私の記事に対するホンキミさんからの意見を、御本人の許可を得て以下に転載します。


動物園学研究室の記事としてアップされたものは、業界外部の人にはわかりにくい内容かもしれないので、今回の円山のマレーグマやシマウマの問題ということではなく日本全般の傾向というコンテクストで私見を述べます。

・日本の行政は多くの部門で公務員の専門性を排除する構造になっています。配属が定期的に変わります。公立動物園の場合、動物園と他所の部署を職員が行き来することは珍しくありません。大都市で複数の動物園を抱えているところではA動物園からB動物園というような配置転換で動物園に居続けることができますが、そうでなければ事務職はもちろんのこと、その人の学歴に応じて農業試験場、林業試験場、保健衛生関係などの部署と行き来することは珍しくありません。動物園に残れないので辞めたというケースは、ままあります。

(今回、円山の件について、札幌市の動物管理センターが事後調査に一役買っており、なぜ野生動物と無関係の動物センターが、という疑問がありました。実は円山の経験が長かった獣医さんが同センターに現在いらっしゃるようです。)

・この構造のため、課長、園長クラスの人は、動物園と全く関係のない部署から配属されて来ることが珍しくありません。飼育課長や動物園長になる人は外国産の野生動物に通じている結果その職についていると思っている人が大半ではないかと思いますが、そうではないのです。そして、園長職は勇退前の最後の花道という感じの扱いになりますので、「何事も無く無事に勤め上げたい」と思うのは人情です。他所から来ても素晴らしい仕事をされた方は少なくありませんが、センスの無い人、理解や熱意に欠ける人も配属されて来る、その時の状況はどうなるか、ということは想像でわかるでしょう。

・飼育職については、専門性を認めていないうえに、自治体によっては古い意味での「現業」扱いで、担当が使えるコンピューターも無く、飼育日誌もいまだに手書きというところがあります。動物園に指定管理者制度を適用した自治体は、委託先を定期的に変えられるという前提を意識・無意識に受け入れたということになるわけで何をか言わんやです。

・一般の獣医師は基本的に家畜の健康管理が専門であり、獣医だからといって野生動物そのものについての動物学知識を持ち合わせているとは限りません。ただ、日本には「動物学者」がそもそも不在、キューレーター制度も不在で、歴史的に獣医師に頼ってきました。その結果、獣医師すなわち有資格という安直な思い込みが行政に根付いているようです。獣医師ではダメだと言うわけでは決してありません。でも、野生動物のコレクションの計画、飼育管理、個体群維持、挙げ句の果ては教育まで個人の器用さと熱意にまかせている実情では組織としての成長は見込めません。

・また、帳簿上、動物を備品として扱っている自治体も珍しくありません。札幌もそのひとつだったような気がしますが記憶はさだかではありません。制度上「備品」としてしか扱えないものを、死んだり殖えたり病気になったりする命あるものとして正当に扱えるかどうか、かけがえの無い絶滅危惧種として繁殖に取り組めるかどうか、考えなくても結論ははっきりしています。イルカ問題に関するコメントが、経営に必要な「消費物」としての観点の域を出ないのもこうした背景と同根と言えるでしょう。

・このような背景のもとで、社会の都市化が進み続ける中、動物を扱うことの勘と言うレベル(動物の心理の読み、保定など)で、動物園の飼育技術の水準は、過去のレベルを維持することだけでもかなり危機的な状況にあると言えると思います。(これは日本に限った話ではありません。)そのうえコンピューターも無い、飼育日誌の記録もアナログでは、情報の取得もデータ管理もままならず、勘の不足を補い組織の力を維持することができるわけがありません。個々人で心血を注ぎ優れた仕事をしている人はたくさんいますが、あまりに多くの場合、それが組織に吸収され拡散されない。次の世代につながらない。このような状況で、組織の管理職の水準が低下すると、下がきちんと支えてくれている間は問題ないけれども、技術水準が落ちた箇所が出てきたとき、それを見つけてリカバリーすることができなくなります。それが円山の状況なのではないか、と、いうのがぼくの推論です。

円山動物園の組織の内外で動物園と野生動物の将来のために一生懸命取り組んでいる人を何人か知っています。実は円山の将来にとても期待してきました。彼らの努力が報われ、すべての動物たちが最高の水準の飼育管理を受けられるよう、迅速に対処が進むことを祈ります。

興味のある方は下記も参考にしてください。
畜産の研究:60(1):183–198 「日本の動物園の現状と課題(2006年で内容は少し古くなっています)
動物園学入門(朝倉書店刊)7章 動物園の展示学
今回、札幌市円山動物園で起きたマレーグマの死亡に関する事故の背景には、公立動物園が以前から抱える構造的問題が大きく影響していると考えます。つまり、単に円山動物園だけを批判して済む問題ではないし、トカゲの尻尾切りのような対処で解決する問題でもありません。

その問題は、今に始まったことではなく、国内初の動物園が1882年(明治15年)に設立されてからしばらく後に生じたものですが、戦後の動物園建設ラッシュの際にも継承され、現在はより加速化しているように思えます。

