
最終決戦の前夜。
空は静かだった。
あまりにも静かで、
まるで世界そのものが、
次に訪れる夜明けを恐れているかのようだった。
ヒマワリ、ソラ、コユキ、チョコ。
四人は魔王城へ続く黒い山脈のふもとで、
小さな焚き火を囲んでいた。
明日、
魔王アイ・ノクスフェリアと戦う。
その事実は、
誰の胸にも重く沈んでいた。
けれど、
不思議と誰も口には出さなかった。
ヒマワリはいつものように明るく振る舞い、
ソラは剣の手入れをし、
コユキは魔導書を閉じたり開いたりしながら、
時折、焚き火の向こうに見える魔王城を見つめていた。
チョコは、
黙って火を見ていた。
黒衣の僧兵。
闇属性を宿す拳王。
夜をまといながらも、
決して夜に呑まれなかった男。
その横顔は、
いつもと変わらないように見えた。
けれどヒマワリは、
そんなチョコをちらりと見て、
少しだけ声をかけた。
「チョコ、大丈夫?」
チョコは短く答える。
「問題ない」
「ほんと?」
「ああ」
「ならいいけど」
ヒマワリはそう言って笑った。
だが、
その笑顔には少しだけ不安があった。
チョコはそれに気づいていた。
当然だ。
彼は昔から、
ひまわりの表情の小さな揺れに気づくのがうまかった。
幼いころから、
ずっと見てきたからだ。
陽だまりのような笑顔。
まっすぐすぎるほどの優しさ。
誰かのためにすぐ前へ出てしまう危うさ。
だからこそ、
守りたいと思った。
恩があるから。
拾われたから。
大事にされたから。
それだけではない。
きっとそれ以上に、
彼はこの光を失いたくなかったのだ。
ソラが剣を布で拭きながら言った。
「見張りは交代でいいな」
ヒマワリがうなずく。
「うん。明日が本番だから、ちゃんと寝よう」
コユキは少しだけ眉を上げる。
「あら。勇者さまにしては珍しくまともな判断ですわね」
「ひどくない!?」
「褒めていますのよ」
「絶対ちがうよね?」
ソラは淡々と言う。
「半分は褒めてる」
「半分なんだ……」
チョコは何も言わなかった。
だが、
わずかに口元の空気がやわらいだ。
こんな夜でも、
この三人は変わらない。
変わらないことが、
不思議と救いだった。
見張りは、
まずソラ。
次にコユキ。
その次にヒマワリ。
最後にチョコ。
そう決まった。
チョコは最後でいい、と短く言った。
「明け方が一番危ない」
それだけの理由だった。
けれど本当は、
彼自身もわかっていた。
魔王城に近づけば近づくほど、
夜の気配が濃くなっている。
その夜にもっとも引かれやすいのは、
きっと自分だ。
だから最後まで起きている。
最後まで周囲を見る。
それが自分の役目だと思っていた。
やがて夜は深くなった。
焚き火の赤は小さくなり、
草地には冷たい風が流れた。
ソラは最初の見張りを終え、
何も言わずチョコの近くを通った。
「異常なし」
「そうか」
「ただ、夜が濃い」
「ああ」
それだけで伝わった。
ソラは毛布にくるまり、
すぐに目を閉じた。
次にコユキが見張りをした。
白銀の魔法使いは、
焚き火の近くに座りながらも、
魔力の糸を細く広げて周囲を探っていた。
「嫌な夜ですわね」
交代のとき、
彼女はチョコにそう言った。
「闇が、ただ暗いだけではありませんわ。
こちらを見ているようです」
「わかっている」
「あなた、特に気をつけなさい」
チョコは少しだけ目を細めた。
「俺か」
「ええ」
コユキはまっすぐに言った。
「あなたの闇は、魔王の夜と響きやすい。
似ているからこそ、
引きずられる可能性がありますわ」
チョコは返事をしなかった。
否定もしない。
コユキはそれ以上言わず、
ただ小さく息をついた。
「まあ、あなたが簡単に堕ちるような方ではないことくらい、
わたくしにもわかっていますけれど」
それだけ言って、
彼女も眠りについた。
そしてヒマワリの見張りが終わるころ。
夜は、
いっそう深くなっていた。
ヒマワリは眠そうに目をこすりながら、
チョコの肩を軽く叩いた。
「交代だよ」
「ああ」
「無理しないでね」
「しない」
「ほんとに?」
「しない」
ヒマワリは少しだけ笑う。
「チョコの“しない”は、
