1月の読書記録 中上健次 幸田文 三浦しをん タルコフスキー他、2024.1月 | レイモン大和屋の <シネ!ブラボー>

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映画感想、読書感想を備忘録として書いてます。
三浦しをん氏のエッセイを愛読しています。
記憶に残る映画と1本でも多く出会えることを願っています。

フェリーニという馬がJRAの3歳新馬戦でデビューしたが残念ながら勝てなかった。かつてはゴダールやルルーシュという馬もいて、ルルーシュはアルゼンチン共和国杯などの重賞レースでも優勝している。現在ヴィスコンティやメルヴィルは現役の競争馬として走っている。アリストテレスやトーキョーサバクという名の馬もいる。今週は京都でムルソーという3歳馬がデビューするそうだ。先日アンドアイラブハーという馬が新馬戦を快勝、馬主はビートルズファンだろうか。

今週土曜日(1/21)の『初富士ステークス』にはカヨウネンカが出走登録しているそうなので出たなら応援しよう。

 

アルピニストの野口健氏が能登半島地震の被災地に寝袋や簡易トイレを送っているそうで、避難されている方々には大いに役立ちそう。

 

第170回芥川賞が発表され、受賞者が生成AIを作品の中で5%くらいは使っているとインタビューで述べていることで様々な論議を呼んでいる。生成AIは他の分野(将棋、音楽、絵画ほか)でも活用されているようなので、文学の世界においても活用が進むのか?。生成AIを使って書かれたブログは判別可能だろうか。

 

年初めに古書店(ブックオフ)で購入した本を読み終わったので内容を忘れないうちに記事にしておきます。

 

 

『岬』  中上健次 (文春文庫)

【収録作品】

黄金比の朝・火宅・浄徳寺ツアー・岬

 

感想)何十年ぶりかで中上健次を読み返した。

『黄金比の朝』の主人公は十九歳で夜勤のアルバイトをしながら昼間は予備校に通っている。アパートの隣の部屋に住む同じ浪人生の斎藤(三浪)を誘って風呂に行こうとするが斎藤は眠り込んで起きようとしない。隣の家には松根善次郎という老人が娘と派手な喧嘩をしたあと、縁台に並べた盆栽に水をやっていた。

ぼくはあてもなく電車に乗り予備校へ向かうが、予備校の前ではヘルメット姿の男たちがビラを配りカンパを募っていた。部屋に戻ると過激派に属し潜伏中の兄が部屋にいて斎藤と競馬の話をしていた。ぼくと兄は腹違いの兄弟だった。兄はこの部屋にしばらく潜伏することになった。ある日、三人はモーニングを食べようと通りの喫茶店に入る。入り口付近で煙草を吸っていた毒々しい赤いセーターと赤いスカートをはいた女がフラフラとやってきて「占い師の女の人を探しているんだけどぉ」とけだるい口ぶりで兄に話かける。女は十八歳で、行方不明中の妹や死んだ兄に会いたいのでその女占い師を探しているという。その女占い師吉田はまを知っているというアパートの管理人をたずねると、吉田はまはすでに亡くなっていた。ぼくは兄のような大衆の本質を理解せず「過激になって権力を奪取しろ、邪魔なやつはテロってやれ」と煽りたてる左翼の連中を嫌悪し「おれは右翼だ」と、心の中でつぶやく。

 

『黄金比の朝』は『十九歳の地図』を彷彿とさせ(アパートの隣人、松根善次郎は『十九歳の地図』にも登場していたと記憶する)『火宅』は芥川賞を受賞した表題作でもある『岬』を連想させる作品だ。『浄徳寺ツアー』はセックスのことしか頭にない不良添乗員の暴力性が中上健次の内発的な暴力性の発露として表現されているように感じられた。『岬』は中上健次が作家としてすでに完成されている印象を受けた。

 

 

 

『父・こんなこと』 幸田文 (新潮文庫)

【収録作品】

父ーその死ー 菅野の記・葬送の記・あとがき

こんなこと  あとみよそわか・このよがくもん・ずぼんぼ

       著物・正月記・啐啄・おもいで二ツ・あとがき

 

