読書『山椒魚』『乙女なげやり』他、2023、3~6月 | レイモン大和屋の <シネ!ブラボー>

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映画感想、読書感想を備忘録として書いてます。
三浦しをん氏のエッセイを愛読しています。
記憶に残る映画と1本でも多く出会えることを願っています。

3月~6月の読書記録Ⅱ

 

『山椒魚』 井伏鱒二 新潮文庫

 

感想)山椒魚は棲家である岩屋から外に出ようとしたが、二年の間に頭が大きくなってしまい出入り口が狭くなって頭がつかえ、出ることができなくなってしまう。「何たる失策であることか!」と、山椒魚は自分自身のうかつさを責め嘆息をもらすが、「いよいよ出られないというならば、俺にも相当な考えがあるんだ」と決心がついたように呟く。しかし、山椒魚に岩屋から出るためのうまい考えなどあるはずもなかった。しばらくして一匹の蛙が岩屋の窓からまぎれこんだが、常々この自由に泳ぎ回る蛙をこころよく思っていなかった山椒魚は蛙が外に出れないように奸計をめぐらした。蛙は山椒魚の頭が岩屋の窓に栓になったので、岸壁によじのぼり、天井にとびついて銭苔の鱗にすがりつく。

山椒魚は相手が自分と同じような状態になったことに満足し、「一生涯ここに閉じ込めてやる!」と呪いの言葉を吐きすてた。

山椒魚と蛙のいがみ合いは一年つづき、さらに一年がすぎた。

ある日岩の凹みにいた蛙はおもわず「ああああ」と深い歎息をもらす。山椒魚はこれを聞きのがすことなく蛙に問いかける。

「お前は、さっき大きな息をしたろう?」「それがどうした?」「そんな返辞をするな。もう、そこから降りて来てもよろしい」「空腹で動けない」「それでは、もう駄目なようか?」

「もう駄目なようだ」

よほど暫くしてから山椒魚がたずねる。

「お前は今どういうようなことを考えているようなのだろうか?」

相手は極めて遠慮がちに答えた。

「今でもべつにおまえのことをおこってはいないんだ」

 

『山椒魚』は井伏鱒二の処女作で文庫本で10ページほどの作品だが、亀井勝一郎は「『山椒魚』はいまもなお井伏さんの全作品の中で最高位を占むるものと思われる」と述べている(新潮文庫あとがき)山椒魚と蛙を擬人化しながら、人間のこころのなかに潜むおごりや妬み、悪意や善意といったさまざまな感情の揺れ動きを<山椒魚>に託して見事に描き出している。

 

[他の収録作品] 

朽助のいる谷間 岬の風景 へんろう宿 掛持ち シグレ島叙景

言葉について 寒山拾得 夜ふけと梅の花 女人来訪 屋根の上のサワン 大空の鷲

 

 

 

『老残のたしなみ 日々是上機嫌』 佐藤愛子 集英社文庫

 

 感想)著者と同じ年の愛読者であるという女性が長崎から上京して自宅を訪ねてきたときのエピソードが面白いので抜粋。

「初対面のような気がしませんわねえ、いろいろ読んでますから。ホホホ」と笑う。「うちの方の本屋では佐藤さんの本、置いてませんのよ。いつも置くようにいうんですけど」

「はあ、そうですか」私はあまり愉快ではない。この台詞も地方の人からよくいわれる台詞だ。私はその都度、「私の本は売れないから本屋が置かないんでしょうよ」と半ばヤケクソになりかけるのが常である。そういえば「いえ、そんなことはないと思いますけど」と答えてほしいところだが相手は、「はァ、そうなんですか」とへんに素直に頷き、「この間、本屋へ寄ったら、佐藤さんのが一冊だけありました。ははァ、あるなあと思ってね。ホホホ」本屋に私の本があるのが何がおかしい、といいたいのを我慢して一緒に、「ハハハ」と笑う。「それから五日ほどして覗いてみたらなくなっていたんで、やっぱり買う人っているだなあ、と思いました。ハハハ」今度はホホホではなくハハハだ。

お前さん、愛読者だというのは本当か、と胸ぐら掴んでつめ寄りたくなる。まったく赤い糸で繋がっている人にもいろいろある。

 

佐藤愛子の本(エッセイ)を読むようになったのは北海道に別荘を建てた際に起きた様々な不可解な霊的現象に関するものを読んでからで、ブックオフには100円(税抜き)で購入できるものも多くあり、テレビの野球中継を見ながら読むには最適。

 

 

 

 

『乙女なげやり』 三浦しをん 新潮文庫

 

感想)本のタイトルについて、担当編集者が単行本刊行時に章のタイトルとして考えてくれた候補で、作者も気に入ったものの、「乙女」という部分に関して「ひとはいつまで「乙女」を自称しても許されるものか」悩んだという。

そして以下の結論に達している。

「なんだか経歴詐称しているような居心地の悪さが、私を襲う。

とは言っても、「乙女」部分を取って、単に『なげやり』というタイトルにするわけにもいかないではないか。『なげやり』。

・・・・・・あら、悪くないわね。フランス映画かギリシャ悲劇かっていうムードがあるじゃない。いやいや、だめだめ。

やっぱり「乙女」と「なげやり」が合体してこそ、妙ちくりんなおかしみがうまれるのよ。私は、「乙女」という言葉を自分にどう納得させるかに、心血を注いだ。そして、ついに思い当たった。

そうだ、早乙女君がいるじゃないか!(早乙女君はべつに、知りあいでもなんでもない)「早乙女」という名字がありますよね。早乙女さんは、五十歳になっても六十歳になっても「早乙女」さんのままなのだ。たとえ、脂ぎった布袋腹のおっさんであっても、早乙女さんは「早乙女」を自称する。よかった、やっぱり「早乙女」っていくつになっても自称していいものなんだ。」

 

三浦しをんのエッセイもブックオフの110円コーナーに盛りだくさんにそろっているので興味のある方はどうぞ。