年間35万人、移民受け入れの衝撃 | ずるずると道・郷・話を愛でる

ずるずると道・郷・話を愛でる

房総半島から栃木県北部を中心として、
街と街を結ぶ県道・国道・峠道を巡回しながら、
持続可能で成長する日本の未来の為に成すべき事を考えます。
日々の個人的な興味について書くこともあります。

下記のブログの記事を見て衝撃を受けた。

 

その衝撃は、次の文言に集約されるだろう。

 外国移民問題について、安倍政権の政策を批判しているわけですが、
「まあ、移民は良くないと思うけど、まだ日本は大丈夫だよ」
 などと、甘く見てはいませんか?

 すでに、我が国は世界第五位の「移民受け入れ国」なのでございます。

移民ではないと政府与党は、国民に強弁してきた。当然その筆頭である安倍晋三首相もそのような言い方をしている。しかし、移民と名前をつけられないだけで、定住1年以上の外国人は、国際統計上は移民扱いされるのである。いわゆる観光客と違い、それぐらいの期間に渡って生活するのであれば、その土地で暮らすための収入が必要である。したがって、何らかの労働を伴うことが必要であろうからである。

 

実際、ブログが参照している記事「移民問題、日本も当事者 年間34万人、世界第5位」では、

 

出身国別で1万人未満の流入を含めると日本は34万人に上り、ドイツ(134万人)、米国(102万人)、英国(50万人)、韓国(41万人)に次ぐ。

として、世界第5位の移民受け入れ国、という事実が明らかになっている。(2014年の1年間における移民の動き)

単に、たしかに、都市部のコンビニやファストフード店(松屋とかすき家とか)では、日本人ではない従業員が多数を占める店舗も少なくない。こういう状況を見て、入ってきている一は、これは移民じゃないったら移民じゃないんだい!という程度に、移民という言葉を避けていただけであったのだ。確実に、定住する外国人である移民は増えている。その分、主に低賃金で行われている仕事が、低賃金のまま固定されながら、その仕事を外国人に依存する国家の構造が醸成されているのである。

 

ちなみに上記の西日本新聞は、イミンは受け入れるべし、という結論のもとに色々取材を観光しているようであるが、移民をそんなに受け入れて、うまくいくという確証でもあるのだろうか。多分、多文化共生※という新興宗教の信徒というだけであり、その根拠はまったくない。しかも、多文化の秩序なき混ざり合いにおいては、その押しの強い文化が、押しの弱い文化を駆逐する、だけのことである。主導権を握る保証がない限りは、やってはいけないのだ。

 

※多文化共生=なんでいいのかわからないが、世界は兄弟、という謎のフレーズぐらいでしか正当化されないプロパガンダ、イデオロギーである。建前を教わる教育の場では、無制限に良いことだと教えられる。それを、国家宗教として実践しているスウェーデンは、すでに、スウェーデン人であることをやめろ!(新生スウェーデン人)と公式に言われている状態になっている。新生なんちゃらは、人種的には、アクの強い中東イスラム系が多数を占めることとなり、国家宗教もイスラム教になるのではないだろうか。日本における多文化共生は、ムスリムか、中国人かに主導権を握られるようになることを抵抗できない宗教と同じ意味である。物事は許容範囲をよく知って、その範囲内で行うことが安定的な持続をもたらす秘訣である。

 

この傾向は、1998年の橋下政権以来の傾向であり、約20年もの間、その傾向が変わることなく外国移民が、その名前を隠されながら、印象として入ってきていないはずだ!と、思い込まされながら、その実、確実に取り込んできたのが現在の状況なのである。

 

 

これでは、仕事を政府の財政出動による公共投資などに回したとしても、低賃金構造が改善されず、ますます移民の導入を加速し、企業がそれによって得た利益も内部留保や自社株買いや株の配当に回され、賃金アップに使われることはない。95%利益は、賃金以外に使われてしまったという話を、イトカンが言っていた。賃金を上げずに、企業を株主として支配している、金利利得者のも受け分に大方回っているということである。

 

 

賃金に回らないことは、技術革新に対するモチベーションも著しく下がるということである。

企業に対する忠誠心も地に落ちていくので、その日の日銭のことばかりを考えるようになってしまい、小金持ちになる小手先の技だけを磨くことに忙しくなり、技術の向上、あるいは記述の結合による革新、見せかけではない実のあるイノベーションも、起こることもない。

 

このような状況に甘んじていることが、すでに、停滞を停滞として固定化する強い圧力となっているのである。この現状を容認して、しばらくはこの路線で行くしか無い、などと思いこんでいては、停滞の時期をそれだけ延ばすこととなり、しかも、経路依存性の観点から、その停滞画から抜け出せなくなる状況を変えることが、もっと困難になっていく。

 

この悪循環を変えるには、移民、語学専門学校やFラン大学の留学生にせよ、大規模農場の技術実習生にせよ、その依存を断ち切っていく方向に政策野鍛冶を切っていかなければならない。そういう雇い主たちの声を、聞いてはいけないのである。結果として、社会の経済成長を停滞させている大きな要因となっているからである。当然、デフレ圧力にもなり、デフレ脱却をホンキで考えていないというメッセージにもなる。

 

 

 

現政権は、首相に限らず、それに頼り切りの与党の議員連中も含めて、現実に起こっていることに対する、吟味の真剣さが全く感じられない。綺麗事を並べておけば、有権者をだまくらかすことができると高をくくっているのである。それを攻めきれない、野党の体たらくも、情けない限りであるが、森友や加計の問題を、チョロまかせると思っている程に、驕り高ぶっている状況なので、嘘でも言っとけばそれで押し通せると思っているのである。

 

