米国留学組の見る歪んだ米国流とは | ずるずると道・郷・話を愛でる

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房総半島から栃木県北部を中心として、
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投稿前のシロウトのラノベ原稿の感想を聞かせてくれという依頼に対して、真面目に徹夜して読んだあとに、うっかり居眠りをする「氷の女王」は、スキを見せつつ近寄れば直ちに起きたふりをして毒舌を吐きながらも実はあくびを見せてしまうほどにリラックスしていた、ということにも気がつけないひねくれさんの主人公であった。(やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。より)

 

日本では、エリート官僚や大企業の社員などが米国の大学に留学するということがあり、そこで仕入れてきた知識を、日本でも適用しようと躍起になることがよくある。現在日本の経済政策の核となっている新自由主義に基づく各種政策もそういうものの一つではないだろうか。

下記の記事は、教育のやり方について、米国流、とくにエリートを排出しているハーバードやらMITやらIT企業の集まるシリコンバレーやらで仕入れてきた教育方針を日本に適用しなければ、世界に勝てないとかなんとかいう話は、かなり暴論であり、国のあり方を変えるような大事である、というような趣旨のものであった。

 

http://gendai.ismedia.jp/articles/-/54446

日本人が大好きな「ハーバード式・シリコンバレー式教育」の歪みと闇

日本では、まったく参考になりません

 

ハーバード大学に留学した日本人が語る米国教育論は参考になるのか? シリコンバレーで働いたりカリフォルニアに留学したりした日本人が語る米国教育論は何を見落としているか? 世界銀行や国連児童基金を経て米国の大学で教育政策などを研究する畠山勝太氏が、それぞれの教育論の妥当性を問う。

 

例えば、文部科学省のヒアリングなどでも、シリコンバレーのあるカリフォルニア州・ロサンゼルスで体験した教育に基づく教育政策提言がおこなわれている(http://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/kaikaku/arikata/detail/1301456.htm)。

しかし、このような提言というのは、日本の教育政策に対して妥当性を持つのであろうか?

通商政策や金融政策などと異なり、教育政策の分野では、決して普遍的とは言えない特定個人の体験に基づく教育政策提言がなされやすい傾向がある。

 

執筆者の言うこととは異なり、通商政策や金融政策というか経済政策についても、似たような傾向があるだろう。地域の事情というよりは、その国のあり方という部分を無視した直輸入方式である。教育の事情とそんなに変わりはしない。

 

日本人がシリコンバレーで見る素晴らしい教育は、このようにすぐ隣にいる貧しい黒人やヒスパニックを徹底的に排除し、かつそのような地域に対して手を差し伸べることなく、自分たちの持つ資源を自分たちの子弟の教育のためだけに使った上に成り立っているものなのは、日本が参考にする上で理解しておく必要がある。

カリフォルニアではこのようなことになっているし、州ごとに見れば、東北部の州やカリフォルニアなど以外の州では、その平均収入に比例した格差も生じている。国からの介入を嫌い、自分たちのことは自分たちで行うという、地方分権がかなりの部分で進んでいるといえばいいだろうか。いや、むしろ、もともと地方分権で国の関与が寧ろ強まってようやくこのような形になっているといえばいいだろうか。州ごとのレベルではなく、地区ごとのレベルでその教育水準の格差が生じている。そもそも、人種ごとにすみかが別れているため、地区ごとのレベルは人種ごとのレベルに直結しているという。

 

米国を参考にすべき」は暴論だ

そもそも、日本人がハーバード大学やシリコンバレーで見る米国の基礎教育というのは、米国のごく限られた上澄みであるが、ある国の平均ではなく上澄みだけを見て、それを日本の平均と比較するというのも、それは比較として成り立っていない。

教育システムは、それを取り巻く社会福祉政策に規定され、社会福祉政策はそれを取り巻く文化・社会・経済的背景に規定される。これらの要因を考慮せずにある教育システムを別の文脈に持ち込んでも、ただ失敗に終わるだけである。

 

アメリカにおける高級な教育は、高級な暮らしを維持する共同体で脈々と続けられるというものであり、階級社会という国柄に根ざしたものであろう。米国流を真似をするというのは、階級を生み出し固定化するというやり方も取り入れるということでもある。そういう意味で、「米国を参考にすべき」は暴論だ」。

 

米国の学者が、日本の経済政策について、当たっていることも言えば妙なことを言うのは当然である。考えている国のあり方、どうやって国の力を保持していくのか、という考え方が異なるからである。ただただ野放図に経済成長すればいいというものでもないのだ。もちろん、経済成長は必要なことではある。

 

が、日本のエリートに多い米国かぶれ連中に言いたいのは、金融経済に大方のカネが吸い上げられていくことでは、自然環境を含む国の環境を整え、その上で国力を付けていくことは不可能なのである。日本という国は、欧米のそれとは異なるところがあって、世界戦争をせずとも昔から総力戦に近い国民の働きを擁する国なのだ。

 

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なお、記事の途中に聞きなれない言葉があったので調べておいた。 米国における階層は人種によって視覚的にも作られている。階層ごとの教育水準の格差は、「教育委員会」の予算が固定資産税ベースで確保されているということから来ていると主張する下りである。

この学区問題が存在する背後には、米国の住宅政策の問題がある。

第一に、米国の低所得者向けの公営住宅は地価の安い所を中心に作られた。このため、公営住宅の周辺が黒人のゲットーと化した。

第二に、大都市を中心にジェントリフィケーションが行われた結果、従来黒人が主に住んでいた地域が減少し、黒人が「主に」住んでいた地域が実質的に濃縮され、黒人「だけ」が住んでいる地域と化した。

第三に、民間の住宅販売や賃貸で人種差別が横行したことが、黒人が適正な価格で適切な地域に住む障害となった。

第四は、第三と関連するが、同じことが住宅ローンの融資の審査でも起こった。

 

※ジェントリフィケーション。聞きなれない言葉が記事に出ていたので、Wikipediaで引いてみた。

ジェントリフィケーション(英語: Gentrification)とは、都市において比較的貧困な層が多く住む中下層地域(インナーシティなど都心付近の住宅地区)に、再開発や新産業の発展などの理由で比較的豊かな人々が流入し、地域の経済・社会・住民の構成が変化する都市再編現象である。

上記では、裕福な人々が流入したところから貧困層は追い出され、一角の貧困階層の住民濃度が上がっっていったということを説明するために使用されている。