第1522作目・『バビロン』 | 【発掘キネマ】〜オススメ映画でじっくり考察 ☆ネタバレあり☆

【発掘キネマ】〜オススメ映画でじっくり考察 ☆ネタバレあり☆

いつの時代も名作は色褪せません。
ジャンル、時代いっさい問わず、オススメ映画をピックアップ。
映画で人生を考察してみました。
【注意】
・ネタバレあり
・通番は個人的な指標です。
・解説、感想は個人の見解のため、ご理解下さい。

『バビロン』

(2022年・アメリカ)

〈ジャンル〉ドラマ



~オススメ値~

★★★☆☆

・デイミアン・チャゼル監督による新たな夢を追う人々の物語。

・華やかな映画業界の転換点を描く。

・『雨に唄えば』を見ていると、マニーの感動も伝わる。


(オススメ値の基準)

★1つ…一度は見たい

★2つ…良作だと思う

★3つ…ぜひ人にオススメしたい

★4つ…かなりオススメ!

★5つ…人生の一本、殿堂入り

〜オススメ対象外は月毎の「ざっと書き」にて紹介



〈〈以下、ネタバレ注意!!〉〉



《あらすじ》


『1926年、ロサンゼルス。映画業界黄金期の中でマニーは映画製作会社重役のパーティで下働きをしていた。派手な喧騒の中、マニーはパーティに侵入しようとする無名の女優ネリーを助ける。ネリーはマニーに夢を語り、夢を実現させるべくパーティ内で特別派手に踊り続けた。その甲斐あって、翌日の撮影で代役のチャンスを与えられたネリー。一方のマニーもひどく酔っ払ったハリウッドスター、ジャックの介抱を勤め上げ、ジャックの付き人として雇われることとなる。二人はそれぞれの居場所で映画業界で働く夢を叶え始める。ネリーは代役で人々の目を止め、スターの道を駆け上がった。ところが、映画業界は変革の時を迎えていた。サイレント映画からトーキー映画への移行である。トーキー映画の台頭を感じたジャックもすぐにトーキー映画で活躍できると信じていた。ネリーもまたトーキー映画の撮影に参加し始める。ところが、音声収録を伴う撮影はこれまでの映画撮影のやり方とは一線を画していた。ジャックもネリーもトーキー映画に苦戦する。ネリーは酒やドラッグに逃避し、ジャックも映画評論家から「時代が終わった」と告げられてしまう。一方、マニーはミュージカル映画で奏者たちを前面に出すというアイデアを高く評価され、キノスコープ社から重役待遇を与えられるようになっていた。』


〜夢をつかむ覚悟はあるか〜


《監督》デイミアン・チャゼル

(「セッション」「ラ・ラ・ランド」「ファースト・マン」)

《脚本》デイミアン・チャゼル

《出演》ブラッド・ピット、マーゴット・ロビー、ディエゴ・カルバ、ジーン・スマート、ジョヴァン・アデポ、ルーカス・ハース、キャサリン・ウォーターストン、トビー・マグワイア、ほか





【華やかな映画撮影の始まり】

『ラ・ラ・ランド』が夢を追う者の話なら、本作は夢を掴んだ者のその後の話だろうか。
映画作りに翻弄された人々を描いた3時間を超える超大作ドラマである。クライマックスに至るまで、デイミアン・チャゼル監督の、映画と映画作りに携わる人々に対する敬意を感じる

時はまだサイレント映画が台頭していた1926年。
この頃の映画業界の盛況ぶりは、冒頭のパーティシーンに凝縮されている気がする。とにかく派手で、低俗だが、豪華絢爛なのだ。何もかもが、派手に輝いている。
冒頭の乱痴気パーティも私から見たら下品極まりないパーティに見える。華やかさも派手になればなるほど、人間どんどん本能剥き出しの下品になっていくのだろうか。人間の本質は欲望の赴くままになのだとしたら残念である。
下品で低俗なのに、派手で豪華絢爛な酒池肉林のパーティ。どれほど金が飛べば、こんなパーティを一夜にして開けるのか。
最後の象の登場を含めて、まるで幻想世界のパーティのようだ。
ただ、これが当時の映画業界の狂気的な盛況ぶりを表していたように思える。映画が大量に量産され、人々は一張羅を着こなして劇場に押しかけていた。劇場は常に満員で、作品が終わればスタンディングオベーション。
映画は娯楽の最高峰に位置していたのだ。

そんな中、パーティの最中に映画の撮影を控えていた女優が急死した。人が死んでもパーティは終わらせることができないという狂った一夜。代役に選ばれたのが、その会場にしれっと潜り込んで目立っていた田舎娘のネリーであった。
千載一遇のチャンスが飛び込んでくるのがこういう社交場だったのだろう。
ネリーは翌日、急遽代役として抜擢された作品で見事な演技を披露し、スター街道を登り始めるのだ。

