検察本腰?河井議員 豊洲沈没 フィリピン噴火 日刊ゲンダイ週末号Vol.120 2020 01 17 - YouTube

https://www.youtube.com/watch?v=jYKFaXzUaoQ

 
 
この番組の中で、ヤクザの道と武士道とがほとんど同じだという話が出てきます。そしてそれは簡単に言えば、いかにかっこよく死ぬかということになります。
 
武士道については、番組の中でも出てきた他のことの方が重要だと思います。それは後で、仲間の中で語り草になるということです。かっこよく死ぬことができた人は、仲間内で話題になった時、あいつはいい死に方をしたというふうに言ってもらえます。そのことが重要です。
 
つまり自分自身が叙事詩の中に、英雄物語の中に書き込まれることが重要なわけです。
 
なぜそうなのでしょうか。それは古い時代には、物語は書かれるのではなく、語り伝えられていたからです。後に残された人が、先に亡くなった人の事績を語って伝えます。そしてさらに時代を遡れば、個人の記憶と集合的な記憶に境目がなかった時代に至ります。そこでは目立った活躍をした個人は、子孫の心の中で思い出されるたびに何度も蘇ります。
 
逆に言えば、そこで目立つことができない人は、永遠に忘れ去られるのと同じになります。
 
つまり個人の人生の価値は、後で流れの中で振り返って見られる時に、どれだけ目立つかによって決まります。生きている間から、自分の先輩たちの人生についてそんな見方をしていた人は、自分についてもそんな見方をします。それで後でまとめて見た時に、この人は英雄だったと言ってもらえるような「人生のまとめ方」をしたいと考えるわけです。
 
このことは今の時代の近代的な人には当てはまらないでしょう。なぜなら今の時代の人間は、人生を総体のイメージとして見るのではなくて、小さい頃から始まって順を追って最後まで見ていくような、細部を積み上げる精神を持っているからです。
 
その場合、それぞれの瞬間に必要なことが果たせたかどうかが問題になります。最後だけが問題になるのではないし、最後から振り返って見た時にどんな情景が広がるかが問題になるわけでもありません。ひとつひとつを見て、良いところ、悪いところを集計して、トータルで優れている場合に、優秀な人と認定されます。それで死に方だけでなく、人生の中のひとつひとつの出来事が問題になります。
 
それで今の時代には、武士道は死ぬ事であるとは言えません。自分が成し遂げようと決意した課題がどの程度成し遂げられたかが重要になるし、途中で成し遂げられた時に、もう死んでも構わないと考えることはできますが、最後まで成し遂げられなかった時には、死期をできるだけ先送りして(できるだけ長生きして)、課題を少しでも先に進めるべく努力すべきです。
 
そんな理解がある時に、死ぬ時の美学だけを考えて、他のことを疎かにする人がいるなら、その人は自己満足を実際に役に立つことよりも優先している自己愛が過ぎる人のように見えてしまうでしょう。
 
古い時代には今のように自我意識が強烈ではなかったので、英雄と同化したいと思えば、実際にそうできていたかもしれません。しかし今同じことをしようとすれば、英雄と同化する自分への虚栄心が、先に現れてしまい、実際にそうする道が歪められてしまうでしょう。やろうとしたことを素直にやるということができずに、最終的に結果が出て称賛される自分を思い浮かべて満足するプロセスばかりが走ることになります。それで実際には努力が疎かになります。環境に没頭するのではなく、自己の中に引きこもる近代人のあり方がそんな方向性を生み出してしまいます。それでむしろ、何かの模範に自分を合わせようとするのではなくて、自分自身の個々の心情を観察し、内界に通じていくことで、人生を歪めるものを認知し、そんな誤った方向性を自分で抑止することが有効になるでしょう。
 
それで今の時代に、武士道を実践しようとする人は、多かれ少なかれ自己愛に絡めとられて、自己満足に陥ってしまうでしょう。自分ではかっこいいつもりであるものの、そう信じているのは自分だけで、周りから見るとかっこ悪く見えるということが多くなるはずです。
 
一方で、誰からも理解されないでも、自分の信念を貫くことで、やっとかっこよさが確保できるのが今の実態だと思います。その場合、できれば誰にもかっこよさに気づかれない方が得策です。誰かに褒められるとその分、内部に増長する部分が現れるからです。周囲から褒められながら増長せずにいられる力を持つ人は大丈夫ですが、平凡な人は褒められることで逆に逸脱させられます。
 
つまり、かっこよくあろうとするよりも、自分のかっこわるさの全てを把握して、そんな弱点が発現しないように注意することで、やっと少しはかっこよくなれるということです。時代が進むにつれて、自己愛や自己顕示欲の誘惑が強くなってきているということだと思います。