人生は思ったよりも長い。目先の成功で酔ってしまうことはあるが問題はその後の人生だろう | ずるずると道・郷・話を愛でる

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房総半島から栃木県北部を中心として、
街と街を結ぶ県道・国道・峠道を巡回しながら、
持続可能で成長する日本の未来の為に成すべき事を考えます。
日々の個人的な興味について書くこともあります。

楽しいことはそれを支える環境があってこそ、できることである。(スーパーカブ)

 

 

このような話を聞くと、たまにテレビ番組のねたになる、子役でやたらヒットして人生が狂いました、という話である。まあ、それでも、番組に呼んでこれ荒れるぐらいの人生を歩んでいるという意味では、そんなに失敗の部類にはならないかもしれない。しかし、上記の人については、どうだろう。いろいろな例があるが、大成功して、それがどう考えても持続可能な仕事に見えないとき、その後の人生の選択をどのようにするか、というのは、下世話な意味で興味が湧いたりする。しかし、そこにあるのは、基本的には転落の人生であり、ほんの僅か、それを逆転するシナリオの可能性があるぐらいだろう。なんやかんや行って要領がいい、という意味では、何らかの方法で生き残る気もするが、その生き残り方は、極端な形でしか現れようがなさそうである。何しろ、本人が普通のサラリーマンにはなれないですね、といっていたりもするからだ。

 

当然未来のことなどはよくわからない。この当人はそういうことすら想像もせずに楽観的にやっているということなのだろう。もちろん、若者の万能感というのは貴重であり、それを無碍に否定するものではない。万能感があろうがなかろうが、若者というのは、柵も少なくやり直しも聞くこと言うのは実際のところ多くの場合に当てはまるかもしれない。もちろん、育った環境のよってはそんな幅すらない人もいるだろう。少なくとも上記の少年にとってはそれぐらいの幅があるとは言えるだろう。と言っても、同じような生活水準でやっていけるかどうかは不透明である。

 

とはいえ、うまくやっていく可能性はいくらかあるだろう。今のやり方に狭い意味で固執してしまうとその可能性は著しく小さくなっていくが、柔軟に考えることができるのであれば、なんとかやっていけることであろう。人脈などを利用して、ネオリベ的な世界に入り込めば、場合によってはそのような世界で人の生き血をすすりながらうまくやっていく可能性はある。成り上がり物の成功者ということである。

 

少なくとも最初から飛ばしまくっている彼のような存在は、若者のマジョリティーになることはない。運が良かったということもあろうだろうし、そのような運は、多くの人には舞い降りないからである。だから、このような幸運を期待したような人生の始め方は頼りないものであり、社会をまともに形成するためには、秩序を生み出すと言うよりは破壊する方向に働いてしまうだろう。多くの人は本当に生活できずに破綻してしまい、彼と同じように、普通のサラリーマンにすらなれないかもしれない。別の意味で。