本作には3人の人物にスポットライトが当てられる。
マーゴット・ロビー演じるネリーは無名からスターへと駆け上がる新進気鋭の快活な女優。
ブラッド・ピット演じるコンラッドはサイレント映画で既に成功を収めているスターである。
そして、ディエゴ・カルバが演じるのがマニーという映画業界に携わることを夢見るメキシコ人の男。ディエゴ・カルバ自体が誰?って感じかもしれないが、それで良いのだ。彼はスターではないから。主人公ではないから。主人公ではないことに意味があるのだ。

序盤は当時の映画撮影の狂気が描かれていて、「嘘だろ」と疑いながら笑ってしまう。
スタジオでは複数の映画が至近距離で同時に撮影されており、割と忙しなくすべてが進行されているのだ。代役への指示も超適当。
それでも監督の意向に沿えるのがネリーの才能であり、ネリーの才能に撮影スタッフもスターの原石を見つけたとばかりに喜ぶ

戦争シーンの撮影はもはや本物の戦争である。映画の世界は魔法だと彼らは言うが、いやこれは狂っている。
普通に怪我人も出るし、槍に刺されて死人も出るし、舞台装置が壊されるし、カメラも破壊されるし…。
ただそのおかげで撮影時間が伸び、結果として美しい夕日をバックにした奇跡のようなラストシーンを撮影することに成功する。
この夕陽の美しさはデイミアン・チャゼル監督らしい幻想的な映像であった。
ただ、あくまで「終わり良ければすべて良し」というのがこの頃の映画撮影のモットーなのだろうなと感じさせられる。エキストラで死人が出たことはまるで問題視されないのだ。

スター街道を駆け上がるネリーの根底には、必ず自分はスターになってやるという強い野心があった。
「私を嫌う奴らにいつも馬鹿にされてきた。嫌うがいい。私は自力でスターになった。奴らには関係ない。」
こんな強気なことを言えるのが、ネリーのスター性なのだろう。

ところが、トーキー映画の登場によって映画界はすべてが変わってしまう
今まで必要のなかったセリフが求められること、音に気を配った演技が必要になること、撮影の仕方までガラリと変わってしまったのだ。
撮影所で様々な映画が同時にごった煮のように撮影していたあの頃と違って、雑音が入らないように繊細で緻密な撮影が求められてきた。
また俳優たちに求められる魅力も変わっていく。美しい容姿に似合った、美しい声であること。人々を魅了させる声でなければ、トーキーの世界では生き残れなくなってくるのだ。

トーキーの時代となり、映画業界は変革を求められる。その時代のうねりによって、淘汰される人々が生まれ、その逆にスポットライトが当てられる人々が生まれる
まさに新時代の到来である。



【歴史の流れを乗り越えてきた無数の人々】

淘汰される危機に陥っていたネリーに求められたのは、"野生児"からの転換であった。
もはやスターに求められるのはセクシーさと豪放磊落な気質ではない。ちょっとしたセリフの言い回しや立ち位置にも気を遣い、その振る舞いから品位を感じさせるスターとしての気質である。
マニーの勧めにより、ネリーはこれまでのイメージを抜け出して、慣れない上流階級の振る舞いを学び始めた。

ただ、上流階級の社交場はそれはそれで表面的で。
一部の身内だけ集めて楽しめるジョークと、上から目線の会話、隠れた部分のセクハラ。
らんちき騒ぎのパーティとは気質は違えど、そこはそこで嘘くさい社交場だった。
ネリーは本当の自分を隠してこの世界にいることに耐えられず、あえて下品な行動を取って社交場を拒絶する。
ここからスターだったネリーの没落が始まっていくのだ。

野生児からの転換を求められる前の蛇との決闘が、ニュージャージーの"野生児"との訣別を感じさせた。あれが彼女。あれが本当の姿。
でも、本当の姿はもはや映画業界には求められていなかった。
蛇と戦い、蛇に噛まれ、あまりにも馬鹿げている決闘だったが、それが彼女にとってこれまでの自分を捨てるための儀式だったのだろう。
ところが、捨てきれなかったのが悔やまれる。スターにはなりたい。しかし、世間から認められない。
このジレンマがネリーを苦しめるのだが、映画業界でマニーだけは彼女の復活を願っていた。

