淘汰される危機に陥っていたネリーに求められたのは、"野生児"からの転換であった。
もはやスターに求められるのはセクシーさと豪放磊落な気質ではない。ちょっとしたセリフの言い回しや立ち位置にも気を遣い、その振る舞いから品位を感じさせるスターとしての気質である。
マニーの勧めにより、ネリーはこれまでのイメージを抜け出して、慣れない上流階級の振る舞いを学び始めた。
ただ、上流階級の社交場はそれはそれで表面的で。
一部の身内だけ集めて楽しめるジョークと、上から目線の会話、隠れた部分のセクハラ。
らんちき騒ぎのパーティとは気質は違えど、そこはそこで嘘くさい社交場だった。
ネリーは本当の自分を隠してこの世界にいることに耐えられず、あえて下品な行動を取って社交場を拒絶する。
ここからスターだったネリーの没落が始まっていくのだ。
野生児からの転換を求められる前の蛇との決闘が、ニュージャージーの"野生児"との訣別を感じさせた。あれが彼女。あれが本当の姿。
でも、本当の姿はもはや映画業界には求められていなかった。
蛇と戦い、蛇に噛まれ、あまりにも馬鹿げている決闘だったが、それが彼女にとってこれまでの自分を捨てるための儀式だったのだろう。
ところが、捨てきれなかったのが悔やまれる。スターにはなりたい。しかし、世間から認められない。
このジレンマがネリーを苦しめるのだが、映画業界でマニーだけは彼女の復活を願っていた。
コンラッドもまたサイレント映画の頃を代表する大スターだった。世界中が彼の演技に釘付けだった。飲んだくれで演技直前まで酔い潰れていても、アクションの声が掛かるとスイッチが入ったかのように良い演技で魅了する。
ところが、トーキーの時代と共に彼の需要は下がる一方であった。キスシーンで声を出せば観客たちに笑われ、入ってくる仕事も他の役者が選ばなかった残り物のような作品ばかりとなっていく。
馴染みの批評家はコンラッドに言う。「すでにあなたの時代は終わったのよ」と。
スターはこうして時代のうねりと共に没落していくのである。
コンラッドは拳銃自殺を図った。スターでいられなければ、生きている価値がない。それほどまでに一度登り詰めた世界から降りることは苦しく、自尊心を傷付けられるのだろう。
どんな世界でも登り詰めた時こそ、自分の身の引き方を真剣に考えなくてはならないのだと感じる。
コンラッドのような引き際は虚しい最後である。
マニーの夢は「何か大きなものの一部になること」であった。それはつまり、映画業界という華々しい舞台で映画作りに携わること。
マニーはコンラッドやネリーのような生まれもってのスターではない。スポットライトの当たる場所に立ちたいのではなく、あくまで影ながら映画作りを支えていきたいのだ。大きなものの一部になりたいのだ。
マニーの夢は、常に傍観者でありながら、歯車の一部として活躍することと言えるだろう。
だからこそマニーはパーティで酒を飲んで騒ぐネリーを見ても、彼女を遠くから見守るばかりである。
そんなマニーはネリーを愛していた。それだけが原動力であり、弱点だったと言える。
夢を追いつつも、ネリーのそばにいたいという思いは消えずに残っていたのだ。ネリーの人気が低調となっても彼女を諦めずに支え続けたのは、彼女をスターにすることがマニーにとっても夢だったから。
とはいえ、奔放すぎるネリーが賭場で多額の借金を背負った事件に巻き込まれ、ついにギャングに命を狙われることとなった時、マニーはそれが人生の潮時だということがすぐに悟れたのだと思う。
映画業界を捨ててネリーと結婚して逃げ出そうとすぐ決断できたのも、マニーが常に主役じゃなかったからこそである。
一方、主役でないと生きられないネリーにはそれが耐えられなかった。結婚という幸せを前にしても、スポットライトが当たる快感を知るネリーは、マニーに付いていく人生は選ばなかった。
ネリーが最後、薬物に溺れていたように、彼女はスポットライトという麻薬から抜け出せなかった。
ネリーは主人公だった。マニーは主人公ではなかった。
それが二人の命運を分けたと感じる。
トーキーへの転換という苦労を描いた『雨に唄えば』は、あの頃を映画業界で生きた人々にとって、人生を翻弄されたすべての転換点を写し出してくれる作品であった。本作でも最後に鍵となる作品として登場する。
あの頃の苦労を知っているのは、あの頃の業界に生きた人々。そこに淘汰された人々がいることも、乗り越えようと奮闘した人々がいたことも知っているのだ。
マニーは何気なく入った久しぶりの映画館で『雨に唄えば』を見て、涙を流す。そこに描かれていたのは、映画に翻弄された人々の人生の思い出だったからだ。
と同時に、それは自分が映画史という大きなものの存在に携わっていたことを思い出させてくれる作品であった。
きっとこれはマニーのように苦労して映画作りに携わっていた人々には伝わる感激なのだと思う。彼もまた、『雨に唄えば』の登場人物の一人だったのだ。
映画はその登場から100年超かけてめまぐるしく変化し続けてきた。
トーキーの登場だけではない。カラー映画の登場、CGの台頭、3D映画の登場。
変わり続ける中でおそらくそこにも付いていくために翻弄された人々、巻き込まれた人々がいたのだと思う。
それでも映画は前へ前へと発展し続けている。
最後、そういった映画の転換点を感じさせる様々な名作のワンシーンを切り貼りした場面が流れた時には驚いた。チャップリンや、ターミネーター2、マトリックスなど数々の名作が、まるで一本の映画史ダイジェスのように繋がれる。いずれも、映画史を変えてきた名作たち。そしてそこには、歴史の流れに必死になって付いてきた映画作りの人々がいた。
長くて、忙しなかった映画の歴史に対する敬意を感じた。
ギャングのボスを演じたトビー・マグワイア、怪演で最高だった。
普通な顔して底が知れない狂気を感じる男。鋭い目力に人の死を何とも思わない怖さを感じる。
ただネリーの金を返しに行くだけの短いシーンだったが、ポスターにもしっかり登場しているし、強烈なインパクトである。
それからジャックの妻になった舞台女優、どこかで見たと思ってたら、ファンタビのティナじゃないか!
ファンタビ以外で見たの初めてで新鮮だった。