「次」平成の学徒動員は、グローバルバカの犠牲者 | ずるずると道・郷・話を愛でる

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房総半島から栃木県北部を中心として、
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オリンピックが開かれるはずの2020年は、元号が変わって2年目。何とか2年の夏ということになる。これが無事開かれるのか、結果として無事に開かれることにするように努力はするが、それは、国民一丸となって・・というよりは、政府や主催都市の都などがいいように取り繕って、無事に開かれたことにするのだろう・・という頭の痛い予想しか頭に浮かばないというのは、どういうことだろう。本当にこのオリンピックを開催する意味があるのか、というのがやはりこの話題について考えるときに必ずよぎる話である。

 

大学改革のさもしくも偉大な顛末、または東洋経済オンライン配信「ダンシングライター」

 

このブログで書かれていることが本当でないと信じたいのであるが、残念ながら本当に実施されていることなのだろう。

 

大学改革の内容の愚かしさも、驚嘆に値するが、その一環としての2020年のオリンピックに対する「学徒動員」である、強制ボランティアをグローバル人材に結び付けてやることなどは、ほとんどお笑いの世界になってしまっている。このことをまじめに取り組んでいること自体が、誰かと目足れよ!の世界である。

 

文科省が学生を動員したがっているボランティアとは

早い話、

炎天下で単純労働に従事すること。

それも無償で。

 

(中略)

 

とはいえ、

そんな単純労働で教養が深まるのか?

ビジネスに必要な事務処理能力や交渉力が身につくのか??

 

・・・聞くだけヤボってもんでしょうが。

 

けれども文科省は

大学生がオリンピックやパラリンピックでボランティアをすることに

何やら積極的な意義があると思っている模様。

 

目下、わが国は「グローバル人材の育成」を国策にしていますから

推測するに

外国人も多数やってくるイベントでボランティアをすることは

グローバル人材となるうえでプラスだ

と考えているのでしょう。

 

佐藤氏を含めた大学改革論の座談会の記事がリンクされていたがこの座談会で指摘されている内容は、日本の大学改革というものが、もともとパッとしなかった日本の大学をどうしようもないところにまで突き落としてしまうという分析だったのである。

 

このままでは日本がダメになる!!

という強迫観念に駆られたあげく

目先の利益を近視眼的に追う改革を進めて

日本を本当にダメにする、という次第。

 

『ブレードランナー』のシナリオに登場する台詞

(ただし映画では未使用)にならえば

物事をちゃんと理解しないまま行動することほど

自分の首を的確に絞めあげるものはない

というやつであります。

まさに、凋落の日本で続けられている改革の内容がこの指摘に見事に符合しており、ろくにその効果(よいようにも、悪いようにもなることがありうる)ことを検討しないままに、ワンフレーズの言葉だけがあって入れば、それだけでGOサインが得られるというどうしようもない状況なのである。

 

経済がよくないから政府もカネを出すべきでなく緊縮で増税!

国内経済がよくないから世界に打って出る必要があるからグローバル人材!

 

どちらの話題も、大学にとっては厳しいものであったのである。前者はもともと、儲けることよりはそれを度外視した研究をすることで未来の日本のために役に立つものを作る可能性を広げるという大学の趣旨が、今、すぐに役に立つ人材を育てる!というほとんど専門学校と変わらない役割を求めてきたのが政府の大学改革であった。そして、その上に乗っかってきたのが、グローバル人材、とかいうものである。

 

中身はともかく、英語さえやっとけばよいみたいなノリで、進められている「改革」は、カネを出してもらうために、中身より外人を連れてくることに懸命になるだけで、教える内容に深みがあるというよりは、それこそ、思考能力よりは、職業訓練の・・・ほんの一部だけをやっているふりをするような内容となってしまっている。

 

電車の広告で見る大学の宣伝を見ても、こりゃ大学というところでやる内容ではなくて、一昔前なら専門学校でやっていたものにしか見えない。今や何でもかんでも大学という名前の学校となってしまっており、大卒という資格も、たいして珍しいものではなくなってしまったのである。

 

職業訓練をやるというのであれば、それに対応した学校にしなければどうしようもなく、ただ、そういう人間だけでは、その場の儲けとかそういうものに気をとられてしまい、中長期のレンジで国の行く末を考えることができる素養を身に着ける機会を得るところがなくなるということの方が問題なのである。大学はそういうことをするための教養を身に着けたり思索をしたりする時間を得られる機会の場だったはずなのに。大学改革は、なぜか、専門学校と大学の境界をなくしたうえで、大学全体を専門学校化してしまったのであった。

 

こんな大学改革(笑)に対して、まじめについてきている学生は、実は結構間抜けな方向に連れていかれているという現実を知りたくもないだろう。知った時の絶望感は想像を絶するものがあるかもしれない・・。が、それを放置しておくことは、当人たちも含め、未来の日本の可能性をつんでいくことになる。それは結構つらいことであるが、それを通り抜けないと自分たちの未来もないというどうしようもない状況に陥ってしまうのである。それを避けるための現状肯定をすることは、1か月や1年先ぐらいまではよいにせよ、10年先は暗い。まさに現状の日本の政治の状況とほとんど同じ状況なのである。

 

学生は、まじめであればあるほど、そりゃまじめだからそれが正しいと思いたくなるわけであり、それだけにそれを吹聴して進める大人たちの罪は重いのである。出来上がってからの方向転換に伴う犠牲は半端なものではない。

 

こうなってしまってからの、本当の改革をするのは相当なエネルギーと調整が必要となるだろう。そもそも、そういう改革をする意義は、英語~とかいうぐらいの「ワンフレーズ」では語れないからである。説明の前にその全体的なビジョンをつくり、それに合わせる形で実行していかなければならないだろう。その実行の際には説明ができるだろうが、ビジョンそのものは、それを説明をするよりは、それをすることで、これまでに失われたこと国の行く末に必要だったことを復活させるのかを示す必要があるだろう。