既存の政治と国民の生活基盤である社会を守る政治を自由と束縛の構図でみて自由至上とする人がいる | ずるずると道・郷・話を愛でる

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房総半島から栃木県北部を中心として、
街と街を結ぶ県道・国道・峠道を巡回しながら、
持続可能で成長する日本の未来の為に成すべき事を考えます。
日々の個人的な興味について書くこともあります。

支えられている感覚。それは最小単位では家族であったりするが、たとえ、それがなくなってしまっていて、天涯孤独であっても、社会に支えられているのである。すべての活動は間接的にでも社会に還元することがないとすればその存在意義はない。金儲けを目指す会社においても例外ではない。自由に活動することが許されるのは上記の条件を満たす間であろう。別に会社制度そのものに本質的な意味はなくそれを維持することに究極の意味はないからだ。(絵は本好きの下剋上)

 

おそらく、ここの記事を見て、経済学がうんちゃらかんちゃらと頭に思い描き、それでは、資本主義がうまく回らないので、駄目です、みたいなことを言う人がいるだろう。なんとなくうまく行っていて、確かに、今現在の経済はそれで回していることには違いない。ただし、そんな今の経済が、うまく行っていて、自分の株式投資か何かがうまく行っているから、それで良いし、当然これに続く未来は、何も変わらずうまくいき続けるに違いない、未来永劫うまくいくという考えに至っているとすれば、それはだいぶ頭の使うべき部分が壊死している可能性がある。

 

今がうまく行っているように見えるからと言って、それがうまくいくということは当然ながらありえない。

少なくとも、今起こっていることを直視して、今の仕組みをどうするべきなのかと考えなければ、早晩破綻してしまうということは、この30年の日本の衰退、すなわち、日本国内でものが作れなくなっていることを振り返れば嫌でも感じられることだろう。ここへ来てコロナ災禍によって、人の国際的な移動が強力に制限されて、観光客も技術者も国内外で移動ができなくなってしまっている状況が作られ、それによって起こっていることを考えれば、見えてくるのではないか。自分たちの国内のことはできるだけ、自国内で、自国民で行わなければならないと。

 

別にそれ自体は突拍子もない事ではない。30年前より前には我が国でやってきていたことである。それがいつの間にか、自由がよいという竹中平蔵バリの思考停止によって、そして、金勘定だけで経済が語れるというような高橋洋一のような人間がはびこるようになって、そして、大前研一のような、アメリカかぶれの奇をてらったやり方が良いかのような幻想だけを見させることが、意識高い系として、揉めちぎられるようなこともあって、これまで自国でなんとかしてきたことが、カネが儲からないだの非効率だのと言われて否定され続けたのである。そんな思考停止の間隙をぬって、アメリカ資本が日米の不平等な関係を使って、圧力をかけて、全く無抵抗にそれを飲み続けてきた、腑抜けな状態になったのが今の日本である。

 

自由の意識だけは一人前のくせに、自国を守るきもない。自国は遊んでいても勝手に成り立って勝手に支えてくれるという自分事であることを忘れる状況にまでなってきた。生きることのリアリティーすら失われているようにも思える。そんな状態で、成長の感情も入れない平衡状態でしかものが見られない経済学を使って、やれることを失い続け、政商などのような政治力をつけたものに、偏った富を集めることは、実に容易いことだったのかもしれない。その変わり、そういう政商の連中も想定していないような社会構造の弱さをもたらすことになる。要するに国を守る、外からも、内側も、守ることができない国になってしまっているのである。政商と言われる連中でさえも、日本の国力を後ろ盾にして活動しているはずなので、それは想定外なのだろうが、それは、想像できていなかったとも言える。なんと行っても、実態に対してリアリティーを持って感じる力がなくなっているからである。ようするに、ほっとけば勝手になってくれるという感覚があるからだ。想像力を使う以前の問題である。そこにある構造の下部がすっぽり見えなくなっているのだ。

 

束縛が嫌だとおもってしまうのは、そういう下部構造に対して、そこにそれがある、それに我々が乗っかっているという感覚が薄いからだろう。単純にそれに気がつけば、それを守ることが自分たちの仕事の重要な部分であるということがわかるからである。それを束縛と思うのであれば、さすがに、社会を捨てて生きていくしかない。それは社会の破壊につながるとすれば、保護するにしても束縛する必要があるだろう。