気づけば、人生で一番忙しいんじゃないか?と思うくらいの毎日を過ごしている。
38年生きてきて、今がそのピークだなと感じる。

 

「休もう」と思ったその日でさえ予定が入り、結局は打ち合わせと作業で一日が終わっていく。
正直、営業を中心に回していた頃はとてもきつかった。大企業勤めから一人でやるようになって、仕事の母数そのものがなかったから、とにかく会って営業して…というのを繰り返すしかなかった。

 

でもね、そこには仮説があった。


自分の人生を振り返ってみると、紹介やつながりで物事が動いてきた経験が多い。だから「人との出会いを無限に増やしたら、必ず何かが生まれる」という賭けに近い仮説を立てて、動き続けた。

気づけば夏も過ぎ、9月。アプローチが仕事となって返ってきている。

今、その仮説は間違っていなかったと感じている。


営業や交流会で会った人が「こいつはいいやつだ」と思ってくれれば、そこからまたつながりが生まれる。紹介であれば、僕が一人で営業するよりもはるかにスムーズに話が進む。
結局のところ、ビジネスもお金も人が決めることなんだと実感する。

 

デジタル全盛の時代に、逆に「人の心」を大事にするアナログな動きが効いてくる。
そこに必要なのは、母数と誠意。数を増やし、誠意をもって向き合う。
これが今の僕の戦略だ。


ただ課題もある。
理念や気持ちに偏りすぎて「論語」の部分ばかりになりがちだから、「ソロバン」、つまり数字に落とし込む力をもっと磨かなければいけない。忙しさは言い訳だ。
時間をつくり、数字をしっかりつくっていく。


日記がメモのようになっているね




誕生日に連れて行ってもらった癒しの旅行先は、小諸でした。


旅館のようでもあり、ホテルのようでもある、少し古めの宿に宿泊しましたが、とても広いお部屋にお布団、大浴場にはサウナもあり、最高の環境でした。

何より素晴らしかったのが、ディナーと朝食です。

 

お酒はあらゆる種類が飲み放題で、食事も和・洋・中、すべてが食べ放題でした。

信州の名産も豊富に取り揃えられており、どうしたら良いのか分からないほどの豪華さでした。

 

天ぷらをつまみながら、ゆっくりと地酒の「真澄」をいただきました。


信州ワインの赤と白を飲み比べながら、おつまみを少しずつ楽しむ時間は、本当に至福のひとときでした。

 

そんなに欲張って飲まなくても、実は自販機では200円からお酒を買うことができ、信州のおつまみやカップ麺も販売されています。

 

さらに、悪魔のような便利な機械が一瞬でチューハイやハイボールを作ってくれるので、ついつい飲みすぎてしまいました。

 

お寿司をはじめ、料理のすべてがしっかり美味しく、

素材の良さや冷めても美味しい味わいが感じられ、さすが老舗の旅館だと感動しました。

 

そして、信州といえばお蕎麦。もちろん、こちらにもありました。
まさに「至れり尽くせり」とはこのことだと思います。

 

ちなみに、朝食も最高でした。
朝から数え切れないほどの品数が並び、どれを食べても本当に美味しかったです。

 

できることなら、二、三日この宿でリラックスして過ごしたいと思いました。

 

カラオケも最高でした。
































最近、少しだけ誇らしいニュースがあったので、今日はその話を書こうと思う。

 

私は、このたび「日本AI音楽学会(JAIMS)」の正会員になりました。

AIと音楽。これって、まるで相反する存在のように見えて、実はすごく相性がいいんです。

 

私はSuno AI作曲家協会(JSAC)という団体でも活動していて、どういうプロンプト(指示)がどんな音楽になるのか、日々試行錯誤を続けています。プロンプトって、簡単に言えば「意図を翻訳する力」みたいなもので、その設計次第で、出てくる音楽のクオリティが全然変わってくるんですよね。

 

例えば、絵を描くAIでは画家が、映像を作るAIでは映像作家が、コードを書くAIではプログラマーが有利なように、音楽AIでは音楽家が断然有利。だから、音楽家がAIに強くなること、これはもう避けては通れない道なんだと思います。

 

でも一方で、誰でも音楽を作れる時代になったからこそ、生演奏やレコードのように「手間をかけて楽しむ行為」の価値も見直されてる。AIの進化が、逆にアナログの魅力を引き立てるような、そんな不思議な現象も起きています。

