教科書から消えたもの 慶安の御触書 | こはにわ歴史堂のブログ

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朝日放送コヤブ歴史堂のスピンオフ。こはにわの休日の、楽しい歴史のお話です。ゆっくりじっくり読んでください。

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かつて、慶安の御触書、というと、江戸時代のお勉強の中では欠かせぬ「歴史用語」でした。
昔の説明で言うと、1649年に、徳川家光によって発令されたものである、として農民の日常生活を細かく規定したものとして、江戸時代の「農民支配」を説明する史料として取り上げられてきました。

中学入試はもちろん、高校入試、大学入試でも「慶安の御触書」という言葉は出題されませんし、もし、出題していたとしたら、この“事実”を知らずに「出してしまった」ということになります。

ただ、何といえばよいのか…
自分が「そう習ってしまった」からついつい、「同じように説明して」しまって、誤りが訂正されずにどんどん再生産されてしまう、という塾業界や学校の中で脈々と続いてしまう「あるある話」なんですよね。

コヤブ歴史堂でも、かつて「平賀源内」の回で説明しましたが、彼はエレキテルを発明していません。でも、たいていの方は「そう習った!」「発明したと教科書にも書いてあった!」と思ってしまうかもしれませんが、それは1980年くらいまでの話で、それ以後はそういう記載はなく、「エレキテルで実験した」くらいの記述にかわっています。

そう習った先生や塾の講師が、もう変わっているのに、そう教えてしまった…

そういう誤謬の再生産の結果です。

「慶安の御触書」

は、現在では教科書から消えましたが、その中身は消えていません。

は?? どゆこと?? となりそうですが…

現在の教科書では、「農民に出されたお触れ書」として紹介され「慶安の」が消えています。
「幕府が出した命令」ではなく、各藩や、そして村の中で、「村のおきて」として自発的に出されたものが、いつしか「お上からの御命令」として伝えられていった、というようなものらしいのです。

村長 「こういうことを守りなさい。」
村人 「え~ めんどくさいなぁ」
村長 「こら。これは上からのお達しだっ」
村人 「え… そうなんですか。」

責任の所在を消しつつ、違う権威を用いて、自分のやりたいことを伝えていく…
そういう空気を察知して(ときに、気をまわしすぎて誰も言うていないのに)、こうせねばならないと伝えていく…

実に現代の日本にも通じる、日本的な「きまりごと」なんですよね。

笑ってしまうのは、地方の役人や代官もその「空気」に流された、というところです。

村長 「代官さま、となりの国ではこんなお達しが幕府からあったらしいのですが…」
代官 「え…(ちょい、おれ、知らんで…)」
村長 「これを村人に伝えてよろしいでしょうか」
代官 「お… おう。そうせよ。(とにかくそうしとこ)」

こんな話もあったかも…

ですから、教科書では、幕府からの命令としての「慶安の御触書」は消えてしまい、「農民がまもっていたきまり」(小学校の教科書)、「百姓への御触書 岩村藩で示されたもの」(中学の教科書)という表現に変わっています。

☆「慶安の御触書」は存在せず、徳川家光が発令した幕府の命令ではない。

ということに現在ではなっています。
おもに信濃国や美濃国など、岐阜県や長野県、そして北関東あたりの「村」や「藩」で出されたものが、伝えられたものであるような感じです。

一 朝は早く起きて草をかり、昼は田畑を耕し、夜は縄や俵をつくれ
一 酒・茶を買って飲んではならない

だいたいこの部分は「共通して」記されています。

広がった時期も違います。
1649年に出された、といわれていましたが、1830年ころに出されているので、江戸時代の終わりごろ、というのが通説になりました。

詳細は

『慶安の触書は出されたか』(山本英二 山川出版「日本史リブレット」)

などをお読みください。新しい、近世農民史の研究が概観できます。

ちなみに、もう一つ、消えたものもあります。「御触書」の「御」です。
「御触書」と記しているものは少なくなり、現在では「触書」という表記が一般的です。そして、多くの方が学生時代に習った明治時代のオープニングを飾る入試必出史料、

「五箇条の御誓文」

も、現在では「御」がとれてしまい、

「五ヶ条の誓文」

となっております。以上、蛇足まで…