現在の教科書からは、
「士農工商」
という表現は消えました。また、これと関連して明治維新の「四民平等」という言葉も使用されなくなっています。
先にお断りしておきますが、これは「身分制度がなかった」という意味ではありません。
☆「士農工商」が身分の序列を意味する言葉ではない
ということを知っておかなくてはなりません。
武士が支配者として、人々の「上」に立っていたことは確かですが、武士の次に農民があり、その次が職人で、商人が最下層だった、というような、古代インドのカースト制度(ヴァルナ)のようなものではなかった、ということです。
「農民から年貢をとらなくてはいけないから、他の身分より上だよ、と、農民たちに説明して、不満を抱かせないようにしていた。」
というように習った人もいるかもしれませんが、現在ではことさらこのような説明はしませんし、これを示す明確な史料は存在していません。
「工商」は、職人と町人ですが、二つの身分間に「差異」は皆無で、そもそも江戸時代では「町人」としてひとくくりにされている存在です。
「士農工商」
という言葉は序列をあらわすことばではなく、あまねくすべての人々、という意味を持つ表現なのです。
武士も農民も職人も商人も… という言葉を単に「士農工商」とまとめて言うている言葉にすぎないのです。
ですから、同様に、「四民平等」という表現も、「みんな平等」という意味でしかなく、あまりに「四民平等」といってしまうと、あたかも「農民や職人や商人の間に序列がある」かの誤解を抱かせてしまうので、誤解をあたえないように、明治時代の「政策」を示す言葉として用いなくなったのです。
ですから、「士農工商の身分に分けられ…」という昔の教科書で説明されていたようなことは現在ではおこないません。
たしかに武士は、その他の人々より上位におかれていましたが、案外と「身分の壁」は低く、お金を払うと武士になれましたし(士分は購入できました)、鎌倉時代の武士たちが農業を生業にしていたことから、帰農、と言って、武士が農民になることは恥ではありませんでした。
江戸時代の中期までは、「脱藩」は臣下の身分で主を見捨てる、という行為であることから重罪とされましたが、後期になると各藩も、財政難のところが増え、下級武士が「武士をやめます」「浪人になります」というのを咎めるどころか、むしろ歓迎していたところもあるくらいです。
幕末になると、「脱藩」して(藩士の身分のまま行動すると主家に迷惑がかかるので)江戸・京都で「政治活動」をおこなう“志士”が増えました。しかし、ドラマや小説にみられるような脱藩者に対する厳しい弾圧、執拗な追及、というのは、江戸後期では数少ない例となっていたのが実際です。(長州藩の高杉晋作などは計6回、脱藩をしているんですよ。)
また、かつての教科書には「武士の特権」というのが明記されていました。
しかし、申しましたように、お金を払うと名字も帯刀も許されている例も多いため、とりたてて「名字・帯刀」が特権だった、と強調する意味もなくなっています。
「切り捨て御免」
というのも、徳川吉宗の時代に、公事方御定書などに記されるようになりましたが、実際、うっかり「切り捨てる」と、厳しい詮議を受け、何らかのお咎めがあったこともあり、武士たちは安易に刀を抜きませんでした。
以前に説明しましたように、「警察官が安易に発砲することを禁じられている」ということと、よく似ています。
街中で、抜刀して武士どうしがケンカする、というようなこともほとんどなく(そんなことをす藩士がすれば、藩のとりつぶしにもつながる可能性があり)、「刀」は武士の象徴的なモノとなっていきました。
さて、農民に関する説明も、しだいに変化してきました。年貢なども、
「四公六民」「五公五民」
という比率が明示されていましたが、中学生の教科書からはほとんどなくなってしまいました。
もともとこれは、幕府の直轄地(天領)に適用されたレートであって、全国の他の藩の農民には適用されていないことなので、
「年貢の比率などは、各藩などによって異なりました。」
と、わざわざ説明されるようになっています。
時代劇でよく登場する「悪代官」もほとんど存在していません。
むしろ、良吏が多く、村々をよくめぐり、農民の話を聞き、いろいろな農民の申し出を吟味して、生活が成り立つように、“配慮”しているケースが多くみられました。
現代でも、社長と従業員の関係を「主従関係」として説明すると違和感がありますよね?
従業員の生活が成り立つようにいろいろ考えて、自分の給料を下げても雇用を守ろうとする社長さん、いらっしゃいますよね?
日本は、マルクスが説明するような、階級闘争、奴隷的支配などはほとんど無く、そのように日本の近世を説明してしまうと、当時の社会の実態を見落としてしまいます。
農村における代官と農民の関係は、「親子」「家族的」な関係であるところも多かったのです。
実際、大政奉還後、戊辰戦争が起こって、旧幕府の直轄地の天領に官軍が攻めていったとき、農民たちの多くが「御代官さま、お逃げください。」と、代官の家族をかくまったり、代官を逃がす手引きなどをしたりしています。また、捕えられた代官の助命嘆願などを、村をあげて官軍にうったえている地域もあるんですよ。(このあたりは、拙著『日本人の8割が知らなかったほんとうの日本史』に詳しく説明しています。是非、お読みください。)
「一揆」
という言葉に関しても、今後、記述が変わってしまうでしょう。
「一揆」というと、農民が年貢や負担の減免を求めて「武力蜂起」したかのように(あたかも封建支配に抵抗した民衆運動であったかのように)説明してしまいますが、「一揆」とは「心を一つにした」という意味で、現代の「労働三権」とほぼ同じようなものだったのです。
団結しても
団体で交渉そても
団体で行動しても
あるいは代官所に陳情に行っても
記録の上では、みな「一揆」と記されているんですよ。
「一揆」は合法的に認められている行為で、抗議集会やデモ行進のようなもので、ちゃんとルールが決められていました(もちろん、現代でも、そういう行為の最中にハメを外して暴力的な行動に出てしまう場合もありますよね? 一揆もそういうときもありました)。
支配者の「悪」や「横暴」もあったでしょう。
でも、それを言うなら、被支配者の「愚」や「卑劣」だってたくさんあったにきまっています。
一方的に「支配者は悪」「被支配者は善」という考え方、見方は、一つの偏見である、と、考えてほしいところです。