 

音楽はいつの時代も、心を癒す力を持っていて、それはAIがあっても変わらない。だからこそ、透明性や倫理、実務の面でも、しっかり整えていきたいし、現場から音楽とAIの共存を築いていこうと思ってます。

 

JAIMSへの入会は、単なるステータスじゃなく、自分自身への新たな問いかけです。

 

音楽とAIは対立じゃない。共存しながら、新しい表現の可能性を広げていく。その先に、まだ誰も聴いたことのない音があるはずだから。

松尾宗仁さんと森重樹一さんによるライブを見るため、高崎まで足を運びました。
せっかくの機会なので、少し街を歩いてみようと軽い気持ちでウォーキングをしていたところ、思いがけない出会いがありました。

その名も「麺屋承太郎」。
ジョジョファンとして、これを見過ごすわけにはいきません。

ラーメンの内容についてはあえて調べず、情報を入れないまま突撃することにしました。
店内へ入ってまず驚かされるのは、壁一面に並んだジョジョの名言と、店主の情熱が滲むようなディスプレイの数々。
そこにあるのは、ただのコラボやモチーフといったレベルを超えた、圧倒的な「ジョジョ愛」。
私は思わず、高崎にいることを忘れ、まるで杜王町に迷い込んだかのような錯覚を覚えました。

今回いただいたのは「承太郎ラーメン」。
ふう、やれやれだぜ……。
そうつぶやきたくなるほど、登場したのは堂々たる二郎系ラーメンでした。
ニンニクを抜いてもらったのですが、それでもその迫力はまさに「ストレングス」。
器の中には高く積み上げられたもやしの山。

それを一気に焼き尽くすべく、「魔術師の炎」よろしくラー油をかけ、かっこむようにいただきました。
スープは豚の旨味だけでなく、まるで鯛や魚介のような出汁の奥行きがあり、乳化したアブラギッシュな質感の中に深いコクが潜んでいます。
背脂の甘さも素晴らしく、マシマシのコールを「オラオラ」に変えたくなるほどの幸福感。

麺はやや短めの太麺で、二郎系としては少しおとなしい印象ですが、スープの旨味をしっかりと受け止めるにはちょうど良いバランスです。
硬めに仕上げられた麺が口の中で弾むような食感を生み出し、自然と次の一口へと手が伸びてしまいます。
麺量はおそらく250〜300gほどかと思いますが、不思議とするすると胃に収まっていくのです。

チャーシューも厚みがあり、美味しかったのですが、スープと背脂のインパクトが強すぎて、今回は主役の座を譲った印象です。

「承太郎」という名を掲げるからには、並のラーメンではいけない。
その覚悟と実力が、この一杯からは確かに伝わってきました。
ジョジョファンであれば必食であることはもちろん、そうでなくともこのクオリティであれば、ラーメン好きなら誰しもが満足すると思います。

高崎でこんなにも個性と美味しさを兼ね備えた一杯に出会えるとは思いませんでした。
思わず「オラオラオラァ!」と喜びを叫びたくなるような、まさにスタンド級のラーメン体験でした。

また高崎を訪れる機会があれば、必ず再訪したいと思います。































最近の生成AIの進化は本当にすごい。
文章、画像、音楽──もう少しで映像も実用レベルに到達しそうで、人間の仕事を奪うのか、あるいは人間を便利にするのか、その分岐点にいる。


俺自身、生成AI音楽の学会に所属する専門家として、この技術の凄さを日々感じている。
人類を高度に発達させる革新的な技術であることは間違いない。

でも、一方で「何かが足りない」と強く思うこともある。

 

たとえば文章。石原慎太郎さんや大槻ケンヂさんのような作家の文章には棘があって、刺さるものがある。
生成AIに真似させると、表面的には似ているけれど熱がそぎ落とされてしまう。

 

画像もそうだ。AIで作った美女は綺麗なんだけど、「AIで作ったものだ」とどこかでわかってしまう。

熊田曜子さんや橋本環奈さん、そして俺の尊敬する三上悠亜さんのような、生身の人間の“生々しい美しさ”は再現できない。

 

