読書『心は孤独な狩人』『サンクチュアリ』『出走』『ピアニストを撃て』他、2023.3月 | レイモン大和屋の <シネ!ブラボー>

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映画感想、読書感想を備忘録として書いてます。
三浦しをん氏のエッセイを愛読しています。
記憶に残る映画と1本でも多く出会えることを願っています。

 坂口安吾状態の部屋を整理していたら書いた記憶もないノートが出てきて(多分シナリオを勉強していた頃に書き留めたもの)そこに読書に関するメモが記されていた。今後の読書や感想を書く際の参考になりそうなので書き留めておきたい(誰の言葉なのかは残念ながら不明)。

 

1 1~3回目は見出しなど拾いながら読み返す(サーチライ  

  ト読み」)本の全体像を掴む作業。

 

2 4~5回目は「平読み」と呼び、重要キーワードを意識しな  

  がら普通のスピードで読んで要旨をつかむ。

 

3 6~7回目は「要約読み」と呼び、内容を頭で要約しなが

  読んでいく。

  

  この方法で1冊の本を7回読めば、その内容を頭のなかに写

  し取ることができる。キモは初めからすべてを理解しようと

  しないこと。さらさらと何回も繰り返すことで、本に書か

  れてある内容を徐々に自分の知識として溜めていき、少しず

  つ理解を深めていく。

 

* 読書で重要な要素のひとつは、視野、視座を広げること。

  二流の人に限って、マニアックな特定分野の自分の偏見を助 

  長してくれる著者の本ばかり読みたがる。こういう「二流の

  読書」では読書量が増えても、自分の視野を狭め偏見を増長

  させるだけ。

 

* 一日のなかで半端な時間をつなぎ合わせるだけで、読書のた

  めの時間をまとめて設けなくても1日20ページくらいは読 

  めてしまう。あと週末に少し時間を見つけて本を開くクセを

  つけておけば、週1冊はラクに読めるから年50冊を読むな

  んていとも簡単なのである。

 

* 読む本の種類の比率

  ビジネスパーソンならビジネス書40%、小説30%、その

  他30%。自慢話とサル知恵が詰まったハウツー本は百害あ

  って一理なし。小説は単なる気分転換の道具ではない。小説

  を読むと語彙や言い回しが広がる。それがコミュニケーショ

  ン力やストーリー構成力といった表現力の向上につながって

  くる。

 

2月に読んだ本は8冊(先日記事にした『死ぬまでに観たい映画1001本」を含め)すべて「サーチライト読み」(1回のみ)で本の全体像を漠然と掴んでいるかも怪しい。自分のための備忘録(ただの読書記録)で感想も適当なので皆様の読書の参考にはなりませんのでご了承ください。

 

 

『心は孤独な狩人』 カーソン・マッカラーズ 

                   村上春樹訳(新潮社)

 

主人公のシンガーは聾啞者で同じ聾啞のギリシャ人アントナプーロスと一緒に町の小さな家の二階を借りて暮らし、シンガーは宝石店の奥で銀器の彫刻師として働き、アントナプーロスは従兄弟が経営する果実店で働いていた。アントナプーロスは食べる事だけが生きがいのような男で、しばしば問題行動を起こしたあげく、従兄弟の意向で遠く離れた精神病院に送られる。アントナプーロスが唯一の友人で彼と一緒に生活することに生きがいと歓びを感じていたシンガーは落ち込んでしまう。アントナプーロスと一緒に暮らしていた頃はアントナプーロスが食事の支度をすべて受け持っていた。シンガーは新しい下宿先に移り、下宿先の少女ミックと知り合い、3度の食事を町のカフェレストラン「ニューヨーク・カフェ」で取ることにし、カフェの店主・ビフ・ブラノンや流れ者の男・ジェイク・ブラントと知り合いになった。

 

彼らはシンガーが自分たちを受け入れてくれる良き理解者と思い込む。町の黒人の医師コープランドは白人に対して差別的な感情を抱いているが、シンガーの人柄には黒人を見下すような横柄な所がなく心を許していた。シンガーは彼らが自分の下宿の部屋にやって来て色々話すことを歓迎するが、それはただアントナプーロスがいないことの淋しさを紛らわしてくれるだけのことに過ぎなかった。シンガーにとって世界はアントナプーロスただ一人。

 

夏の長期休暇にお土産を持ってアントナプーロスのいる精神病院を訪ねるシンガー。アントナプーロスは笑顔でシンガーを迎えるが、お土産の中に食べ物が無いことを知ったアントナプーロスは途端に不機嫌になってしまう。病院から町に戻ったシンガーの下宿の部屋には相変わらず色々な人々がやって来る。

アントナプーロスを思い夜の町をさまよい歩くシンガー。

 

