読書『変身』『死の家の記録』『ダシール・ハメット伝』他、2023.3~6月 | レイモン大和屋の <シネ!ブラボー>

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映画感想、読書感想を備忘録として書いてます。
三浦しをん氏のエッセイを愛読しています。
記憶に残る映画と1本でも多く出会えることを願っています。

3月~6月の読書記録 Ⅳ

 

『変身』 フランツ・カフカ 高橋義孝訳 新潮文庫

 

<ある朝、グレーゴル・ザムザがなにか気がかりな夢から目をさますと、自分が寝床の中で一匹の巨大な虫に変っているのを発見した。彼は鎧のように堅い背を下にして、あおむけに横たわっていた。頭をすこし持ちあげると、アーチのようにふくらんだ褐色の腹が見える。腹の上には横に幾本かの筋がついていて、筋の部分はくぼんでいる。腹のふくらんでいるところにかかっている布団はいまにもずり落ちそうになっていた。たくさんの足が彼の目の前に頼りなげにぴくぴく動いていた。胴体の大きさにくらべて、足はひどくか細かった。

「これは一体どうしたことだ」と彼は思った。夢ではない。見まわす周囲は、小さすぎるとはいえ、とにかく人間が住む普通の部屋、自分のいつもの部屋である。四方の壁も見なれたいつもの壁である。テーブルの上には、布地のサンプルが紐をほどいたまま雑然と散らばっている。――ザムザは外交販売員であった。>

 

感想)外交販売員のグレーゴル・ザムザは、ある朝、たくさんの足が生えた巨大な虫に変身し、仕事で旅に出る予定の五時の汽車にも間に合わず、心配でやって来た支配人はグレーゴルの変わり果てた姿に驚いて逃げ出した。父や母、兄を慕っていた妹のグレーテも奇怪な虫に変化したグレーゴルを忌むべき生き物として遠ざけるようになった。グレーゴルの稼ぎに頼って暮らしていた家族は空いている部屋に下宿人を入れることにしたが、奇妙な物体がいることに気付いた下宿人たちは憤慨して出てゆき、長年一家に仕えていた女中さえも懇願してこの家から暇乞いしてしまう。言葉を発しても通じないと悟ったグレーゴルは家族の間で交わされる会話を聞き逃すまいとして耳をすます。父や母はともかく、自分を慕っていた妹のグレーテだけには自分の気持ちを伝えようといろいろな行動を試みるがグレーテには一向に伝わらず、やがて父の投げつけたリンゴが巨大な虫のからだに当り・・・

巨大な虫の処置に困っていた一家はやがて悩みから解放され、明るい未来へと歩み出していく・・・・・

 

『変身』はカフカが29歳だった1912年(明治45年、大正元年)に執筆され、出版されたのは1915年だった。

父が手掛けた商売の破産が原因で、意に沿わない外交販売の仕事を続けていたグレーゴルの心の中に訪れる精神的限界、それが巨大な虫へと彼を変身させたのだと考えれば、この作品は現代にも通じる普遍性を持ち、自分が巨大な虫に変身する不条理は作品中のフィクションとして見過ごすことの出来ない恐怖や現実感を持って読者に迫ってくる。

 

新潮文庫版には、カフカの生涯と作品についての解説(有村隆広)が掲載され、『変身』についてカフカ自身の発言やカフカ研究者による『変身』に関する考察もされているが、引用すると長くなるので省略する。重要なのは研究者の考察ではなく、自分自身が『変身』を読んでどう感じたかで、その意味で訳者であるドイツ文学者高橋義孝氏の言葉が一番しっくりする。

<その作品中、ことに有名な、この『変身』の「巨大な褐色の虫」は何の象徴であろうか。答えは無数にあるようだ。そしてどの答えも答えらしくは見えぬ。けだし文学とは、それ自身がすでに答えなのであるから。>

 

最後に付け加えておくと、カフカ自身は『変身』の扉絵に昆虫が描かれることには猛反対し、カフカ自身の提案として、   

<「・・・・・次のような場面を選びます。両親と支配人が閉まったドアの前にいるところ、あるいはもっとよいのは、両親と妹が明るい部屋にいて、暗い隣室へのドアが開いているところ」とのべている。」>ようだ。『変身』の出版本には巨大な昆虫の絵を扉絵や挿画で使っているものも多数あるようだが、それは作者であるカフカ自身が最も望まない形であった。

