我々よりはるかにすぐれており、それに日本人は根っからの水兵なのです。しかしここに、私は一つだけみなさなんに約束できます。ここにいる我々すべて、第二太平洋艦隊の全将兵は、少なくとも、いかに死すべきかは知っています。我々はけっして降伏しないでしょう。」(TOGO and the Battle of Tsusima N.F.Busch)
と説明しています。ロシアは海軍国ではない、日本の艦隊がすぐれている、という認識がみてとれます。
イギリス製の軍艦、規律・練度の高さは海軍の軍事専門家の中では当時世界的に有名で、とくに投資家・銀行家たちは、戦争の勝敗の行方は「ビジネス」と深くかかわっていることもあり、かなり正確に情報を集めていました。
「海軍もまた世界最強と言われていた」という言説は、ポーツマス条約の講和の不調に対する不満を緩和するために(日本海海戦の戦果を「大戦果」と誇張するために)流布されたものです。
「バルティック艦隊」について、いくつかの誤解を解いておきますと、もともと単体の艦隊として「バルティック艦隊」というものは存在しませんでした。
バルト海に展開している艦隊群を、極東の太平洋艦隊に編入するために、大移動させる、という計画をロシア海軍は立てました。
というのも、日本の連合艦隊と太平洋艦隊の勢力ではやや日本が上回っていたからで、追加艦隊を送り、増強する、という作戦です。
ミリタリーバランスを自国に有利にしてから戦闘を開始するのは常識。
そうして、バルト海の諸艦隊から艦艇を引き抜いて、第二太平洋艦隊を編成したわけです。
ですからこれに対する日本の対応策は明白です。
これらが合流すると日本に不利なミリタリーバランスになるため、すでにある太平洋艦隊を旅順港に閉塞し、第二太平洋艦隊と合流する前に、対馬海峡あるいは津軽海峡のいずれかでこれ迎撃する、という作戦になりました。
簡にして要なる作戦です。
1904年10月、第二艦隊が出発します。
ところが1905年1月、ロシアに旅順要塞陥落の報せが入りました。
これに焦ったロシアは、バルト海に残存していた艦艇をすべて結集し、第三太平洋艦隊を編成し、追加増援をおこないます。こうして、ロシアの海軍は、黒海艦隊をのぞいて、すべて日本に向けられることになったのです。
ですから、「世界最強といわれた」艦隊ではなく、旅順の第一太平洋艦隊と合流できれば、「ロシア最大といわれた」艦隊となる、と言うべきでしょう。
「陸軍は世界最強」、という評価をロシアは受けていましたが、海軍に関しては、当時はむしろ、日本が高く評価されていたのです。
以下は蛇足ながら…
「コサック騎兵は世界最強の陸上部隊」、と当時の軍事関係者はあまり思っていません。
「騎兵」が陸軍戦力で重要な役割を果たしていたのは19世紀前半までのことです。司馬遼太郎の『坂の上の雲』の中で、「日本騎兵の父」と称される秋山好古にスポットが当てられ、その活躍をクローズアップするためもあり、そのような表現がされましたが、当時はすでに「機関銃」が開発されていて、騎兵は前時代の産物になりつつありました。
秋山好古も騎兵ではなく、機関銃を使用してコサック騎兵を撃退しています。