構造的問題は、自治体における動物園の位置づけや役割の認識にも関連しており、それが人事や予算に反映されて、最終的には技術継承や人材育成さらに科学基盤構築の遅れに繋がっています。

種保全や動物福祉に果たす動物園の役割は、国際的に急速な変化(進化)をみせています。しかしながら、国内の動物園はこの変化に対して迅速に呼応できないでいるようです。その原因は、やはり時代に先んじた動物園の意義や役割を理解できずにいる(もしくは理解しようともしない)旧態依然の構造もしくは役所的体質にあるのは間違いないでしょう。

この構造的問題を何とかしない限り、同様の事件は国内のどこかの動物園で再発することは必至です。今回の事件は、決して他人事ではなく多くの動物園でも起り得ることだと認識し、動物園という組織自体のあり方を真剣に考え、変えてゆかなければならない時だと思っています。いや、何とかしなければいけないのは動物園の構造的問題だけではなく、動物園を根底で支えている日本の文化かもしれません。稚拙な文化からは稚拙な動物園しか生まれないのです。

閑話休題。
しばしば外圧を受けてから、国内の動物園や水族館が場当たり的な対処を繰り返すのは、なんとも淋しく恥かしいことです。黒船の時代の体質とほとんど変わっていないように思えます。

自ら変わってゆく力。それが、日本の動物園に求められているのではないでしょうか?




参考ウエブサイト:
【札幌市動物管理センター】
円山動物園におけるマレーグマ「ウッチー」の死亡事案に係る改善勧告などを行いました
http://www.city.sapporo.jp/inuneko/main/topics.html

【保全医学研究所】
公立動物園自動車論
http://blogs.yahoo.co.jp/haemoproteus_gallinulae/64231848.html

【どうぶつのくに.net】
『動物園が動物園であるために』
http://www.doubutsu-no-kuni.net/?p=22514
http://www.doubutsu-no-kuni.net/?p=21216
http://www.doubutsu-no-kuni.net/?p=22849
http://www.doubutsu-no-kuni.net/?p=23555

参考図書:
動物園の歴史 日本編 日本における動物園の成立(佐々木時雄著、西田書店、1975年)
日本の動物園(石田おさむ、東京大学出版会、2010年)
動物園にできること(川端裕人、文藝春秋、1999年)
動物園学(村田浩一・楠田哲士(監訳)、文永堂出版、2011年)
動物園動物管理学(村田浩一・楠田哲士(監訳)、文永堂出版、2014年)
動物園学入門(村田浩一・成島悦雄・原久美子(編)、朝倉書店、2014年)

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今朝の新聞に、新幹線火災で押し合ってい逃げようとしている乗客に向い、「子どもを先に行かせてあげましょうよ」と諭した人のいたことが書かれていた。

私が乗っていた車両でも、見ず知らずの人と飲み水を分け合ったり、何が起こったのか分からず不安にかられている外国人に対して英語で状況説明している人たちがいた。

殺伐とした下品な発言が飛び交っている巷間だけれど、混乱の中でも人間性を失わず穏やかに行動できる人たちの存在を知ると、心からホッとする。

これが、和を以て貴しとなす本来の私たちの世界なのだと思いたい。

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第3回国連防災世界会議パブリック・フォーラムのレジメが、日本大学国際救助隊のHPにアップされました。
http://n.rescue.nua.jp/report.html

『動物園と防災』という初めての講演課題を与えられ、プレゼンの資料づくりには苦労しました。いつも語っている動物園の役割と外れた分野のためですが、いつも語っていたことに偏りがあったという証拠でしょう。

思い出に縛られて辛い部分もありましたが、動物園の防災に対する自らの考えをまとめる良い機会になりました。プロジェクトリーダーの木村政司先生(日大芸術学部)に感謝します。

『動物園と防災-災害に対する動物園の役割-』レジメ(pdf)
http://n.rescue.nua.jp/report/imgs/PDF/150318_05.pdf
役所に勤めた当初、「公務員とは何であるか?」とか「公務員である前に人間であれ」と大先輩から諭される機会が多々あった。

たとえば、戦後に副市長を務められた方の以下のような逸話で教育された。

市民病院で診療を待つ列に病院の事務長が元副市長の姿を見つけ、「何をなさっているのですか! 言って下されば優先的に診療いたしたものを....」と詫びた。

すると、その元副市長は静かにこう語ったという。

「今の私は一市民なのです。他の市民と一緒に並ぶのは当たり前のことなのです」

肩書は単なる人間性の付録もしくはオマケに過ぎないのだという訓示であったと思う。

しかし最近、その単なる付録であるべき肩書が人間性の前に位置づけられているケースによく出会う。肩書によって座ったり立ったりする場所に妙に拘泥する人物などがそうだ。ステータスシンボルとして強調したいのだろう。動物行動学的には過剰な信号刺激と考えられるかもしれない。

そのような人物に出会うたびに、人間としての自信(個として立つ自信)がないのだろうなと可哀そうに思えてきて場所を譲る。