 

 

 

 

 

 

『死の家の記録』ドストエフスキー 米川正夫訳 河出書房新社

 

<冬の日は短いから、仕事はすぐに終わって、われわれ一同は早くから監房へ帰って来た。そうすると、たまたま何か自分の仕事でもないかぎり、ほとんど何もすることがないのであった。自分自身の仕事をしていた囚人は、ようやく全体の三分の一に過ぎなかったろう。そのほかの連中は、ただのらくらして、用もないのに、監房じゅうをうろつきまわったり、悪口をついたり、仲間同士の間で悪企みをしたり、騒動を引き起こしたり、いくらかでも金が手に入ると、へべれけに酔っぱらうのであった。夜になると、たった一枚しかない下着を賭けてカルタをする。それもこれもみんな何ひとつすることがなくて、ぶらぶらしている辛気臭さから来るのである。のちになって、わたしは自由を奪われ強制労働をやらされること以外に、徒刑生活にはもうひとつ、おそらくほかの何よりも優る大きな苦しみがあることを悟った。それは強制的に共同生活をさせられることである。共同生活ということは、もちろんほかの所にもあるけれど、監獄へはだれしもいっしょに暮らしたくないような人間が入ってくるのだ。わたしは一人一人の徒刑囚がこの苦痛を味わっているものと確信する。もちろん、大部分は無意識に感じているに過ぎないだろうが。>

 

感想)『死の家の記録』は、ドストエフスキーが1849年4月、ペトラシェフスキー党事件で検挙され、ネヴァ河畔のペトロパヴロフスク要塞に幽閉された4年間のドストエフスキー自身が体験した事実に基づいて書かれた自伝的述作であるが、当時の検閲を考慮して主人公の経歴(逮捕された理由)等には脚色が加えられている。さまざまな国(ポーランド人、ユダヤ人、チェルケス人、韃靼人等)と階級(貴族、平民、農民、廃兵、無頼漢など)の人間たちが極寒の地で、刑罰の種類や等級ごとに分類されて厳しく苦しい牢獄生活を送っている。しかし、その中で目はしのきく才覚や度胸、野獣のようなふてぶてしさ持ち合わせた一部の懲役囚たちは監獄生活のなかにあっても、食事や酒たばこ、女には不自由せず監獄生活を謳歌?しているというのは驚きである。地獄の沙汰も金次第という言葉は刑務所生活においても真実であるようだ。だが、そんな自由を享受している者はまれでほとんどの懲役囚たちは今の生活を暗鬱にやり過ごしているだけである。特に貴族出身の者へ向けられるさげすみのまなざしや態度はドストエフスキーには耐えられないほどの精神的苦痛であったようだ。

この小説を読んだあと、人は自由であることの有難さと犯罪に手をそめ、得体の知れない懲役囚たちと一緒に暮らす雑居監房生活の恐ろしさをひしひしと感じ戦慄を覚えるのではないだろうか。

 

 

 

『ネートチカ・ネズヴァーノヴァ」 ドストエフスキー

                米川正夫訳 河出書房新社

 

<わたしは生みの父を覚えていません。わたしが二つの年に死んだのです。母が父と結婚したのは二度目なのです。恋愛結婚だったのですが、この再婚は母にとって大変な苦労の種となりました。わたしの継父は音楽師で、その運命は数奇をきわめたものでした。それは、わたしの知っているどんな人にくらべても、じつに風変わりな、じつに素晴らしい人でして、わたしの少女時代の最初の印象に烈しい反映を投げかけたものです。その烈しさといったら、それらの印象がわたしの生涯に消ゆることなき影響を与えたほどです。わたしの物語をわかりよくするために、まず第一に、ここで父の伝記を敘べることにしましょう。わたしがこれから物語ろうとするすべてのことは、若かりし頃の継父の同輩であり、親しい友であったバイオリニストのBから、後日になって聞いたことなのです。>

 

感想)主人公の少女ネートチカがまだ幼かったころから、十六歳になったころまでに出会った人々との数奇な出来事が、ネートチカの告白文形式の文章で描かれている。内容は米川正夫氏による解説が分かり易い。

 

