手足が不自由で、口にくわえた筆で詩や絵画を創作する星野富弘(ほしの・とみひろ)さんが今週日曜日の4月28日、呼吸不全のため死去。78歳。中学校の教諭だった1970年、クラブ活動の指導中の跳び箱で宙返りした時に、首の骨を折る大事故をし、頸髄損傷で、肩から下が麻痺し、身体機能を失いました。
国内外で多数の個展を開いた。二か所の美術館があり、2006年に群馬県の名誉県民となりました。
人生に絶望していた時に、大学の友人でクリスチャンの米谷さんが病院に星野さんを見舞いに聖書を持ってきました。しかし、星野さんはその聖書を読まないで、段ボール箱に入れて放置していたそうです。聖書を開くことに抵抗感を感じたのは、「あいつは、苦しくて、とうとうキリスト教という神様まですがりついたのか」と言われることを恐れていたからです。
星野さんは病院で骨折をして入院しているクリスチャン女性から『塩狩峠』、『道ありき』、『光あるうちに』を読むように紹介されて、私たちは、「生きているのではなく、生かされているのです」という三浦綾子さんの言葉に心を動かされ、この時から彼は、聖書を渇きを持って読み始めるようになります。
と同時に、彼は、病院でのある出来事を通して、自分の醜さに目が開かれます。それは、スキー大会で転倒し、星野さんと同様に、四肢が全く麻痺してしまった中学生のター坊が、腕も足も動くようになり、自分で排泄をし、食事が出来るようになったことでした。それまで、星野さんは、自分と同じ不自由な状態にあったター坊を励ましていましたが、この時は、ター坊の回復を喜べず、強い嫉妬を抱いたのです。
星野さんは、本当の自分の姿に向き合うようになり、心の底に鉛のように重く溜まっている孤独や不安、罪責感に恐れおののくようになります。その時に彼が、聖書を開き、慰めを与えられたのが、イエスの招きの言葉でした。
「 すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。
わたしがあなたを休ませてあげます。」(マタイ11:28)
彼は、この時の経験を後に次のように証しています。
「思い切って、イエス様の名を呼び、聖書を開いてみました。そしたら長い間苦しみながら探していた私に語りかける言葉に会うことができました。上を向いて寝ている私の目に映るものは、天井の70枚のベニヤ板だけではなくなりました。その灰色のベニヤ板のつぎ目さえ、私たちのために血を流された十字架に思えます。楽しい時に感謝し、心の沈んでいる時、名を呼べる方が、今までになかった喜びです。」
星野さんは、1974年、事故4年半後に、自分の救いのために祈り、訪問してくれたクリスチャンたちの前で信仰告白をし、洗礼を受けます。口に筆を加え、絵や詩を書き、キリストによって生かされている喜びを多くの苦しんでいる人々に伝えること。星野さんの詩画には、キリストの愛や救いが前面に出ているわけではありません。「いのちよりも大事なもの」の詩に答えがあるわけではありません。「人間にとってどうしても必要なものはただ一つ」と書きながら、それが一体何であるかが書かれていません。
以下は要約です。普通、けがとか病気はマイナスの面ばかりあると思われがちですが、時には非常に素晴らしい働きをしてくれるように思います。私の場合、けががなかったら三浦綾子さんと出会わなかったかも知れません。そして、からだの不自由のおかげで、花を良く見て描くようになりました。けがのおかげで創作活動が始まり、三浦綾子さんと出会うことになったのです。
一番苦しい時に私の前を明るく力強く歩いている人がいた。でも、ある時、それは三浦綾子さんだけの力じゃないと気づいたのです。聖書の神さまだと気づいた。天井を見つめていたとき、全く動けず、先の見えない淋しい闘病生活でしたが、そのとき『塩狩峠』によって三浦綾子さんに出会って、「こんな人がいる。私もこの人のように生きたい!」と思ったのです。
1970年にけがをして、72年に『塩狩峠』に出会って、74年に洗礼を受けて、生きることを前向きに考えるようになりました。マイナスに考えるのではなくて、こんな自分でも生きる価値があるんだと、ほんの少し希望の光が射したとき、足元の一輪の花の美しさに気づくことができました。そして花瓶の花を描き始めると、小さな花が大きく見えて、マイナスに考えていたことが、とても自分のためになっていることにも気づきました。