そこには、我が国における感染症のリスク・コミュニケーションを阻害する要因や問題点も、時に明確に時に過激に示されている。
たとえば、以下のような文章である。
「最悪なのは過去の失敗から学ばないこと。官僚がときどき陥る、「俺たちは間違っていなかった」の無謬主義に陥ること。」
「自己を正当化ばかりして、改善に対するハードルが高い組織は、いざ間違いを犯しても、失敗し信頼を失っても、そこから学ぶことはできません。」
「日本では会議やマニュアルが目的と化しているのです。」
「リスク・コミュニケーションは、目的を達成してこそ初めてやった意味が出てきます。「ただ、情報を流しました」だけでは、「仕事をしたフリ」、アリバイ作りにしかなりません。」
「リスク・コミュニケーションはただ行うだけではダメです。必ず結果を出さなければなりません。」
これらのリスク・コミュニケーションの発展を阻害する要因は、単に感染症に止まらず社会全体に深く根差したもの、すなわち社会構造上の問題であるように思えてくる。
つまり、コミュニケーションを阻むような社会の構造的弊害が見えてくるのだ。
翻って現状の動物園に根差している問題の諸相を眺めると、発生要因や問題解決の阻害要因が上記と極めて似ている、または何ら異なるところがないのに気づく。
動物園からの情報発信が十分でない、また科学の場である動物園のテクニカル・コミュニケーションが上手く機能していないのも、この構造的弊害が少なからず影響しているのだろう。
それを動物園のリスクもしくは危機的状態と判断できるかどうか?
Yes or No の答え方によって、動物園の将来像は大きく変わってくるに違いない。