飯屋は飯を出していれば十分である、という考え方を研ぎ澄ませた結果が、国家の衰退をもたらしたかも。 | ずるずると道・郷・話を愛でる

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房総半島から栃木県北部を中心として、
街と街を結ぶ県道・国道・峠道を巡回しながら、
持続可能で成長する日本の未来の為に成すべき事を考えます。
日々の個人的な興味について書くこともあります。

若い時の恋愛がぎこちない、あるいは、場合によってはひどいことになるのは、お互いの見える世界の違いも大きいだろう。相手を察する想像力の欠如である。本来は大人になればそういう状況が解消されるはずだが、いい大人になっても変わらないという状況が社会を不安定にさせているということが現実には起きているのかもしれない。(月がきれい)

 

飯屋の希望とお客の期待が重なっていた時、それは生きがいになるというものだ。飯を多く食って活動する高校生などを相手にする飯屋としては、おなかをすかせながらも頑張って活躍してほしいから、多少度外視した値段で提供するということだった。しかし、話は珍しさから、単なるインスタ映えするという理由で、間食するだけの覚悟もなく気軽に注文する、ということが相次ぎ、精神が折れたのだ。実に悲しいことだった。

 

【蠅】「スマホいうんかな。あれで写真を撮るだけ撮ってな・・・」球児のための「大盛りカツ丼」甲子園の老舗食堂がやめた悲しい理由

https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1566035060/

 

大学の周りにも大盛の食事を出す店がよくある。そのような店も思いは似たようなものだろう。その商売はそのメニューに偏りすぎないことで成り立っているところもあるだろう。それは商売が成立するための最低条件である。しかし、問題はそこではないのである。勤め人であれば、引退して10年以上もたっているような人が、お客さんの喜びを感じることで精神を満たすという形で飯屋をやっているということなのだ。そんな中で、採算度外視で、飯屋具を作り盛り付けるのに体力も使うメニューを出していたのは何のためなのかを理解しないただの珍し屋が横行する状況というのは、心が折れることにしかならないだろう。

 

年齢的に遠からず商売をやめてしまう、あるいはその前に営業内容を縮小することになっていただろうが、終わらせ方の流れとしては、悲しいものである。だいたい飯を平気で残してよいと思ってしまうというのは、自分の価値観では食材を作ってくれた人たちに申し訳ないと思ってしまうものであるが、若い世代、あるいは、上の世代でも成金的な価値観では、金出しているのだから、サービスは受けられるだろう!残すのも好き勝手にさせろ、という考え方もあるだろう。しかし、それは、飯屋の希望するものではないのである。

 

このような思いのずれは、人が労働して何かを得るということに対する愚弄に近いものがあるだろう。カネというものが万能であれば、こんなバカげた話はないのであるが、残念ながら人の感情というものは、カネで完全に変換できるものではないという例になる。

 

カネさえ出せば何とかなるという考え方は、その単純な規則性を考えれば、疑問の余地がないようにも考えることができる。しかし、その後ろにあるのは労働であり、先にあるのは、それに対する消費である。それをつなぐカネは、あらゆるものに対して価値が決められているが、そこには労働するものの感情は込められる保証はない。だからこそ、経済学という算数に基づいた理屈が成り立つように思われるのだが、それは実に狭い範囲でしか成り立たない理屈であるというのは、カネがその額面に平等に運用されることが持続的なことでないからである。

 

カネを最優先に一般国民の命よりも大事にして、使うのを渋るというのはかなり問題で、今の日本の政治が侵されている重病、財政健全化病である。それだけでなく、カネを使う側も、労働に対して価値を感じるような労働ができるような配慮も必要だということだろう。カネをもらって働くことの充実感をである。そこにはカネを稼ぐ、というだけのために労働するというものでは実は足らず、提供する側に対してもそれが役に立つという感覚が必要なのだろう。それは、物語という形でていきょうされなければ人には理解されない。その際に重要なのはそのような物語をカネをやり取りする間で共有することである。それは、郷土を愛することを基本とする文化を共有することにつながってくるのだ。

 

移民をほいほい使って何とかすることや、仕事の内容などはどうでもよく、とにかく口利き屋の派遣業者の意のままに安い給料で働かされることでしか働くことができないこと、あるいは、公共事業である水道や交通インフラ事業が、まったく縁もゆかりもないフランスなどの外国企業の利益増幅のために事業として行われるなどの事態は、労働がないがしろにされ、それを実施する国民や外国人の心を、すさんだものにする一方で、その労働は相当な「無駄遣い」となるのである。労働の質は、中長期的には、「生産性」というカネを基準とした指標で測るものではない。結果として眺めることに意味があるが、その指標を動かすことを効率よく達することだけを考えたところでろくなことにならないのは、カネという人間の感情が絡まないものを基準に見ているからなのである。

 

持続して国が発展していく、ということは実に複雑なことである。単純なカネの右左で語れるものではないということは、問題を単純にして考えることが大事である、ということの行き過ぎの反省として、我々が重い絵がなければいけない物語なのである。