魔王城は、夜の中に沈んでいた。
空は暗い。
だがそれは、ただ月が雲に隠れているからではない。
城そのものが、空の光を拒んでいるのだ。
黒曜の塔。
ねじれた回廊。
底の見えない吹き抜け。
燭台に灯る炎は赤ではなく、どこか青黒い。
生きた者の城ではない。
かといって、死者の城というだけでもない。
そこは、闇そのものが王座を持つ場所だった。
四眷属の間と呼ばれる大広間には、
今、奇妙な静けさが満ちていた。
本来ならそこには、
四つの気配が満ちているはずだった。
夜の底から哭きを呼ぶ者、
夜哭のベルフェリオ。
白き霧に溶ける狩人、
喰霧のザル=ディーン。
黒水の幻で心を沈める妖姫、
深淵のメルカディア。
そして、
燃え尽きた戦場を従える灼熱の将、
灰燼のヴァルグレイヴ。
だが今、
その四つすべてが消えていた。
正確には、消えたばかりだった。
最後のひとつが潰えた瞬間の余韻が、
まだ魔王城の石壁の奥で、
かすかに震えている。
静かだった。
あまりにも静かで、
むしろその沈黙こそが、
四眷属の終わりを雄弁に物語っていた。
やがて、
玉座の上に座していた者が、
ゆっくりと片肘を動かした。
魔王アイ・ノクスフェリア。
その名を口にするだけで、
古い王国では灯を消し、
子どもに夜更かしを戒めたという。
漆黒の衣をまとい、
長い髪は闇そのものを編んだように艶を帯び、
その瞳は、底のない夜の色をしていた。
男とも女とも、
あるいはそのどちらでもないとも見える、
妖しく整った顔立ち。
頬杖をついていた指先が、
ひとつ、玉座の肘掛けを軽く叩く。
それだけで、
大広間の空気がわずかに沈んだ。
「……そうか」
低く、よく通る声だった。
怒りをぶつけるでもなく、
嘆くでもなく、
ただ事実を受け取る声。
「ヴァルグレイヴも落ちたか」
その言葉に、
足元の影がゆらりと揺れた。
返事をする者はいない。
四眷属はもういないのだから当然だった。
けれど魔王は、
独り言のように続ける。
「ベルフェリオ」
「ザル=ディーン」
「メルカディア」
「ヴァルグレイヴ」
順に名を呼ぶその声音は、
どこか静かな追悼にも似ていた。
だが、そこに湿った感傷はない。
「よく尽くした。
そしてよく敗れた」
その一言は冷たい。
しかし同時に、
誰よりも彼らの力を認めている響きでもあった。
魔王は、
ゆっくりと立ち上がった。
衣の裾が、
床を這う夜みたいに広がる。
その動きに合わせて、
四眷属の間の中央に刻まれた古い紋様が、
ぼんやりと黒紫の光を帯びた。
「四つの夜が崩れたのなら、
次は王の夜が出るだけのこと」
その声は穏やかだった。
穏やかであるのに、
底知れない。
まるで、
深い井戸の底から囁かれているような、
冷たい圧があった。
魔王は階を降り、
四眷属が本来立っていた場所を一つずつ見ていく。
夜哭の座には、
哭き声の残滓だけが薄く漂っていた。
喰霧の座には、
白い霧の残り香だけがあった。
深淵の座には、
黒く濡れたような光の筋が細く残っている。
灰燼の座には、
熱を失った灰がひとひら。
「おまえたちは敗れた。
だが、無駄にはならない」
魔王はそこで、
ほんの少しだけ笑った。
その笑みは不敵で、
美しく、
そして危うかった。
「我が眷属を退けた者たちよ。
なるほど、ようやく夜に手が届く場所まで来たか」
闇の玉座の背後で、
窓のないはずの壁に、
ゆらりと外の景色が映る。
それは魔術による遠見だった。
山を越え、
戦場を越え、
死線を越えて進む四人の姿。
陽光の勇者ヒマワリ。
空色の剣士ソラ。
白銀の魔法使いコユキ。
黒衣の僧兵チョコ。
遠いはずなのに、
その輪郭は驚くほどはっきり見えた。
魔王は、
その中でも特に、
黒衣の僧兵へ視線を止めた。
「……ほう」
少しだけ、
興味を引かれたような声。
「夜の気配をまとっているな」
チョコ・ノクティス。
闇を宿した拳。
寡黙なまなざし。
自分の中の熱を、
言葉ではなく鍛錬と沈黙で研いできた者。
そのあり方は、
たしかに魔王の気配とどこか似ていた。
もっとも、
似ているのは表層だけではない。
夜と向き合いながら、
夜に呑まれなかった者。
孤独を知りながら、
そのまま孤独に閉じなかった者。
それは魔王にとって、
少しばかりおもしろい存在だった。