<『ネートチカ・ネズヴァーノヴァ』は内容から見て、三部に分かれている。第一部は女主人公の継父である音楽師エフィーモフの生涯を叙した初めの三章、第二部は主人公と公爵令嬢カーチャとの幼い恋物語に捧げられた次の二章、第三部はカーチャの義姉アレクサンドラとその夫との謎めいた夫婦関係を物語る最後の二章に相当している。その間、薄幸の少女ネートチカの空想的な、病的に感受性の強い性格の発展が、終始一貫して全体を統一しているのはいうまでもあるまい。>

 

少女の告白体で語られるこの作品は、太宰治の『女学生』や『斜陽』を想起させた。太宰治がドストエフスキーにどのような影響を受け、この作品が太宰治にどのような影響をあたえたかは知る由もないが、『ネートチカ・ネズヴァーノヴァ』は未完成の作品でありながら、ドストエフスキー文学の初期を代表する作品の一つとして評価するむきもあるようだ。

 

 

 

『ダシール・ハメット伝』 ウィリアム・F・ノーラン著

                 小鷹信光訳 晶文社

 

<ある思いつきを白紙の上に表現しようとするすべての物書きは、例外なくある本質的な使命に直面する。その思いつきを、それを読んだものに書き手が望んだある感銘を及ぼす形で表さねばならないということである‥‥‥詩であれ、小説であれ、恋文であれ、はたまた広告文であれ、言葉の選択と配列が文学的課題となる・・・ある感銘を与えるために言葉を操るものはすべて文筆業者なのだ・・・・清明さは、第一の、そして最も偉大な文学的美徳である・・・・簡潔さと清明さは・・・・文学上の最もとらえがたい難しい目標であり、望むべき最高の効果を読者に保証する最も重要な文章の質である。>(1926年10月号の月刊誌『ウェスタン・アドヴァタイジング』に掲載されたハメットの「広告は文学」というエッセイ)

 

感想)地元の治安判事を務めていた父親とある出来事がきっかけで折り合いが悪くなったハメットは、父が病気で働けなくなったあと、14歳で実業学校を中退し鉄道会社のメッセンジャーをはじめに、貨物係、荷役人足、機械工場の作業時間点検係、雑役夫、缶詰工場の工員、広告代理店の雑用係、製箱工場の釘打ち機械の運転係などの職を転々、毎日同じことを繰り返す作業に嫌気がさし順応することを拒んだ。女漁りも父親にひけをとらず、20歳の時に淋病に罹った。1915年、21歳になった時、たまたま見つけた求人広告がハメットの運命を変えた。週給21ドルでピンカートン探偵社の調査員(オプ)として採用されたのだ。この仕事はハメットのしょうに合っていた。タフさを求められ、時には命さえ保証されない危険な職業だが、筋を通すことを何物にも代えられない信条にしているハメットにとっては願ってもないやりがいを感じる仕事だった。

 

しかし、ハメットは1918年に陸軍に志願してピンカートン探偵社を辞職する。アメリカ軍の駐屯地でスペイン風邪に感染したハメットは軍隊を去り、傷病兵認定を受け年金が支給されることになった。退院後ピンカートン探偵社に戻るが、再び結核の症状が現れ入院や自宅療養を繰り返しながらその間サンフランシスコ近くの公立図書館に通いあらゆる種類の本を貪るように読んだ。その後、作家としてデビューしてからも図書館がハメットにとっての大学であった。ピンカートン探偵社に在籍はしていたが体力が要求される探偵という職業を続けることが困難である事を感じていたハメットは、1922年2月に会社に辞表を提出、ジャーナリストを養成するための職業学校に通いフリーランスの広告文を書く仕事を始める。ハメットが小説を書き始めるようになったのは1922年頃のようだ。

 

この『ダシール・ハメット伝』には、『ブラック・マスク』誌に執筆を始めた短編作家時代のエピソードや評価から、一流作家として認められハリウッドでも重用された時代、のちに劇作家として認められるリリアン・ヘルマンとの出会いや不遇時代のヘルマンへの惜しみない献身(創作上のアドヴァイス)、病と貧困に苦しんだ晩年とハメットの心の支えになったヘルマンとの交流が詳細に記述されている。ハメットの作品について興味のある方には是非読んで頂きたい評伝本。(ダシール・ハメットの代表作 『コンチネンタル・オプ』シリーズ 『ガラスの鍵』『血の収穫』『マルタの鷹』『影なき男』ほか)