音楽も同じだ。尾崎豊や今野清志郎、ジャニス・ジョプリン。
あるいはイングヴェイ・マルムスティーンや橘高文彦のギター、フレディ・マーキュリーの歌声。
そこには「この想いを伝えなければ死んでしまう」という切迫感があって、人の胸に突き刺さる。
生成AIにはそれがない。

 

だからビジネス的に見ても、生成AIはマーケティングや広告に便利でも、

人の心を根底から動かすような“刺さる力”には欠けている。
現場で使いまくっている俺だからこそ、強くそう思う。

 

なぜAIには“棘”がないのか。
俺なりの仮説は、AIの根幹にあるディープラーニングの構造にある。

ディープラーニングは人間の脳を模した仕組みを持っていると言われているが、処理の基本は0と1。
すべての映像や音楽も、突き詰めれば0と1の組み合わせだ。
どれだけ速く、どれだけ多く処理できるか──それが今の技術の限界だ。

 

しかし、量子コンピューターは違う。
量子力学でいう「重ね合わせ」を利用し、0と1だけでなく無限の可能性を同時に扱える。
もしこれが完全に実現したら、人間の現実をそのまま再現できるほどの情報量を扱えると言われている。

そして人間の脳は、量子コンピューターと同じ「重ね合わせの可能性」を秘めているのではないか、という仮説がある。
だからこそ、人間の作る表現にはAIにない“刺さる力”が宿るのかもしれない。

 

この話を突き詰めていくと、ちょっとスピリチュアルな領域に踏み込む。
量子コンピューターが完成して仮想現実を完全に再現できるようになったとき、
「俺たち自身も、すでに誰かが作った仮想の現実の中にいるのではないか」という可能性が出てくる。

そう考えると、ハイヤーセルフとか次元の高い領域の話とも、奇妙につながってくる。

 

生成AIがまだ届かない“最後の一歩”。
それは量子の無限の可能性、人間の脳が持つ計算の仕組み、そして孤独や感情の“棘”なのだろう。

 

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こういう人の生きている微妙で粋な一瞬なんてまさにそうだ

銀座での研修会がありましたが、思いのほか早く着いてしまい、少し時間を潰そうと歩いていると、どこかで名前を聞いたことのある喫茶店が視界に入りました。
興味を惹かれるままに足を向け、店内へ入ってみることにしました。

中へ入った瞬間、明治・大正の香りがふわりと漂い、思わず「すごいな」と声が漏れそうになるような空間が広がっていました。
この趣、まさにレトロ喫茶の聖地のような空気感で、ノスタルジーと格式が絶妙に共存している空間です。

ランチタイムには、ビーフカレーライスと珈琲のおかわりがついて1200円という内容。
品の良さを纏った空間の中でいただくカレーは、まるで和が洋に追いつこうと努力していた時代の香りそのものを体現しているようです。
カレーは銀色の器、いわゆる魔法のランプのようなグレイビーボートに入って登場しました。
そこにライスが添えられ、クラシックスタイルに従って自分でカレーを注ぎかけていただく方式です。

一口食べてみると、期待していたような派手なインパクトというよりは、欧風カレーらしい奥ゆかしい味わいが広がりました。
ただ、その奥に潜むデミグラスのような厚み、ほのかに香る柑橘の余韻が後を引き、食べ進めるごとに不思議と癖になる味です。
食のインパクトというより、文化としての美しさが宿った一皿だと感じました。
明治や大正の人々が「贅沢」として思い描いた洋食の原風景がここにはあるような気がします。

そして食後の珈琲は、まさに「珈琲」と漢字で書きたくなるような味わいでした。
チェーン系の画一的な味ではなく、幅のある香りと、どこか穏やかで懐の深い味。
例えるならば、ルノワールの絵のような様式美ではなく、もっと生活に寄り添う柔らかさを持った一杯でした。

どこかの時代の空気が今もなおここに流れている。
そんな不思議な体験ができるこの喫茶店、すっかり好きになってしまいました。
また銀座を訪れた際には、必ず立ち寄りたい場所です。





















友人の集まりがあり、辻堂まで足を運びました。
この日は音楽と食事、そして人との出会いが重なるような特別なひとときとなり、
その舞台となったのがこちら「ビストロザンシン」です。

