本『沈黙の春』『灰とダイヤモンド』2023.3~6月 | レイモン大和屋の <シネ!ブラボー>

レイモン大和屋の <シネ!ブラボー>

映画感想、読書感想を備忘録として書いてます。
三浦しをん氏のエッセイを愛読しています。
記憶に残る映画と1本でも多く出会えることを願っています。

 この読書記録は読んだ本の内容(ストーリー、テーマ、文体)等を自分の記憶に残しておくことが主な目的のため、文章、解説の一部を抜粋、引用しています。3,4,5月に読んだ本は内容を忘却、記憶力と2度読みする時間的労力、気力の関係から詳しい本の感想を書くことは断念しました。あらかじめその点をご了承お願い致します。

 

『沈黙の春』 レイチェル・カーソン 青樹簗一訳 新潮文庫  

                        

<この地上に生命が誕生して以来、生命と環境という二つのものが、たがいに力を及ぼしあいながら、生命の歴史を織りなしてきた。といっても、たいてい環境のほうが、植物、動物の形態や習性をつくりあげてきた。地球が誕生してから過ぎ去った時の流れを見渡しても、生物が環境を変えるという逆の力は、ごく小さなものにすぎない。だが、二十世紀というわずかのあいだに、人間という一族が、おそるべき力を手に入れて、自然を変えようとしている。ただ自然の秩序をかきみだすのではない。いままでにない新しい力 ―― 質の違う暴力で自然が破壊されていく。

ここ二十五年の動きを見れば、そう言わざるをえない。たとえば、自然の汚染。空気、大地、河川、海洋、すべておそろしい、死そのものにつながる毒によごれている。そして、たいていもう二度ときれいにならない。食物、ねぐら、生活環境などの外の世界がよごれているばかりではない。禍いのもとは、すでに生物の細胞組織そのものにひそんでいく。もはやもとへもどせない。

汚染といえば放射能を考えるが、化学薬品は、放射能にまさるとも劣らぬ禍いをもたらし、万象そのもの ―― 生命の核そのものを変えようとしている。核実験で空中にまいあがったストロンチウム90は、やがて雨やほこりにまじって降下し、土壌に入りこみ、草や穀物に付着し、そのうち人体の骨に入りこんで、その人間が死ぬまでついてまわる。だが、化学薬品もそれに劣らぬ禍いをもたらすのだ。畑、森林、庭園にまきちらされた化学薬品は、放射能と同じようにいつまでも消え去らず、やがて生物の体内に入って、中毒と死の連鎖をひき起こしていく。また、こんな不思議なこともある ―― 土壌深くしみこんだ化学薬品は、地下水によって遠く運ばれていき、やがて地表に姿をあらわすと、空気と日光の作用をうけ、新しく姿をかえて、植物を滅ぼし、家畜を病気にし、きれいな水と思って使っている人間のからだを知らぬままにむしばむ。アルベルト・シュヴァイツァーは言う ―― 《人間自身がつくり出した悪魔が、いつか手におえないべつのものに姿を変えてしまった》。

 

「本書は、レイチェル・カーソンの主著『サイレント・スプリング』の全訳である。原著は1962年、アメリカのホートン・ミフリン社から出版された。日本語の訳書は二年ののち、青樹簗一氏の手により、新潮社から単行本として出されている。

今回、訳書の題名をかえて、「新潮文庫」の一冊にくわえられることになった。初版(単行本)の題名は『生と死の妙薬』となっていた。化学薬品は一面で人間の生活にはかりしれぬ便宜をもたらしたが、一面では自然均衡のおそるべき破壊因子として作用する。初版の題名はその意味でなかなか含蓄にとんでいたのだが、一般読者には科学書ではなくてミステリー物のような印象をあたえてしまい、不評であった。そこでこんどの文庫版では、原題をそのまま日本語になおして、『沈黙の春』と題された。

しかし原題のもっているニュアンスをつたえるためには、もうすこし長い説明が必要なように思われる。「ものみな萌えいずる春」という日本語があるが、ほんらいそうあるべきはずだった春が、化学薬品の乱用によってそうではなくなってしまった。そのことが本書の主題であり、むしろ<ものみな死に絶えし春>とでも表現したら、内容的には原著の主張をいちばんよくつたえることができるだろう。」(筑波常治 解説より一部抜粋)

 

感想)人類が生きるこの世界のなかで文明の進歩とともに急速に進化し続けてきた化学薬品(殺虫剤、農薬等々)とその際限なき使用によって破壊された自然、死滅した生物、人体への悪影響などとの均衡をどのようにバランスをとりながら生きて行くべきなのかを科学的データに論拠を置きながら共生の道を探ろうとするのが本書のテーマのように思える。原著が出版された1962年から半世紀以上の時を経た現在、化学薬品と自然、人間の健康との関係をめぐるさまざまな未知は依然解明されないまま、それでも人間は生き続けている。レイチェル・カーソンは1964年に56年の生涯を終えた。