だいたい無理してるときの言い方なんだよなあ」
チョコは黙った。
図星だった。
ヒマワリはそれ以上責めず、
ただ小さな声で言った。
「明日、みんなで帰ろうね」
チョコは焚き火を見たまま答える。
「ああ」
「約束だよ」
「ああ」
その声を聞いて、
ヒマワリは安心したように横になった。
やがて、
四人の中で起きているのはチョコだけになった。
焚き火の火が、
ぱちりと小さく鳴る。
遠くに魔王城が見える。
黒い山の上にそびえる、
闇そのものの城。
チョコは静かに立ち上がり、
周囲を見回した。
異常はない。
だが、
異常がないことこそが異常だった。
虫の声がない。
獣の気配もない。
風だけがあるのに、
その風に温度がない。
まるで世界が、
次の言葉を待っているようだった。
そして。
その声は来た。
「チョコ・ノクティス」
背後からではない。
空からでもない。
地の底からでもない。
声は、
チョコの内側から響いた。
チョコは目を細める。
「……アイ・ノクスフェリア」
闇の中に、
ゆっくりと人影が浮かび上がった。
実体ではない。
夢でもない。
魔王が送り込んだ、
夜の幻影。
漆黒の衣。
深淵を編んだような長い髪。
妖しく整った顔立ち。
底のない夜を宿した瞳。
アイ・ノクスフェリアは、
静かに笑っていた。
「気づいていたか」
「気配が濃すぎる」
「ふふ。辛辣だな」
魔王は愉しそうに言う。
チョコは拳を握らない。
ここで拳を振っても意味がない。
相手は幻。
いや、幻というより、
夜そのものが形を取っているようなものだ。
魔王は焚き火の向こうに立ち、
眠っている三人をゆっくりと見た。
ヒマワリ。
ソラ。
コユキ。
「よく眠っている」
チョコの声が低くなる。
「触れるな」
「触れはしない。
今宵、余が用があるのはおまえだ」
魔王は視線を戻した。
「チョコ・ノクティス。
夜を拳に宿す者。
闇を抱きながら、
なお光の側に立つ者」
その声には、
嘲りではなく、
どこか本物の興味があった。
「おまえは、こちら側に近い」
チョコは答えない。
アイ・ノクスフェリアは続ける。
「ノクティス。
その名の中に夜がある。
余のノクスフェリアと同じく、
おまえもまた夜の系譜に連なる者だ」
黒い風が揺れる。
「だが、おまえの夜は縛られている。
恩義。
誠実。
仲間。
家族。
守るべきもの。
くだらぬ温もりに鎖をつけられ、
せっかくの闇を小さく丸めている」
チョコは黙って聞いていた。
その沈黙を、
魔王は拒絶とは受け取らなかった。
むしろ、
心地よさそうに目を細める。
「余のもとへ来い」
その一言は、
静かだった。
けれど、
焚き火の火が一瞬だけ小さくなるほどの圧を持っていた。
「おまえの闇は、
人を守るためだけに使うには惜しい。
その拳は、
誰かの背中を支えるためのものではない。
世界を沈めるために振るえば、
もっと深く、
もっと美しく燃える」
チョコの目がわずかに鋭くなる。
アイ・ノクスフェリアは微笑む。
「欲しくはないか。
誰にも縛られぬ夜を。
誰にも命じられぬ力を。
過去も恩も情も捨て、
ただ己の闇だけを磨き上げる王の道を」
その言葉は、
甘かった。
そして危うかった。
チョコの胸の奥にある闇へ、
まっすぐ差し込んでくる。
彼は知っている。
孤独を。
飢えを。
窓の外で泣いていた夜を。
自分の居場所がどこにもないと思った時間を。
もしあの夜、
手が差し伸べられなかったら。
もしあの家に迎え入れられなかったら。
もしひまわりが笑いかけてくれなかったら。
自分は、
この魔王の言葉に頷いていたかもしれない。
夜を恨み、
世界を恨み、
孤独を力に変え、
誰にも届かない場所で拳を振るう者になっていたかもしれない。
魔王はそれを見透かしたように言った。
「おまえは捨てられた夜を知っている。
誰も来ない冷たさを知っている。
ならばなぜ、
その痛みを光などに預ける」
チョコは静かに息を吐いた。
「預けていない」
「ほう」
「持っている」
チョコの声は低く、
揺れなかった。
「捨てられた夜も、
冷たさも、
全部俺の中にある」