まず驚かされたのは、店内に備えられたライブ用の音響設備の本格さでした。
PAの質が非常に高く、しかも相当な音量まで対応可能ということで、
ライブを前提としたセッティングがしっかりと整えられています。
加えて、セミナーやトークイベントにも使えそうな照明・空間設計がなされており、
単なる飲食店ではない、複合的な表現の場としての魅力を強く感じました。

この日はコース料理と飲み放題をいただきながら、友人たちによるイベントを鑑賞。
なんなら私自身もライブをさせていただきましたが、
その環境の良さにはプロとしても非常に満足しております。
音響は素直で扱いやすく、操作もシンプルで、演奏者にとってとても安心感のある会場でした。

料理はどれも丁寧な仕事がなされていて、美味しかったです。
中でも印象に残ったのが、貝としいたけの混ぜご飯。
出汁の旨味がしっかりとご飯に染み込み、優しいながらも記憶に残る味わいでした。
他にもポテトやおつまみ系の料理も多く、気の利いた味付けで、どれをとっても満足度の高い内容でした。

特筆すべき点として、飲み放題にオールドクロウがあったことが挙げられます。
最近ではなかなかお目にかかることのない、苦味と渋みが特徴のバーボンで、
これを飲み放題でいただけるというのは、かなり珍しい体験です。
そのえぐみを受け止めてくれるようなおつまみも揃っており、
お酒との相性も非常に良かったです。

店主さんはミュージシャンへの理解と応援の気持ちを強くお持ちの方で、
ライブなどもリーズナブルに開催できるようにと、空間を開いてくださっているようです。
その姿勢に共感し、プロのミュージシャンとしてこの場所で演奏させていただいたことを誇りに思います。
ぜひ多くのアーティストに、このステージを踏んでほしいと感じました。



























ふうっと一息。
そんな気分の夜に、二軒目の酒場としてこの店を訪れました。

この辺りに来たからには、少しだけでも下町の風を感じたくなったのです。
そして、できることなら、私の敬愛するメンターである大谷由里子先生にも、こうした空気を届けたいと思った次第です。

一軒目ではしっかりと食事をいただいてしまったため、こちらでは軽く、空気を味わうような感覚で過ごすことにしました。

まず注文したのは、もつ煮込み。
無駄を一切削ぎ落とし、ただ“もつ”と“醤油”の旨味だけで勝負しているような一皿です。
しっかりと煮込まれたその姿は潔く、シンプルゆえに味の良し悪しが如実に現れるものですが、こちらの煮込みは確かにうまい。
唐辛子とネギをうまく使いながら食べ進めていくと、自然と下町名物の「ボール(焼酎ハイボール)」が進みます。

「甘さ」とは呼べない、しかしどこかに甘さを感じるこのボールの味わいは、もしかしたらアルコールを最も美味しくいただく方法かもしれません。
街には街の風土があり、少なくともここ錦糸町、墨田、そして葛飾には、こういう酒が合うのだと改めて思いました。

次にいただいたのは、酒盗クリームチーズ。
この組み合わせに勝る酒肴があるでしょうか。
酒盗の塩気と深みのある旨味を、クリームチーズがしっかりと包み込み、味を一段階まろやかに引き上げてくれます。
ハイボールでは分が悪いかもしれないこの一皿も、こちらの“ボール”であればしっかりと受け止めてくれる。
まさに、酒の味と空気で席を作っていくような店だと感じました。

店内は喫煙可能で、その点については大谷先生には大変申し訳なく思いましたが、
クレイジー・ロックンローラーを自称する私にとっては、この自由さが心地よく、つい長居してしまいそうになります。

今度はきちんと時間を取って、改めてしっかりと飲みに来たいと思いました。
JFやパンジといったバンド仲間を連れて、音楽と酒が交わる夜をこの店で楽しんでみたいと思います。

風土のある街に、風土のある酒場。
それは一過性の賑わいではなく、記憶として残る“夜”の入口のようでもありました。















学生時代に抱いた「大人の鉄板」という言葉には、どこか手の届かない世界の響きがありました。しかし年月を重ねて、ようやく自分の歩んできた時間を背景に、その言葉の意味を実感できる夜を迎えることができました。粉者東京でのひとときは、まさにその感覚を呼び覚ますようなものでした。

