中身の濃い1泊2日だった。
子供のいない姉夫婦は、わずかの食器と
衣類だけを残し、すべての家財道具を処分して、海外へ行く事に決めた。
行く理由、行き先、生活方法、帰国の頻度、今後について、連絡手段、いろいろな事を話合った。それはここには書くことはできないが。
それに伴い、私たち兄弟がずっと誰も手をつける事ができなかった大量の家族写真をどうするかという話になり、整理をする事になった。
両親の、特に父の写真を私たち兄弟は
ずっと封印するかのように、見ることが出来なかった。
それは私たち兄弟には「パンドラの箱」ではあるが、何よりも大事なものでもあり、
いつかみんなで...と思っていたので
ちょうど良い機会だった。
きっともう、こういう機会はなかなかないだろうと思った。
父が亡くなり20年、やっと開けることが出来た。
そこには、若かりし頃の両親がおり、
屈託のない子供のころの私たちがいた。
色々な思い出が、その写真とともに蘇った。
その写真の大半が、JWと関連する写真ばかり。
地域大会、巡回大会、王国会館建設、
ベテル見学、国際大会のツアー。
3人でティッシュペーパー片手に、思い出に浸りつつ、手を動かすうちに、少しずつ
笑顔が3人に広がった。
その夜は、久々に三姉妹とその家族が集まり和やかな会食になった。
翌日、24年ぶりに足を踏み入れたKH。
ここも私には「パンドラの箱」と覚悟して
いった。

これについては、改めて書こうと思う。
ただ、今一言言うとすれば、
「心の故郷」だった。
予想に反して、嫌な感情は全く出て来なかった。
もう戻る事はなくても、雰囲気も、空気も、慣れ親しんだ場所だった。
そしてその後、生まれ故郷である町へ。
ここは、6年前の大震災で町の景色が一変してしまった町。
子供のころの思い出がたくさん詰まった風景は、もう写真の中でしか見ることができない。
大好きだった海がたくさんの思い出の詰まった景色とたくさんの人たちをのみ込んだ恐ろしい記憶。
この町に帰っても両親もいない。
この町に帰ってくることで、父や兄に繋がるものを目にしてしまう事にもなる。
それは、私にとっては心の傷にやっとできたかさぶさをまた剥がすような心境にもなる。
それでも、やっぱり私には「ふる里」だった。
どんなに景色が変わっても、どんな辛い記憶がよみがえっても、子供のころに母や妹、幼なじみたちと奉仕で歩いた場所、両親や兄弟たちと過ごした場所は、やっぱり愛着のある故郷であることには変わりがないと感じた。
多くのものをのみ込んだ海でさえ、やっぱり大好きな海であることにも変わりはない。

今回、弾丸ツアーのような日程で
私にとっては、重いものと何度も向き合う形になった帰省だったが、
結論から言えば、また私の中で
大きな変化があった帰省だった。
写真の整理から始まり、生まれ育った家族との思い出から、JWとしての子供時代を思い出し、その中で集会に出席し、
そして生まれ故郷で、また暖かい思い出を
思い出し、私の「原点」がすべて繋がっていったと感じた1泊2日だった。