感想)幸田文は幸田露伴の次女だが、その頃姉や弟はすでに亡くなっていた。『父ーその死ー』「菅野の記」「葬送の記」では、昭和二十二年の夏、猛烈な暑さの中で病床に臥している晩年の露伴と清酒問屋に嫁ぎ一女をもうけたあと離婚し、子連れで実家に帰り婆やや幼い娘の玉子と父の日常の世話で苦心惨憺する様子が率直な心境を伴って誠実に描かれている。「菅野の記」の菅野(すがの)は千葉県市川市の菅野という地名。『こんなこと』では、東京向嶋蝸牛庵の自宅で、壮年時代の露伴から家事一切の習い事を教育される少女時代の文と弟の様子が父への反撥心や尊敬と共に描かれる。若い頃の幸田文は文学にはまるで興味がなく、露伴の性格の厳しさへの嫌悪もあったりして、父の作品も全く読まなかったそうだ。幸田文が作家として出発するきっかけになったのが父の病床の記録であり、それは露伴を研究する人たちへの何かの役に立てばという思いからだったというのは何か皮肉のようでもあり必然でもあったようにも思える。

 

 

 

『夢のような幸福』 三浦しをん  (新潮文庫)

 

感想)『夢のような幸福』は三浦しをんの二十代半ば頃に書かれたエッセイ集。三浦しをんにハマったのは二十年近く前『しをんのしおり』というエッセイ集を読んでからだったと思う。

自分の恥になりそうな出来事をあえて披露し、それを少し距離をおいて眺めている客観性やユーモア、言葉の使い方に得も言えぬ親近感を覚えた。ブックオフへ行くと三浦しをんの文庫本が110円コーナーにズラリと並べられているのは壮観だが、一面複雑な気持ちにかられる。三浦しをんのエッセイを読んだことがない人に次のような文章は面白く感じられるだろうか。

 

「アイロンかけの作業ぶりからして、ヴィゴ氏は神経質そうです。アイロンをかければかけるほど、新たな(そしてくっきりとした)皺を生み出してしまう私とは違う。(中略)ヴィゴ氏が心の広い神経質な人だといいんだけど。そうしたら私たちは、うまく結婚生活を営めるはずだ。「心の広い神経質な人」って、言葉がやや矛盾しているような気もするけれど。ちなみに当方、心が狭くて無神経な人間です。これにはあまり矛盾を感じない。そういう最低の性格をした人間っているものだ(と、またも他人事のように言ってみた)。」

 

三浦しをんのエッセイは真面目に読まなくてもいいものがほとんどだが、すごく真っ当でいいことを書いている文章があったので最後に書き留めておきたい。

 

「どんな映画に対しても愛を持ち、少しでもいいところを見つけて褒めよ、と故淀川長治先生はおっしゃった。私も同感だ。何について語るにしても、その対象への愛がなければならぬ。愛がないのなら黙して語らずにおけ。」

 

その作品がたとえ自分の趣味に合わないとしても、その映画に対して愛がないのならば黙して語らずにおこう。

 

 

 

『タルコフスキーATワーク』責任編集 樋口泰人 監修 鴻英良

              シネアルバム124 芳賀書店

 

感想)年末にタルコフスキーの作品を4本ほど鑑賞したあと古書店でタルコフスキーの本にめぐりあったのは単なる偶然には思えなかった(映画関係の本は10数冊だけだった)。

『ノスタルジア』『サクリファイス』はYAHOO!の無料映画で観ているはずだが内容がほぼ記憶に残っていなかった。

ある種の偶像化されている映画監督の例に漏れず、タルコフスキーも相当なワンマン監督でスタッフとのトラブルも再三だったようだ。最後に『タルコフスキー・ファイル in サクリファイス』からタルコフスキー自身の言葉を引用して感想に代えたい。

 

「映画監督はふたつのカテゴリーに分けることができる。ひとつは彼らの住んでいる世界を模倣しようとする監督、再現しようとする監督で、もうひとつは自分に固有の世界を創造しようとする監督だ。映画で自分に固有の世界を創造しようとする者は詩人なのだ。映画の詩人それは、まず、ブレッソン・・・、それにドヴジェンコ・・・ミゾグチ・・・ベルイマン・・・ブニュエル・・・クロサワ・・・   奇妙に聞こえるかもしれないが、これらのもっとも優れた映画人が自分の作品を世に出すのにとても苦労している。それは観客がコンベンショナルな現実性のない世界に馴れているからだ。観客の関心や趣味が問題なんだ。いまぼくが挙げた監督は、観客の趣味に全面的に従属することを拒否している。観客に分からなくてもいいというのではなく、彼らはわれわれが観客と呼んでいる人のなかにある、もっとも秘められたものに耳を傾けたいんだ。」

 

映画とは結局、映画を観た人それぞれが自分の感性で何かを感じ取り、自分の脳内スクリーンで再生され、記憶され、忘却されていく何ものかでしかないのか。