アイ・ノクスフェリアは笑みを深める。
「ならばなおさら、こちらへ来い。
その闇を解き放て」
「違う」
チョコは一歩、
焚き火のそばへ戻った。
眠る三人の気配がある。
ヒマワリの穏やかな呼吸。
ソラの静かな寝息。
コユキの規則正しい眠り。
それを背にして、
チョコは魔王を見る。
「闇は、
解き放つためにあるんじゃない」
「では、何のためにある」
「抱えるためだ」
その言葉に、
魔王の笑みがわずかに止まった。
チョコは続けた。
「抱えて、
それでも立つためだ。
飲まれそうになっても、
誰かの前で踏みとどまるためだ」
黒炎が、
彼の拳に静かに宿る。
激しくはない。
燃え上がるのでもない。
ただ深く、
沈むように灯る黒い火。
「俺の闇は、
俺を救ってくれた人たちに向けるものじゃない」
チョコの視線は、
まっすぐだった。
「守るために使う」
アイ・ノクスフェリアは、
しばらく黙っていた。
やがて、
心底おもしろそうに笑った。
「つまらぬ答えだ」
「そうか」
「だが、美しい」
魔王は少しだけ首を傾ける。
「やはりおまえは面白い。
我に似た夜を持ちながら、
我とは真逆へ歩く」
チョコは答えない。
魔王はさらに一歩近づく。
その足音はなかった。
だが夜の密度だけが濃くなる。
「最後に問おう。
明日、おまえは死ぬかもしれぬ」
「知っている」
「ヒマワリも。
ソラも。
コユキも。
全員が砕けるかもしれぬ」
「知っている」
「それでも行くのか」
チョコは、
少しだけ眠るヒマワリの方を見た。
あの日、
窓の外で泣いていた自分を、
優しく迎え入れた家。
その中で笑っていた小さな娘。
そして、
隣にいた空色の親友。
あたたかい場所。
与えられた名前。
守りたいと思った背中。
それらは、
鎖ではなかった。
自分を縛るものではなく、
自分がどこへ帰るべきかを教えてくれるものだった。
チョコは魔王へ向き直る。
「行く」
短い返事だった。
だが、
それで十分だった。
アイ・ノクスフェリアは満足そうに笑う。
「ならば明日、
余の夜の前で証明してみせろ」
闇が揺らぐ。
魔王の幻影が、
少しずつ薄れていく。
「チョコ・ノクティス。
夜を背負いながら、
光の側に立つ拳王よ」
その声は遠ざかりながらも、
妙にはっきりと響いた。
「おまえの闇が、
余の夜にどこまで抗えるか。
楽しみにしている」
最後に、
アイ・ノクスフェリアは不敵に笑った。
「もし折れたなら、
そのときこそ迎えに行こう」
そして、
夜は元に戻った。
焚き火の赤が戻る。
風の音が戻る。
遠くの草が揺れる音が聞こえる。
チョコはしばらく立ったまま、
魔王城の方を見ていた。
拳の黒炎は、
もう消えている。
けれど胸の奥には、
静かな熱が残っていた。
やがて、
背後で小さな声がした。
「……チョコ?」
ヒマワリだった。
眠っていたはずなのに、
少しだけ目を開けている。
「起こしたか」
「ううん。
なんとなく、目が覚めた」
ヒマワリは毛布にくるまったまま、
ぼんやりとチョコを見上げる。
「大丈夫?」
チョコは短く答えた。
「ああ」
「ほんと?」
「ああ」
ヒマワリは少しだけ安心したように笑った。
「ならいいや」
そしてまた、
ゆっくり目を閉じる。
その寝顔を見て、
チョコは思った。
やはり、
自分はこちら側でいい。
夜を抱えていても。
闇を宿していても。
黒い炎を拳に持っていても。
自分が立つ場所は、
この焚き火のそばだ。
この人たちの隣だ。
チョコは静かに腰を下ろし、
残りの夜を見張った。
魔王の誘いは甘かった。
だが、
彼の答えは最初から決まっていたのかもしれない。
闇に生まれたのではない。
闇を知りながら、
光のそばにいることを選んだ。
それが、
チョコ・ノクティスという男だった。
夜明け前。
空の端がほんの少しだけ白み始める。
魔王城はまだ遠く、
そして近かった。
最終決戦は、
もうすぐ始まる。
けれどその前夜、
黒衣の僧兵は確かにひとつの戦いに勝っていた。
誰にも知られぬまま。
剣も盾もぶつからぬ、
静かな夜の戦いに。
ただ、
いつものように黙って、
仲間たちの眠りを守り続けたのである。
