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タイトルどおり、感染症のリスク・コミュニケーションについて分かりやすく解説されている好著である。

そこには、我が国における感染症のリスク・コミュニケーションを阻害する要因や問題点も、時に明確に時に過激に示されている。

たとえば、以下のような文章である。

「最悪なのは過去の失敗から学ばないこと。官僚がときどき陥る、「俺たちは間違っていなかった」の無謬主義に陥ること。」

「自己を正当化ばかりして、改善に対するハードルが高い組織は、いざ間違いを犯しても、失敗し信頼を失っても、そこから学ぶことはできません。」

「日本では会議やマニュアルが目的と化しているのです。」

「リスク・コミュニケーションは、目的を達成してこそ初めてやった意味が出てきます。「ただ、情報を流しました」だけでは、「仕事をしたフリ」、アリバイ作りにしかなりません。」

「リスク・コミュニケーションはただ行うだけではダメです。必ず結果を出さなければなりません。」


これらのリスク・コミュニケーションの発展を阻害する要因は、単に感染症に止まらず社会全体に深く根差したもの、すなわち社会構造上の問題であるように思えてくる。

つまり、コミュニケーションを阻むような社会の構造的弊害が見えてくるのだ。

翻って現状の動物園に根差している問題の諸相を眺めると、発生要因や問題解決の阻害要因が上記と極めて似ている、または何ら異なるところがないのに気づく。

動物園からの情報発信が十分でない、また科学の場である動物園のテクニカル・コミュニケーションが上手く機能していないのも、この構造的弊害が少なからず影響しているのだろう。

それを動物園のリスクもしくは危機的状態と判断できるかどうか?

Yes or No の答え方によって、動物園の将来像は大きく変わってくるに違いない。
身分の低い少年が弟子にしてもらいたいと言って来た時、「自分は人の師になりえない人間であるが、兄弟になったつもりで一緒に学ぼう。それでよければ来てもよい。」(by 司馬遼太郎)と入門を許したとのこと。

吉田松陰が未だ20代前半の頃の伝である。

そのような人となりが、思想や哲学を100年以上後にも残す背景になっているのだろう。

「うりゃぁ、俺の話を聞け!」的な人物の思想や哲学(とても思想や哲学と呼べる代物ではないけど)は、よほどの人材でなければその金魚の糞と共に訪れた飲み屋のゴミとなって消費されるか、長くてもその人の死と共に消えてゆく程度のものに過ぎない。

考えてみれば哀れな話である。それで果たして「生きた」といえるのか?

だから、「うりゃぁ、俺の話を聞け!」的な人物と付き合うのは時間の無駄。尊ぶべき価値もない和(集団)に交わることなく、自らの信じた未来に向かって個として歩を進めるべし。

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『Vol. 27 動物園が動物園であるために PART 4』
http://www.doubutsu-no-kuni.net/?p=22849

誤解を招く文章かもしれませんが、決して動物園が見世物であるという意味ではありません。

動物園で見せる(魅せる)ことが、来園者にとっても動物たちにとっても、もちろん動物園関係者にとっても、どれだけ大切なことであるかを理解していただきたいと思い書きました。ご笑覧下さい。

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台北市立動物園のズーショップで販売されているお土産の箱に、動物園のコンセプト(向生命学習:Learning from Life)が書かれていたり、ポリ袋に野生動物保全のコピーが記されていたり、そしてそれらのセンスが良かったりなど、「う~ん」と唸ることだらけであった。

動物園として当たり前のことがやられているだけだが、その当たり前のことがやれていない動物園が多いだけに目が引き付けられてしまう。

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昆虫の蛹に関する展示の前で、子どもたちに羽化のことを説明しているお母さん。
その昔、「虫愛ずる姫君」だったのだろうか?

このような光景を見るたびに、動物園の社会教育的もしくは博物学教育的役割の大切さを痛感する。

集客施設的役割やアミューズメント的役割しか念頭にない人は、おそらくこのような機会に恵まれなかったのだと思う。可哀そうなことかもしれない。

人は往々にして自分が知らない世界を避けたり否定したり攻撃したりする傾向にある。

場所: 台北市立動物園