それはまさに、言葉に対する異常な軽さを示しているのだ。彼らの言っている言葉の、言葉の軽さをもっと感じなければならないだろう。それに不感症になっている自分に危機感を覚えないといけない。なんでも、カタカナ語で雰囲気だけを作っている意識高い系のトークのように、実際の効果より雰囲気だけ、という相当バカにされた状況であることにだ。

 

 

-8<---8<---8<---8<---8<---8<---8<---8<---8<---8<---8<---8<---8<---8<--

追伸、

 

どうもくだらない話ではあるが、それでも敢えてどうしても記録しておきたいことがあった。

あえて読む必要もないので、読み飛ばすことを推奨したいところである。

 

 

 

それは三葉のおっぱい揺れ問題である。

 

君の名は。は一般に受けているアニメ映画としては、深夜アニメのツボといえるべき内容がそこかしこにちりばめられている。それは、例えばパンチラ問題として各方面で語られていたりする。また、今回記載するおっぱい揺れ問題ということも同様に熱く語り継がれているものだろう。

 

ちなみに気になるパンチラ問題は、アングルを少々下気味からの見上げる方向にした時の立ち漕ぎのシーンで不可抗力で見せるという、なかなか味わいのあるところは誰にでもわかるところではあるが、それ以外に、割れている彗星に気をとられてしまっている際に、道にできたひび割れ(緊縮財政の折、田舎の道では道の保守もままならないことを示唆している)に足を躓かせ、大胆に転ぶシーンが描かれるのであるが、0.2秒ほど大胆にパンツを公開するというシーンが丁寧に描かれていたのである。

 

しかし、一つ大きな事象を忘れているではないか、という突込みもあるということは承知している。それは、パンチラというのには大胆すぎてついつい突っ込みを忘れてしまいそうではあるが、最初の入れ替わりのシーンで、鏡の前のパンツ一丁の姿(鏡の内容は謎の光によって肝心なところが隠蔽されていることに注意)が映っていることを忘れてはなるまい。まあ、これをパンツちらりの略語としてのパンチラにそうとするというのは一般的には受け入れられないことには違いない。パンツもろみえ。あえて略するのであればパンモロとでもいおうか。すなわち、別枠である。

 

 

さて、話を戻して、おっぱい問題であるが、まず、注目されるのは、この映画の天丼ネタ(天丼とはどんぶりの上に天ぷら物を重ねてのせる様から同じネタを周期的に提示して笑いを誘うお笑い技術のことである)として使われている、三葉になった瀧が朝を迎えた時には、どうしてもやっておかなければならないネタとして、おっぱいを揉むというものがある。最初のシーンで見慣れぬ胸の盛り上がりを思わず好奇心に従ってもみしだくという、大胆な表現として出現した。そこにつけられている味わい深い効果音もさることながら、まるで料理紹介番組でしみじみ味わって感想を述べるレポータのような顔になるところも乙なところである。そこで見ている妹キャラに突っ込まれても、「いやぁ本物ぽいなぁ」と正直な感想を述べるあたり、初心者おっぱいソムリエとしては合格点を上げたいところだ。

 

しかし、話はそこで終わらなかった。おっぱいを揉むというのは、少々反則気味のいわゆる、ラッキースケベ(ラノベで見られる話のテンプレートの一種。男子主人公がその主人公の立場を最大限に発揮し、周りの女子に対して、不可抗力でスケベな状況を強要される話の運びのことである。)のたぐいのものであり、あくまで合法的にその味わいを表すのは、上下運動に対して、タイムラグをもってついてくるあの、揺れの表現である。

 

この揺れで、すぐに気が付くシーンといえばあれである。瀧と三葉の入れ替わりの紹介シーンにおいて、唐突にはじまるバスケットボールのシーン。大胆にもジャンプしてボールをゴールに叩き込んだ後に満足げに着地するところをバスト当たりのアップシーンで描いているところであろう。

 

あれは、それを実現するための設定がしっかりされているために実現したシーンだということに(いろんな意味で)驚かされる。

 

 

しかし、驚くべきことは、はっきりとアピールする形でわかるこのシーンだけではないことである。そのシーンは、某スレの報告によれば次のようなシーンで確認できているらしい。

 

おっぱいはゴロゴロ転がる前もバンバン揺れてるよ 
手のひらの文字見た後の力強い一歩のときも体の動きに遅れてひと揺れ

こ、細かい。そうすると、入れ替わった 三葉 in 瀧がいるはずのご神体に向かって走り出した三葉 in 瀧は、強引に借り出したテッシーの自転車を倒木のおかげで下に落としてしまって、仕方なく自分の足で走り出しているときもその揺れは描かれているのか。アングル的に木々が覆いかぶさる形になっているシーンが多くわかりにくいが、それでも正面からとらえる場面もあり、確かめてみる価値のある事案である。

また、社務所から妹二人で出てきて、宮水神社の階段を駆け下りるシーンはどうか。

 

このおっぱい揺れの表現は、あまりにも青少年の願望を表しすぎるという後ろめたさから、あえて表現しないという制作方針をとるアニメもあるぐらいに抑えどころが難しいものである。

 

このアニメも、この問題に真摯に立ち向かった作品であったが、君の名は。とは真逆の判断をした。このような比較的過激なシーンを提供しているにもかかわらず、別のシーンで提示されたところでは、揺れるはずのものが全くタイムラグなしに同期して動いていたのである。

 

やはり、制作メンバーのそのおっぱい愛に脱帽するしかない。その愛をおいしくいただけるというのもこの映画の隠れた味わいというものではないだろうか。

 

・・・書いてしまってからなんであるが、人生いろいろ後悔することもあるのだ。。