シンガーさんに家族の者とは違う愛情、淡い思いを抱くようになるミック。やがてミックの家族に思いがけない事件が起こり、アントナプーロスは亡くなり、コープランド医師、カフェ店主・ビフ・ブラノン、流れ者のジェイク・ブラントにも転機が訪れようとしていた。

 

カーソン・マッカラーズが23歳の時に書いたというこの小説はまさに天才的としか言いようのない人間に対する深い洞察力に満ちている。さまざまな階層の人間、立場の違う人々、年齢、思想、性格、感情、性癖を持った人物が登場し、その登場人物たちはそれぞれにどの人物もリアリティを持っている。シンガーの周りに集まる人々は結局誰もシンガーさんの”孤独”を理解できなかったし、シンガーさんも彼らを理解できなかった。

 

「その灰色の目は、周囲にあるものすべてを受け入れているように見えた。そしてその顔には今もなお平和の色が浮かんでいた。それはきわめて賢いか、あるいは多くの悲しみを抱えた人々の顔に通常見受けられるものだった。話しかけてくる人がいれば、いつだって喜んで歩を止めた。結局のところ彼はただ歩きたいだけで、どこかに向かっているわけではなかったから」

 

「アントナプーロス! シンガーの中には常にその友人の思い出があった。夜に目をつぶると、暗闇の中にそのギリシャ人の顔が浮かび上がった。脂ぎった丸顔、賢そうな優しい微笑み、夢の中では二人はいつも一緒だった。彼の友人が遠くに去って、もう一年以上が経過していた。この一年は長くもなく、短くもなかった。それは言うなれば、通常の時間の感覚から外れたところにあった――その間ずっと酔っていたのか、あるいはねむっていたのか、そのように感じた。そしてその一刻一刻の背後には彼の友人がいた」

 

他者的な視点から見ればシンガーさんはアントナプーロスに依存しすぎたのかもしれないが、マッカラーズはそれに対して批評的な言葉は加えず冷静に見つめている。自分が生きている社会や世界に対する透徹した目、人生の苦労を味わい尽くした者が書くような深い洞察力に感嘆する。1968年にロバート・エリス・ミラー監督で映画化された『愛すれど心さびしく」の原作。

 

 

 

『荒地』 T・S・エリオット 滝沢博・訳・解説 (春風社)

 

モダニズム詩の金字塔『荒地』の再新訳。長年のエリオット研究で各国語のテクストを読み込んできた著者による精緻かつ清新な訳文は、難解とされる同作の初読者をもエリオット詩の世界観、魅力に浸らせる。一方、付録の解説、訳注、テクストの問題では、作品中における一定のモチーフ群の流用のさまざまな仕掛け、エズラ・パウンドの詩集等制作過程の問題に周到に切り込み歴代の翻訳版に一石を投じる内容になっている。(BOOKデータベースより)

 

感想)309ページの中でエリオットの詩は46ページ余り。

残りのページは解説(作者エリオットについての伝記、詩論、『荒地』についてのモチーフ、構造、制作過程の問題、訳注、テクストの問題)という構成になっている。

本の大部分は解説に充てられている印象で新訳にあまり心を動かされるものはなかったが、解説を手掛かりにしながら『荒地』のような難解なモダニズムの詩に挑戦してみるのもいい。『荒地』からイメージされるのは鮎川信夫や田村隆一、中桐雅夫らが属していた詩誌『荒地』。有名な冒頭部分は新訳では次のように訳されていたが、『荒地』の訳も色々あるので読み比べも面白い。

 

    死者の埋葬

 

 四月はいちばん酷い月、ライラックを

 死んだ土地から産み出して、追憶を

 欲望に混ぜ入れて、鈍った木の根を

 春の雨でかきたてて。

 冬はやさしかった、大地を

 忘却の雪でおおって、小さないのちを

 干からびた根っこで養ってくれて。

 夏が不意に襲ってきた、シュタルンベルク湖上空で

 にわか雨を降らせたね。ぼくらは柱廊で休んでから、

 また日差しの中を歩き、ホーフガルテンに入って、

 コーヒーを飲んで、一時間ほど話をした。

 

 

 

『サンクチュアリ フォークナー世界の文学セレクション36』

                (西川正身訳 中央公論社)

 

ミシシッピ州ジェファスンの町のはずれで、車を大木に突っこんでしまった女子大生テンプルと男友達は助けを求めて廃屋に立ち寄る。そこは性的不能な男ポパイを首領に、酒を密造している一味の隠れ家であった。女子大生の凌辱事件を発端に異常な殺人事件となって醜悪陰惨な場面が展開する。ノーベル賞作家である著者が、”自分として想像しうる最も恐ろしい物語”と語る問題作。(加島祥造訳『サンクチュアリ』新潮文庫カバー巻末紹介文)

 