 

 

 

 

『灰とダイヤモンド』 イェジイ・アンジェイェフスキ著

                  川上洸 訳 旺文社文庫

 

松明のごと、なれの身より火花の飛び散るとき 

なれ知らずや、わが身をこがしつつ自由の身となれるを

持てるものは失わるべきさだめにあるを

残るはただ灰とあらしのごと深淵に落ちゆく昏迷のみなるを

永遠の勝利のあかつきに、灰の底ふかく

さんぜんたるダイヤモンドの残らんことを・・・・・・

                ノルビッド作『舞台裏にて』

 

「「灰とダイヤモンド」は、なによりもまずアンジェイ・ワイダ監督の映画によって日本の映画ファンに強烈な衝撃を与えたことはすでに述べたが、これと前後して日本に紹介された同じ監督の「地下水道」(という訳が定着してしまったが「下水道」のこと)やカワレロビチ監督の「影」などと共に、当時の歴史的背景やポーランド内外の政情についてごく大ざっぱな予備知識しかもちあわせていなかったわれわれにとっては、かなりわかりにくい点も多かったし、的はずれの解説を加えた評論家もなしとしない。さいわいなことに映画「灰とダイヤモンド」は世界の映画史上に残る名作の一つとして、いまでも折りにふれて上映される機会が多いようなので、とくに若い世代の読者でまだ見ていない方にはぜひ一見してこの原作と比べてみることをおすすめしたい。

文学作品の映画化の場合、文字で読ませる芸術と映像で見せる芸術とのジャンルの違いがあらわれるのは当然といえば当然だが、そのほかに原作の発表(1948年)から映画化(1958年)までの10年間にポーランド社会が、そしてシナリオ共同執筆者としての原作者が体験した上述の激動ももちろん反映されている。小説で重要な地位を占めるコセツキ夫妻は映画には全く出てこないし、イェジイ・シレッテル、アレク・コセツキ、フェレク・シマニスキ、ヤヌシ・コトービチ、マルチン・ボグツキのティーンエージャー ”五人組”も登場しない。国内で抵抗運動に参加し、45年2月に収容所から脱走してきたことになっている党幹部シチューカは、映画ではモスクワ帰りで現実から宙に浮いた感じを強調して描き出されている。古びた蓄音機でスペイン内戦時代の歌をききながら国際義勇軍に加わった昔をなつかしむシチューカの姿は、その後のコミンテルン指令によるポーランド共産党解散(後述)をいやでも思いおこさせずにはおかないシーンだったが、これも原作にはなく、またシチューカの意思に反して義姉スタニェビチョワ夫人の手で養育された十七歳の一人息子マレクが反革命軍に加わり、ブローナ中尉指揮の保安隊に逮捕されるという設定も原作にはない。まばゆいばかりのあかりを顔につきつけられて保安隊本部で尋問を受けるマレク。その光にさそわれて飛んで来た蛾がバタバタあばれている。それをじっと見つめるマレクのふてくされた顔・・・・・・。知らせを受けたシチューカは居ても立ってもいられず、モノポール・ホテルを出て、杖にすがり、不自由な足をひきずりながら保安隊に向かう。すかさずマーチェクがあとをつけ、至近距離からピストルを続けざまに射つ。よろめきながらマーチェクにしがみつくシチューカ。そのコートの背の弾痕から血がにじみ出てくる。突然、背後の夜空を戦勝祝賀の花火がいろどり、二人の姿をくっきりと照らしだす。

こういった”名場面”を思いおこしていたらキリがないが、これもワイダ監督のウデのさえであり、映像芸術のもつ強みでもあろう。」(解説 川上洸から一部抜粋)

 

感想)原作の文庫版(旺文社文庫)は506ページ(解説ページを除く)あり、セリフのある登場人物だけでも40人以上、訳者自身解説の後段で書いているように(このブログでは省略)登場人物のイメージがもう一つふくらみに欠け、人間像が具体的なイメージとして浮かび上がってこないのがやや残念に感じられた。その分と言ってはなんだが、アンジェ・ワイダ監督で映画化された『灰とダイヤモンド』の黒メガネの主人公マチェックを演じたズビグニエフ・チブルスキーの存在感は鮮烈であった。

映画が原作を超えた稀有な例ではないだろうか。

    イェジイ・アンジェイェフスキ

 

 

 

3月から6月までに読んだ本をひとまとめにして一回の記事で終わりにする予定でしたが、一回では無理なようなので数回に分けて後日投稿いたします。尚、パソコンの不具合(頻繫にフリーズしています)で投稿できない可能性もありますのでよろしくお願いします。