思考力に秀でている人の場合は、考えがまずあり、それに従って行動が決められているということがあります。自己コントロール力が弱いと、思考を行動に反映させる時に、感情や欲求による判断が混ざり込んでくることがあります。しかし全体的には思考によって行動が決まっていると言えるでしょう。
しかし思考力が中心的な精神活動ではない人がいます。そういう人は、感情や衝動を行動に反映させます。そういう人の場合は、自らの行動を理屈で説明できず、仮に説明したとしても他の人が納得できません。
例えば、共産党アレルギーは思考の産物ではなくて、多くの場合、過去の経験の中で感じたことが元になっているんじゃないかと思います。その人が表面的に何やかやと言うことは原因ではなく、過去の経験の中に原因があるわけです。(というか本当は、何が原因なのか測り知れないほど、謎めいた現象なのかもしれません)。
また思考力に秀でている人でも、思考力を自らの行動の原因にしようとはせずに、個人的利害や他の人の依頼によって決まる目的に奉仕させるために、便利な技術として使う人もいます。その人は、思考を自らの行動の原因にもできるが、そんなふうに人生のために役立たせることはせずに、利益を得るための手段として浅いレベルで使っている、のかどうかわかりません。
自分の行動と思考とを結びつける場合には、自己意識的な意識が必要になります。依頼されて道具として思考力を使うだけなら、衝動に従うだけでもできますが、誰にも頼まれないのに(あるいは誰かの頼みを断って)自らの人生をよく考えて決めようとすることは、自己意識的な意識がないとできないからです。
それで御用学者風に、注文通りの思考を提出してそれで報酬を貰っている人は、意図して思考を悪用しているとは限らず、善なる目的のために思考を役立たせる能力を欠いているかもしれない、と思うのです。
しかし普通、人は、よく考えて行動する能力を誰もが持っているとイメージしてしまっており、おかしな行動を取る人がいたら、悪意を持ってわざとやっていると考えます。本当に悪意が働いている場合もあるでしょうけれども、その人が悪意をコントロールする能力を持っていないこともあります。思いついたことを、全部行為に移してしまう人がいたら、悪い衝動が芽生えた時に、外から止めない限り、止める人がいないことになります。
そして、言っていることと、やっていることが違う人は、嘘をついている、と考えてしまうでしょう。しかし言ったことと、これからすることを一致させる能力を持っていない人もいるわけです。言ったことは消え去り、行動にあたって生じる衝動は、言ったこととは別のものになっている、というような人がいます。
それで、人の行動の原因を理解しようとするなら、内部で働いている理屈(思想)を探る以外に、感情や衝動を探し求めなければならない場合があると思います。