感想)加島祥造訳の『サンクチュアリ』を読みたかったが、図書館にはこれ以外のものが無かったので借りることにした。

不安は的中、モヤモヤとした読後感が残った。訳者の西川正身氏は1904年(明治37年)生まれで、この世界文学セレクションに収録されている『サンクチュアリ』の翻訳は以前新潮社で龍口直太郎氏と共訳したものを出版社と共訳者の了解を得たうえで今回単独で翻訳にあたったもののようだ。表現に古臭さと意味が分からない言葉があったり、違和感の多い翻訳だった。二、三あげれば「えこじにさえなっていなけりゃね」(P120 下段)

「彼女の上体はうしろへそりくりかえり」(P130 上段)

「車は砂利道をスケッドしながらひゅんひゅん音をたてて」(P127 下段)「スケッド」という言葉の意味が分からなかったので「広辞苑」で調べてみたが、「スケッド」という言葉は収録されていなかった。一般人に馴染みのない言葉を使わなくても可能な翻訳が出来ないものだろうか、同時代に生まれている名翻訳家大久保康雄氏(1905年 明治38年生れ)などに比べると歴然とした差を感じてしまった。『サンクチュアリ』は改めて加島祥造訳で読んでみたい。

 

 

『出走』 ディック・フランシス 菊池 光訳(早川書房)

 

初の短篇作品である『強襲』長篇もふくめてグランド・ナショナルをあつかった唯一の作品である『敗者ばかりの日』、めずらしく婦人誌むけに書かれた『春の憂鬱』などの傑作に、本書のために書き下ろされた五篇の作品を加えた全十三篇の輝きが、ディック・フランシスの魅力をすべて照らし出す。(BOOKデータベース)

 

感想)ディック・フランシスは、障害レースの元人気ジョッキーで、競馬ファンで文学(推理小説)好きな人には知られている

イギリス出身の競馬小説作家。

『出走』は一年に一作ペースで長編小説を書いてきたディック・フランシスにはめずらしい短篇作品集。『刑事コロンボ』のような綿密に練り上げられた脚本による一時間ものの良質なドラマを観たような満足感。競馬に関係する人々の欲望が、形を変えたさまざまなシチュエーションと結末で綴られる。都築道夫氏は菊池光の翻訳について、「会話のまずさに驚いて、読まなくなったことがあった」と書いているそうだが、確かに会話の部分はあまり上手いとは思えないが、ストーリーの面白さでそれは帳消しにされる。よくこんなに競馬関係のアイディアが思いつくものと感心してしまう。久し振りにディック・フランシスの作品に再会できた喜び

 

 

 

『最も危険なアメリカ映画』 町山智浩著 集英社

 

トランプに象徴されるアメリカの危険は、ハリウッド映画で何度も描かれてきた。自由と平等を謳うのは「よそゆき」の顔。

その陰の差別的で狂暴な素顔を描いたゆえに封印された『オール・ザ・キングスメン』のような作品もある。『バック・トゥ・ザ・フューチャー』等では戦後史が歪曲されている。古今の映画に見え隠れする、アメリカの裏事情、気付けばいっそう面白くなる危険な映画評論。(BOOKデータベースより)

 

感想)『國民の創生』が白人至上主義者たちによる黒人差別組織KKK(クー・クラックス・クラン)を賛美し、南部の黒人に対する差別虐待行為を正当化した史上まれにみる最悪な映画という評価の一方で、映画表現における基本的な技術がこの作品によって確立されたという技術的視座からの高い評価というアンバランスな問題が本の冒頭で取り上げられ論及されている。『國民の創生』が映画技術的に優れ、差別的な内容は別にしてエンターテインメントとしても優秀だったことで、この作品が大衆に対して大きな影響力を持ち、1871年以降連邦法で非合法として活動が禁止され消滅したKKKが再復活するきっかけを作り、多くの黒人たちがリンチに合い、黒人だけでなくイタリア、アイルランド、ギリシャ、ロシア、東欧からの移民に対しても攻撃が及ぶという陰惨な結果を招いたという事実。『バック・トゥ・ザ・フューチャー』『フォレストガンプ / 一期一会』のような大ヒット作、アカデミー賞受賞作品においても、1960年代の歴史が捏造され、60年代を恣意的に歪めて描き、黒人が平等を勝ち取った公民権運動がアメリカの歴史から抹消されていると著者は指摘している。監督のロバート・ゼメキスの言によれば、アメリカ60年代の暗黒的歴史を殊更意識して抹消無視しようとしたわけではなく、映画の要素として描く必要性を感じなかったということのようだが。エンターテインメントとして映画を制作する際に歴史的事実を何処まで映画的に変更することが許されるのか、町山智浩のこの著作は映画制作者のみならず、映画ファンに対しても考える契機を提示している。

 

 

 

『狼は天使の匂い』デイヴィッド・グーディス 真崎義博訳

                 (早川ポケットミステリ)

 

警察の手を逃れ、故郷のニューオーリンズからフィラデルフィアへと逃亡してきた青年ハートは、あまりの寒さに耐えかね、一着のオーヴァーコートを盗んだ。それが、ことの始まりだったのかもしれない。逃げ込んだ路地で彼が目にしたのは、銃弾を受けた瀕死の男だった。男を撃った連中に捕まり、彼らの隠れ家へ同行したハートは、いつしかプロの犯罪者たちが立案した強盗計画に加わり、決行の日を待つことに。だが一味の女と関係を持ったときから、運命はあらぬ方向へと転がり始めた!

