※長いです(^ー^*)
開拓者学校を卒業したばかりの二十歳の時、必要の大きなところに出る予定でまとめていたわずかな荷物を持って、母とJWから逃げるように、近くの都市に引越を決めた。
辞める決意をしたきっかけは、ブログを始めた頃にも書いたが「失恋」という名の
婚約者(と、私は思っていた)の裏切りだったが、そのずっと以前から、いつか自分はJWを辞めるのでは?と感じていたように思う。
このことは別の機会に。
そして、自然消滅とともに、私の「逃亡人生」はスタートした。
伝道者カードが、移転した先に移っていて、何度も長老たちの訪問を受ける事にも嫌気がさしたのもあり、同じ市内で3回引越をした。
まるで何かから身を隠すように。
最後にやっと自分で手に入れたマンションに住んですぐのころ、父が亡くなった。
そのマンションに、亡くなる数日前に
父がお花の鉢植えを持って突然訪ねてきてくれたことを、別れの挨拶とも気づかず、一緒にご飯を食べようと誘ってくれた父を、用事があるからと断ってしまった事を後々ずっと苦しむ事になった。
それが父を見た最後になってしまった。
そして、父が亡くなった事で、復活の希望の手紙とともに、度重なる母からの戻ってきて欲しいという懇願がしばらく続き、それに耐えきれなくなった。
そんな時、その頃付き合っていた
男性の単身赴任が決まり、父の辛い記憶と母から逃げるように、買って数年のマンションをそのままに上京した。
結婚して、長男を妊娠し、もう少しで生まれるというころ、やっと父の死から少し立ち直り、幸せを掴めるかもと思った矢先、父が亡くなって10年後、兄が40歳という若さで、父と同じように亡くなった。
JWを排斥になり、母からまでも忌避され、孤独な記憶を抱えた兄を死に追いやったJWの排斥制度と、それを息子にも貫き通した母への複雑な思いや、身が引き裂かれるような悲しみに、生きることさえ投げ出したくなるほどだった。
それでも、何とか自分を保ちながらも子育てが始まり、そんな複雑な思いは忙しさに紛れていた頃、兄の死から1年後に、母が難病であることがわかり、母の輸血拒否の最終決定を医師から迫られた。
母の意思を尊重し、結局母は輸血をせずにあっという間に亡くなった。
これでもかと押し寄せる悪夢のようなでき事に、どれほど私の人生はJWに翻弄されるのか?、JWのせいで我が家は幸せどころか、どんどん不幸の連鎖ではないかと思うと、JWという場所に生まれてしまった事に、やるせない思いと憎しみにも似たような思いが膨らんで行った。
母が40年貫いた信仰を最後まで全うした事を見届けたその時に、私はJWの記憶を心の中で封印した。
そして母の死から3年後、あの東日本大震災で一変した生まれ故郷を見た時、あまりの恐ろしさと変わってしまった景色から
目を背けるように、生まれ故郷さえも
心の中で封印した。
その町は、父と兄が死を選んだ町でもあり、あまりにも辛い記憶が多すぎて、私は
それを真っ正面から受け止める事ができなくなった。
行けば変わってしまった町に悲しみが広がるし、父や兄の記憶がよみがえるものに溢れた町に行くことも、見ることも、とても正気ではできないように思えた。
子供の頃の記憶はJWと繋がり、JWの記憶は父や母や兄と繋がり、そして生まれ故郷の記憶は、またそのすべてに繋がるから、どれか一つでも思い出す事が連鎖する。
だから、そのすべてに蓋をして、目を逸らし、逃げる、そんな繰り返しをしてきた
ように思う。
でも、このすべてがやっぱり自分の「原点」だったと、今回の旅で改めて感じた。
そのすべてが今の私を作ってくれたものであることは間違いようのない事実。
奇しくも、3月13日は父が亡くなり20年目の命日だった。
仕事でのいろいろな出会いから、自分の半生を振り返る時、どうしてもそこには
「JW」なくしては語れないものがあると感じ、そこに向き合う形で始めたブログ
も、始めて2年が経ち、自分の原点であるJWについて昇華しつつあると感じていたこのタイミングで、姉の海外移転が決まり、固く封印していた家族の思い出が詰まった写真を兄弟3人で開封する事ができた。
その写真の中には、JW生活の色々な思い出がそこにあった。
そんな思い出とともに24年ぶりに入ったKHは、やはり私にとって温かく懐かしい雰囲気のままだった。
JWへの思いも年数とともに、自分の中で変化していたことに気づいた。
そして、生まれ故郷も、やっぱり懐かしく
暖かい優しい場所だったと思えた。
偶然と言えばそうなのかもしれないが、私の意思以上に、何かに引っ張られるように、何度も開けては閉め、開けてはまた閉めたパンドラの箱が一気に開いたような気がした週末だった。
逃げ続けた自分の「原点」をしっかり自分の目で見、対峙したことで、何か流れが変わったように思えるこの数日である。