乾杯は札幌黒ラベルから始まり、芋や麦のソーダ割り、赤ワインのロリマーと続きます。軽やかな泡や深い果実味が、これからの料理を彩る序章となりました。

最初に供された和牛のブルスケッタは、ニンニクの余韻が印象的で、力強さの中に洗練を感じました。次の粉物コールスローは出汁とろろをまとい、庶民的な一皿が見事に格上げされ、滋味深い一章へと変わります。京都産豆乳を使った生豆腐は無垢そのもので、口に含むと優しい甘みが広がり、まるで静かな休符のように心を落ち着かせてくれました。

そこから再び響きが戻るように現れたのが、和牛とズッキーニの春巻きです。サクッとした軽快な食感と肉の濃厚な旨味が舌を楽しませます。淡路島の玉ねぎは圧巻で、丸ごと焼かれた姿が舞台装置のように迫力を放ちます。中はとろける甘さで、フライドオニオンと塩の組み合わせがその魅力を際立たせていました。

牡蠣のワンスプーンはトリュフオイルを注ぎ入れる演出とともに供され、口に運ぶと海と森の香りが瞬時に融合します。強烈で忘れがたい一口でした。

そして主役は知床牛のステーキです。鮮やかな赤身の断面が美しく、リブロースの力強さとしんの繊細さが見事に調和していました。マスタードの鋭さと柚子胡椒の爽やかさが加わり、味わいの立体感を生み出します。

クライマックスを支えるのはガーリックライス。香ばしく焼き上げられた米粒に、鉄板料理の余韻が凝縮されています。さらに和牛と鰹のお出汁が運ばれ、滋味深い味わいが身体に染み渡るようでした。

最後を飾るのはヨーグルトジェラートです。清らかな酸味とやわらかな甘みが、これまでの重厚な流れを軽やかに締めくくり、澄んだ余韻を残しました。

粉者東京でいただいた料理の数々は、まるで交響曲のように和と洋を行き来し、土地の恵みと職人の技を結びつけていました。学生時代に遠く感じていた「大人の鉄板」は、今では自分の歩んできた年月を映す鏡のように感じられます。このお店での体験は、現代に息づく浪漫そのものだと思います。





























ここ最近、ありがたいことに仕事が絶好調だ。
自分でも思ってもみなかったような商品が売れている。
それは「音楽をやりたい人のサポート」や「オリジナル音楽が欲しい人」への提供だ。

きっかけは、以前ある交流会で「あなた、本当に音楽作れるの?」と驚かれたことだった。
「いや俺、ミュージシャンなんですけど…」と(笑)。
そこで考えた末、小さなアンプとエレキギターをプレゼンに持っていくようにした。
実際に生演奏をすると「すごい!」と強い反応が返ってきて、そこから商品が売れるようになった。
生演奏が持つ“ショーとしての力”を改めて実感した瞬間だった。

エレキギターを弾く時、俺は「うまく見えること」「派手で印象的であること」「感情がこもっていること」を意識している。
それが人の心を揺さぶるらしく、演奏を見た人の反応は大きい。
これは今の仕事の転機になっていると感じる。


そして確信しているのは──これから「生演奏の時代」が再び来る、ということだ。

音楽はもともと、録音技術が発明される前は生でしか楽しめなかった。
サロンにミュージシャンを呼んで演奏を聴く、そんな贅沢が“音楽の原点”だった。
それがレコード、カセット、CD、MD、iPod、スマホへと進化し、今ではAIで楽曲が作れる時代になった。
けれど、だからこそ逆に「生で音を浴びたい」という欲求が強くなる。

生成AIは素晴らしい。俺も学会で推進活動をしている立場だし、誰もが簡単に音楽を作れるようになったのは革命だと思う。
だけど、AIで作った音源だけで「酒を飲んで盛り上がる」「仲間と騒ぐ」ことは難しい。
やっぱりライブの場でギターをかき鳴らすからこそ、場がパーティーになるし、友達もできる。

エレキギターの迫力は、今の技術では再現が難しい。
音そのもののエネルギー、人の手の感情が乗った響きは、生だからこそ届く。

生成AIの限界についてはまた別のブログで詳しく書くけれど
俺が今思うのは、AIがどれだけ進化しても、人間の“原始的な力”である生演奏は絶対に価値を持ち続けるということだ。