ルネ・クレマン監督が映画化した、ノワール小説の伝説的名作。

<著者紹介>1917年フィラデルフィア生まれ。広告業界で働いた後、作家となった。多くの作品が映画化され、自身も脚本を手掛けている。犯罪小説の名手として今日でも根強い人気を持つ。1967年没。(あらすじ、著者紹介共裏表紙紹介文より)

 

感想)作品の冒頭からリアリティを著しく欠き、地の文も会話も主人公の内面を表現するモノローグも安物のノワール小説のように感じられる。夜の町で犯罪者仲間から銃撃され倒れている男に出くわした主人公(高級オーヴァーコートを盗んで逃げてきた)のシーンは次のように描写されている。

「やがて彼は断末魔の声を上げはじめたが、その声にことばをのせようとしていた。ハートはそれを聞き取ろうとからだを屈めた。「――ポケット――財布――してくれ――やつらが狙っている――やつらに渡したくない――頼む――ああ、ちくしょう、痛い、痛い――さあ、財布を取ってここを離れろ、自分がかわいかったら警察には届けるな、誰にも言うな、財布を取るんだ、金を抜いて財布を捨てろ、燃やしたほうがいい、そうだ、燃やすんだ――さあ取れ――いますぐに――女房にダイアの指輪を買ってやれ――年取ったおふくろに家を買ってやれ――おまえには車を――」断末魔状態の男が、今会ったばかりの見ず知らずの男に、ベラベラとこんな言葉をかけたりするものだろうか。パルプフィクション作家の習作か書き飛ばしのように感じると言っては言い過ぎか。犯罪組織の一員になってしまった主人公は組織のボスの女と関係を持ってしまう。ボスは性的不能者で主人公と女の関係に対してはある諦念も感じられる。組織にはもう一人別の女がいて、主人公はそちらの女に惹かれて三角関係のようになり、ボスを含めた4人の心理描写を試みているが、当然純文学作品に見られるような心理のきめ細やかな描写はない。ラスト近く豪邸へ乗り込む場面でもややショボイ結末が待っている。ルネ・クレマンの映画化作品は一部で高い評価を受けているようだ(未見)。

映画化にあたり、クレマンが原作のラストを改変(脚本はセバスチャン・ジャプリゾ)したのは賢明だったかも知れない。

 

 

 

『ピアニストを撃て』デイヴィッド・グーディス 真崎義博訳

                 (早川ポケットミステリ)

 

指が愛おしそうに鍵盤を撫で、暖かく快い音がピアノからこぼれだす。場末の酒場に立ちこめるタバコの煙と酒の臭いのなかに、メロディが流れてゆく。男が一人、音楽を頼りによろよろとピアノへ向かってきた――長年会うことすらなかった兄が突然姿を見せたとき、しがないピアノ奏者エディの生活は急転した。兄を追って二人の男が現れ、エディはとっさの機転で兄を店外に逃がしてやる。だがそれがきっかけで、彼はギャングとのトラブル、そして自身の過去の傷と向き合うことに・・・・・・フランソワ・トリュフォー監督が映画化した、ノワールの名作!

<著者紹介>1917年フィラデルフィア生まれ。本国アメリカよりもフランスで高く評価されており、本書や『狼は天使の匂い』(1954年)をはじめ、多くの作品がフランスで映画化され、人気を得ている。1967年没(裏表紙紹介)

 

感想)『狼は天使の匂い』と同じデイヴィッド・グーディスの作品だが、こちらは格段に出来がいい。カーネギー・ホールでコンサートを4回行い、全米ツアー、ヨーロッパツアーでも大成功を収めたコンサート・ピアニスト、エディの成功の裏に隠されていた秘密。妻のテレサを失い、ピアノへの情熱も生きることへの執着も失ったエディの前に現れた一人の女。人は何によって生きる情熱を取り戻すのか。中盤から終盤にかけての街中や雪のシーンはジョルジュ・シムノンの心理小説を読むような素晴らしい文章力を感じさせる。トリュフォーの遊び心のある映画化も良かったが、デイヴィッド・グーディスの原作はそれ以上に素晴らしい。