『ワイドナ』で松本人志を前にゲス極・川谷絵音が「ちゃかし、嘲笑の文化」を批判! そのとき松本は不機嫌そうに…|LITERA/リテラ

https://lite-ra.com/2019/12/post-5168.html

 

 

ゲスの極みの川谷さんが、いい意味で、空気を読まない発言をしたというニュースです。言っていることは真っ当で、コメンテイターとして、解説者として、ちゃんと仕事をしている感じです。そしてまた、彼が言ったことは、個人に対する視聴者の感想を脇に置いて、個人の運命に社会がどのように関わっているのかという洞察を持ち、個人の運命を好転させていくために社会がどう関わるべきかという、社会的な見方を提示するものなので、これは近代的な価値観を体現するものだと言えます。他の人たちは、古い慣習に依拠し、共同体の倫理に反した人は糾弾・処罰・追放されるべきだという考えで突っ走っています。この考えは、共同体と個人の利己主義や自己防衛本能に立脚しています。

 

特に司会者で現場の責任者の松本さんが、古い考え方の人なので、長老支配の共同体の中で発言する時と同様に、彼に逆らって彼と異なる意見を述べる人が出てくれば、場に抵抗感や緊張感が醸成されるみたいです。その中で敢えて自説を貫きたいのなら、抵抗感、緊張感に打ち勝たなければなりません。川谷さんは、平然と、あるいは勇気を持って、それを実行したらしいのです。

 

不倫報道の時には、ベッキーさんがスポンサーに依拠した仕事の仕方をしている人であったのに対して、川谷さんが劇場でファンと直接やり取りをして経済的に成り立っている人であったために、比較的、社会的な圧力を受けにくい立場にいて、ある意味で守られていたと、僕には見えました。それでもやはり、ワイドショーやテレビの視聴者がかなり攻撃したのでしょうから、活動はしづらくさせられたし、心理的にはダメージを受けたかもしれません。

 

でもそれで凹むどころか、変わらぬ独立ぶりを示して、空気に流されていないので、個人の資質的な強さもあるのかな、と思ったりしています。

 

日本のコメディアンは、容姿も問われないし、教養もなくてもいいので、貧しい出自の人が貧困の連鎖から抜け出すために、希望を託すひとつの選択肢になっているようです。そういう事情を考慮すれば、そんな人の流れを通って、最下層の自分のことで精一杯で人のことなど構ってはいられないという感じの文化が流入してくることや、洗練されておらず、むきだしの中世的価値観が温存されることがあっても、不思議ではありません。それなのに、単に多くの人から親しまれているという理由で、ワイドショーの司会者やコメンテイターに起用して、意見を拝聴しようとしているところに無茶があるんだろうと思います。得意分野で活躍してくれている分には、特に問題ないのでしょうし、もし中に見識に優れた人がいるなら、その人だけ起用すればいいんじゃないかと思います。

 

しかしテレビの場合は特に、売れなきゃ意味がない、売れれば何でも正当化されるという、節操のない劇場の気風が行き渡ってしまっているので、人気があれば何にでも起用するということが行われているのでしょう。そしてそこでは、社会的な責任を果たすことではなく、お客がどれくらい入ったかが問題になるのであり、出演者も、見た人に役に立つ解説をしようと考えるのではなく、場をいかに盛り上げるか、あるいは深刻な対立が生じないようにうまく進行することを課題として認識しています。

 

そして川谷さんは、リベラルな価値観を表明しなくては、と意気込んで発言したというよりは、庶民的な生活経験の中で自然と感じた、個人の率直な思いを披露する形で話したようです。気負いなく、率直な気持ちを話しているところは、こんな考えを普及させたいという発想とは無縁で、好感が持てると言えるかもしれません。
 
ただそれでも、場の流れは糾弾・処罰・断罪だったので、流れには逆らっているし、松本さんの価値観とも相入れなかったので、いくらか緊張感が発生していたようですが。
 
また川谷さんが引用した考え方は、2ちゃんねるの人生観で、これはこれでひとつの問題です。
 
経済的に追い詰められ、人とのつながりにも恵まれない人は、孤立して鬱屈したり、生活苦に追い詰められたりして、暴発する危険があるというのは、誰にでも予測がつくと思うんですが、2ちゃんねる文化では、こういう人生の側面を、これが人生の真理だ、それを少しでも早く正確に洞察できるのが現在の賢者だ、と主張しているらしいのです。
 
それで、2ちゃんねる文化も、何故かわかりませんが、農民文化とほとんど同じものになっています。そこでは、階級制度が前提となっていて、経済的な富に焦点が当たっています。そしてそれ以外の精神的な要素に、ほとんど価値を置かないし、そんなものに価値を置くことを虚偽または逸脱だとみなしています。これは、どないして飯食わしてくれるねん、そんなことで飯が食えるか、という農民発想とほとんど同じです。
 
何かの流れで、何かの思いがあって、人生の選択をしていき、現在成立しているのが端から見て貧乏な生活なのであれば、その人は「貧乏人」だし、「敗者」です。しかしそんな評価が、その人にとって意味を持つかどうかはわかりませんし、その人がそんな評価を受け入れるべきかどうかもわかりません。人生のひとつの側面を切り取ると、そう見えるということに過ぎないからです。
 
