一日一禅 | おてらさん

おてらさん

大分にある臨済宗のお寺さんです。

「平常心是道」

趙州問う「如何なるか是れ道」
南泉曰く「平常心是道」



上の問答、当然ながら南泉和尚の方が師である。
「道」とは何だろう?
仏道・・・ほとけのみちか、はたまた人の生きる道か


そろそろ高校野球の話題が出始める季節だけれど、イマドキの高校球児も帽子の裏なんかに「平常心」とか書いているのかな?
「平常心」とは・・・過去に紹介した「八風吹けども動ぜず」という言葉のように、いかなる状況に置かれても、取り乱すことなく、淡々と行動することだろうか?

「無じゃ空じゃ」と、何もかもをその一言でくるんでしまって、平常心を保つためにひたすら喜怒哀楽の感情を押さえつけるのも、不自然だ。

『正法眼蔵』には「不染汚といふは平常心なり」とある。
仏性は、自分自身の中に本来備わっているものだ。
自身が本来仏であると自覚するためには、その仏性を汚さなければよいだけだ。

固定観念で物事の善し悪しを判断したり、「ある」とか「ない」とかに執着したり。
そういった分別・執着が、知らず知らずのうちに仏性を汚してしまう。
「道」(仏道)とは、それら分別・執着を捨て、自然ありのままの心もちであること(平常心)なのだと説く。
嬉しいときには笑い、悲しいときには泣く、そういう人間として当たり前の自然な姿の中にこそ「道」はあるのだと

けれど日常生活の中で、我々は常に分別をしながら生きている。
家庭で、学校で、仕事場で、いろいろな場面で、良いか悪いか、損か得か、あらゆる物事をふたつに分けて、相対的に価値判断を行っている。
そのような日々では、いつか心が疲れきってしまうだろう。
善悪を思わず、是非を論じない。
それが南泉和尚の説く「平常心是道」だ。





大事なことは、心身共に平常なこと。
喜怒哀楽の感情がわき起こる、
ありのままの自分を受け入れること。







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