「黒衣の拳士……いや、拳王か」
魔王は小さく目を細める。
「我に似た闇を持ちながら、
おまえは人のぬくもりの中へ立つのだな。
愚かとも言える。
だが、嫌いではない」
そこで一度、
肩越しに四人を眺める。
そして、
また笑う。
今度の笑みは、
先ほどよりもいくらか愉しげだった。
「特にあの僧兵。
沈黙のくせに、
内側ではずいぶんと美しい言葉を燃やしていそうだ」
くつり、と喉の奥で笑う。
「わかるぞ。
闇に名を与え、
痛みに意味を刻み、
敗北すら己を飾る鎖に変えたくなる夜というものがある」
誰に聞かせるでもない、
魔王の独白。
だがその語り口は、
どこか芝居がかっていて、
静かなのに妙に耳に残る。
まるで、
本人は大真面目なのに、
少しだけ中二めいた危うい美意識を隠していない。
「されど、その夜は浅い」
魔王は、
遠見の像へ向けて指を差した。
「我が抱くは原初の夜。
星の生まれる前から世界の裏に沈んでいた、
名もなき深淵の静寂だ」
その瞳が妖しく光る。
「喪失を飾りとし、
孤独を冠とし、
終焉を玉座とする。
それが魔王アイ・ノクスフェリア」
ゆっくりと名乗るその姿は、
ひどく様になっていた。
恥ずかしげもなく、
むしろ誇るように。
「月が沈めば闇が来ると思うな。
闇とは、光が退いたあとに生まれるものではない。
最初からそこにあり、
ただおまえたちが目を閉じていたにすぎぬ」
その台詞は、
あまりにも芝居めいていて、
そしてあまりにも本気だった。
もしチョコがその場にいたなら、
きっと表情を変えずに聞きながら、
心のどこかで、
「少しわかる」
と思ってしまったかもしれない。
それくらいには、
中二病的な格好よさがあった。
魔王は大広間の中央に立つと、
おもむろに片手を掲げた。
すると、
城中の闇が呼応するようにざわめいた。
廊下の隅。
塔の影。
階段の下。
閉ざされた扉の向こう。
魔王城そのものが、
王の決断を待っていたかのように、
低く息をつく。
「四眷属が崩れたならば、
今宵で幕引きだ」
静かな宣言だった。
「もはや試しは終わった。
選別も終わった。
ここからは、余がみずから夜を運ぼう」
大広間の床に、
巨大な魔法陣が浮かび上がる。
黒紫の輪。
幾重にも重なる古代文字。
その中心に立つ魔王の姿は、
闇の儀式そのものだった。
「勇者ヒマワリ・ソレイユ」
と、名を呼ぶ。
「おまえの光がどこまで夜を裂けるのか、
見せてもらおう」
「ソラ・アズリエル。
空を知る剣よ。
おまえの風は、我が闇に届くか」
「コユキ・エヴァーホワイト。
白銀の理を抱く魔法使い。
その気高き誇りが、どこまで砕けずにいられるか」
そして最後に。
「チョコ・ノクティス」
その名だけは、
ほんの少し低く、
丁寧に発音された。
「影に似た者。
夜を拳に宿す者。
おまえが抱く闇と、
余が統べる闇と。
どちらがより深いか、
試してみるとしよう」
そこで魔王は、
ふっと目を閉じた。
「もしおまえがこちらへ堕ちるなら、
それもまた一興。
抗いきるなら、
それもまた美しい」
目を開く。
そこにあるのは、
絶対的な自信だった。
四眷属が敗れたことすら、
この魔王の心を折ってはいない。
むしろ、
ようやく自分の出番が来たとでも言いたげな、
静かな昂揚が見えた。
戦いの前夜。
世界のどこかでは、
四人が焚き火を囲み、
あるいは眠り、
あるいは次の朝に備えている。
その同じ夜に、
魔王城では王が立ち上がっていた。
魔王アイ・ノクスフェリアは、
再び玉座の前へ戻ると、
最後にひとつだけ、
夜へ向けて呟いた。
「さあ、幕を上げよう」
その声は優しいほど静かで、
それでいて刃のようだった。
「終わりの鐘はまだ鳴らさぬ。
絶望の名もまだ早い。
余が欲しいのは、
砕けた英雄の顔ではない」
不敵に唇を吊り上げる。
「限界の先でなお立ち上がる愚か者どもが、
最後の最後に見せる光だ」
そして、
わずかに首を傾ける。
「その輝きこそ、
闇に沈めるに値する」
魔王城の窓なき壁の向こうで、
夜がさらに深くなる。
四眷属はもういない。
次に来るのは、
そのすべてを束ねる王。
白銀の旅路の先に、
ついに魔王が乗り出してくる。
アイ・ノクスフェリア。
それが、
次に四人の前へ現れる、
本当の夜の名であった。