コンラッドもまたサイレント映画の頃を代表する大スターだった。世界中が彼の演技に釘付けだった。飲んだくれで演技直前まで酔い潰れていても、アクションの声が掛かるとスイッチが入ったかのように良い演技で魅了する。
ところが、トーキーの時代と共に彼の需要は下がる一方であった。キスシーンで声を出せば観客たちに笑われ、入ってくる仕事も他の役者が選ばなかった残り物のような作品ばかりとなっていく。

馴染みの批評家はコンラッドに言う。「すでにあなたの時代は終わったのよ」と。
スターはこうして時代のうねりと共に没落していくのである。
コンラッドは拳銃自殺を図った。スターでいられなければ、生きている価値がない。それほどまでに一度登り詰めた世界から降りることは苦しく、自尊心を傷付けられるのだろう。
どんな世界でも登り詰めた時こそ、自分の身の引き方を真剣に考えなくてはならないのだと感じる。
コンラッドのような引き際は虚しい最後である。

マニーの夢は「何か大きなものの一部になること」であった。それはつまり、映画業界という華々しい舞台で映画作りに携わること。
マニーはコンラッドやネリーのような生まれもってのスターではない。スポットライトの当たる場所に立ちたいのではなく、あくまで影ながら映画作りを支えていきたいのだ。大きなものの一部になりたいのだ。
マニーの夢は、常に傍観者でありながら、歯車の一部として活躍することと言えるだろう。
だからこそマニーはパーティで酒を飲んで騒ぐネリーを見ても、彼女を遠くから見守るばかりである。

そんなマニーはネリーを愛していた。それだけが原動力であり、弱点だったと言える。
夢を追いつつも、ネリーのそばにいたいという思いは消えずに残っていたのだ。ネリーの人気が低調となっても彼女を諦めずに支え続けたのは、彼女をスターにすることがマニーにとっても夢だったから。
とはいえ、奔放すぎるネリーが賭場で多額の借金を背負った事件に巻き込まれ、ついにギャングに命を狙われることとなった時、マニーはそれが人生の潮時だということがすぐに悟れたのだと思う。
映画業界を捨ててネリーと結婚して逃げ出そうとすぐ決断できたのも、マニーが常に主役じゃなかったからこそである。
一方、主役でないと生きられないネリーにはそれが耐えられなかった。結婚という幸せを前にしても、スポットライトが当たる快感を知るネリーは、マニーに付いていく人生は選ばなかった。
ネリーが最後、薬物に溺れていたように、彼女はスポットライトという麻薬から抜け出せなかった

ネリーは主人公だった。マニーは主人公ではなかった。
それが二人の命運を分けたと感じる。

雨に唄えば』を前に見ていて良かった。
トーキーへの転換という苦労を描いた『雨に唄えば』は、あの頃を映画業界で生きた人々にとって、人生を翻弄されたすべての転換点を写し出してくれる作品であった。本作でも最後に鍵となる作品として登場する。
あの頃の苦労を知っているのは、あの頃の業界に生きた人々そこに淘汰された人々がいることも、乗り越えようと奮闘した人々がいたことも知っているのだ。

マニーは何気なく入った久しぶりの映画館で『雨に唄えば』を見て、涙を流す。そこに描かれていたのは、映画に翻弄された人々の人生の思い出だったからだ。
と同時に、それは自分が映画史という大きなものの存在に携わっていたことを思い出させてくれる作品であった。
きっとこれはマニーのように苦労して映画作りに携わっていた人々には伝わる感激なのだと思う。彼もまた、『雨に唄えば』の登場人物の一人だったのだ。

映画はその登場から100年超かけてめまぐるしく変化し続けてきた
トーキーの登場だけではない。カラー映画の登場、CGの台頭、3D映画の登場。
変わり続ける中でおそらくそこにも付いていくために翻弄された人々、巻き込まれた人々がいたのだと思う。
それでも映画は前へ前へと発展し続けている。
最後、そういった映画の転換点を感じさせる様々な名作のワンシーンを切り貼りした場面が流れた時には驚いた。チャップリンや、ターミネーター2、マトリックスなど数々の名作が、まるで一本の映画史ダイジェスのように繋がれる。いずれも、映画史を変えてきた名作たち。そしてそこには、歴史の流れに必死になって付いてきた映画作りの人々がいた
長くて、忙しなかった映画の歴史に対する敬意を感じた。

ギャングのボスを演じたトビー・マグワイア、怪演で最高だった。
普通な顔して底が知れない狂気を感じる男。鋭い目力に人の死を何とも思わない怖さを感じる。
ただネリーの金を返しに行くだけの短いシーンだったが、ポスターにもしっかり登場しているし、強烈なインパクトである。

それからジャックの妻になった舞台女優、どこかで見たと思ってたら、ファンタビのティナじゃないか!
ファンタビ以外で見たの初めてで新鮮だった。


(185分)