仮に、人生の豊かさ貧しさ、勝ち負けの側面を意識したとします。豊かになるように、勝つように、配慮しながら生きることになるでしょう。その場合でも、やはり豊かさ貧しさは出てくるし、勝ち負けも出てくるでしょう。意識すればうまくやれるというものではなく、競争をする限り、相対的には成功者と失敗者が出てきてしまうからです。
 
そして競争のことばかりを考えて、一生を終わることの方が、かなりの損失だと言うこともできます。それもちょっとは考えましょうね、あまりにも経済に無頓着だと、不要な苦しみを抱え込むことになりますから、と心配して見ている時には、いい塩梅になるんじゃないかと思います。しかし2ちゃんねるは冷笑文化なので、階級的、経済的な落伍者は、もう挽回できないし、どうしようもない、気の毒だったね、という見方をしています。
 
敗者である自分に気づいた時には、もう手遅れであり、挽回しようと思っても、上には分厚い壁がある、ということは、本当に人生にあることでしょう。だから前もって、階層上昇するために、経済的に豊かになるために、みんな考えて行動しているのに、気づくのが遅かった人は馬鹿だったねという理解になるわけです。この場合、階層や経済に、全ての資力を注ぎ込むことが正しいという考え方に、簡単になるでしょう。そしてそれは、奪い合いの社会状況の形成とつながってきます。気の毒な人を見て、ああならないようにしようと考えるところも、農民発想です。そして結局、この人生で何をすべきなのかという精神的観点、霊的観点を忘れてしまうということも農民的限界です。これは霊的指導、霊的教えから疎外されている人が落ち込む境地です。
 
一方、無頓着すぎて、経済的に自分で自分の首を絞める人を、気の毒に思って、手助けしようと考える人は、この世界でその人がなすべきことが実際になされるように協力していることになるでしょう。これは経済的なことに注目しているにも関わらず、霊的な態度を持っていることになります。魂が目指していることが成就するように、運命に介入して、協力しようとしているわけですから。
 
落伍者を見て、馬鹿にしたり、ああはならないでおこうと、反面教師にしている人は、経済に注目しているし、経済領域に閉じ込められています。その人は自分では、経済的な好環境を基盤にして、霊的な活動に取り組んでいると思っているかもしれませんが、そんな経済至上主義的な態度をとっている時点で、霊的取り組みに成果が挙がっていないことが容易に推測できます。
 
結局、経済至上主義的な人は、物事の外面や結果だけを見ているので、ある時期貧乏だった人が、その後認められて羽振りがよくなったという現象を見た時、事後的にしか評価できません。本質的には、世に出ること、人々から評価されることには、些末なことで、その人が一貫して育成しているものが重要です。育成したものを、同時代を生きている人に手渡すことにはいくらかの意味がありますが、褒められるかどうかにはあまり意味がありません。しかし経済にしか注目していない人は、どういう人が経済的に上昇し、どういう人が下方で停滞するのかの、原因に目を向けないので、結果だけを見て判断します。そして、途中経過を評価できません。彼らの中にも目利きがいて、今は不遇でも将来化けるぞという人に目をつけることができる人もいるかもしれません。しかしそれも、階層上昇という観点で見ているために、抜け目のなさとか、執着心とか、どちらかというと、病的傾向に見えることを高評価することになるでしょう。それでそのことによって、社会を病気にすることに加担します。けっして褒められたものでないことを褒めそやすことになるからです。
 
そして2ちゃんねる文化から、追い詰められ過ぎて暴発する危険を持っている人が、どう映るかと言えば、多くの人が汲々として、階層上昇や財産の積み増しに励んでいる時に、上昇の見込みを早々に失って身軽になって、マジョリティーのルールから解放された人、というふうに見えるらしいのです。
 
ルールの中で、上位につけることには、苦労があるし、ルールを守らなければならないという制限があります。最初からそんな気がなくて、競争に参加しないという道も、命を生きながらえさせることを諦めさえすれば、可能だ、という洞察があるわけです。
 
通常の感受性だと、そんな選択をする人は、気の毒で、本当は他の人と同じようにしたかったんじゃないか、何か事情があったんじゃないか、などと考えます。しかし2ちゃんんねる文化では、その方法があったか、ある意味で賢いな、強いな、俺はやらないけど、というように、無責任な感じで面白半分に英雄に祭り上げることをやるようです。
 
上を目指す人の中でも、詐欺的手法に手を染める人がいて、バレなければ不道徳も違法も容認されるという価値観が存在します。しかしバレなければ、という条件込みなので、最悪でも安倍政権のように、バレても切り抜けられるという場合のみが、評価の対象で、バレて転落というのでは、落伍者にカテゴライズされ、そんな時には真っ当にやってればよかったのに、と、こないだまで面白半分に煽っていた人に、変な諭し方をされる羽目になりかねません。
 
しかし、成功すれば何でもいい、という価値観を共有していなければ、こうした考察はどうでもいいことになってしまいます。