最終感想『マルホランド・ドライブ』デヴィッド・リンチ監督 | レイモン大和屋の <シネ!ブラボー>

レイモン大和屋の <シネ!ブラボー>

映画感想、読書感想を備忘録として書いてます。
三浦しをん氏のエッセイを愛読しています。
記憶に残る映画と1本でも多く出会えることを願っています。

 

 

最初に投稿した記事は下書きのようなものだったので、最終版の感想を投稿(下書き投稿すみません。深謝)。

 

(ネタばれアリ。今後鑑賞予定のある方はご注意下さい)

 

『マルホランド・ドライブ』2001年

監督・脚本・デヴィッド・リンチ 撮影・ピーター・デミング

   音楽・アンジェロ・バダラメンティ

 

出演 ナオミ・ワッツ、ローラ・エレナ・ハリング

   アン・ミラー、ジャスティン・セロー、ロバート・

   フォスター、レベッカ・デル・リオ、マーク・ベルグリノ

   メリッサ・クライダー、メリッサ・ジョージ ほか。

  

 夜のマルホランド・ドライブ(ハリウッドに実在する自動車道路)を走る一台の黒い車、赤いテールライト。車が止まり後部座席に坐っている女性が「なぜ止まるの?」と運転手に問いただすとピストルを突きつけられ「降りろ」と命じられる。助手席の男が後部座席のドアを開けた瞬間猛スピードで突っ込んできた白の乗用車と衝突、白煙があがる中よろめきながら車を出てくる黒いドレス姿の女性。下を見ると遥かにハリウッドの夜景が展がっている。茂みを下りていくとサンセット大通りに出、前方から来た二人連れを見て庭先に身を隠す。その場で寝込んでしまった女性が朝目を覚ますと、その家の住人らしい女性が出てきてタクシーに乗り込む。黒のドレスの女性はその家に入り眠り込んでしまう。叔母の留守中にその家にやって来た女優志願の姪、ベティ(ナオミ・ワッツ)は浴室でシャワーを浴びている見知らぬ女性の存在に気付き驚く。

 

『マルホランド・ドライブ』は超難解映画として知られ、英国映画協会による『史上最高の映画100本』(2022年版)では第8位に選出されている。作品のテーマについて監督のデヴィッド・リンチは「テーマについては語らない主義。テーマを掲げた映画も勿論存在するがその場合も見る人によって受け取り方は違うだろう。自分に引きつけて主体的に探って欲しい。自分の感覚を信じていれば理解の扉は自然と開くはずだ」と語り(DVDインタビュー2002年 1月28日)映画公開時に公式サイトでストーリーを理解するための10のヒントをあげている。作品理解の手がかりになる10のヒントの中で既に解明されているものがある一方、まだ解明されない謎(複数の解釈があり正解があるわけではないが)も存在している。

 

今回3回鑑賞(過去に数回鑑賞済み)各種ブログ、YOUTUBE等による解説、新解釈を読んだり聴いたりした後、尚疑問が残る点(釈然としない箇所)があった。

(デヴィッド・リンチによる10のヒントについて興味ある方はWikipediaを御参照下さい)

 

老夫婦は何者?

オープニングのダンスシーンはベティ(ナオミ・ワッツ)が田舎のジルバのダンス大会で優勝したことを表すシーンと思われるが、そのシーンに現れる老カップル(白くぼけたような映像)は何者なのか?

各種ブログの解釈では、ベティの両親、または祖父母、親類という意見が多かった。根拠としてはベティをはさんで微笑んでいる映像になっているというもの。また、ベティとは直接的な関係を持たない世間一般の代表と考えている人もいた。ユニークな見解(YOUTUBEの某氏による新解釈)では、ダンスシーンは老夫婦(夫婦としておきます)が過去にジルバのダンス大会でベティ(2つの名前があるが便宜的にベティ)と同じように優勝したことを示唆したシーンという見解。両親、あるいは祖父母という解釈にすると、次のロサンゼルス(ハリウッド)到着後ベティと別れたあとのリムジン車内のあたかもベティを嘲笑したかのようなシーンが繋がらない。更にラスト近くではベティを狂気に追いつめる人物として登場する。老夫婦は一体何者?。

 

リンチの提示したヒントについては未解明な点も残されており、一般的な定説では第二幕までをベティの「夢」それ以後(ベティが17号室のベッドで目覚めるシーン。1時間56分あたりから)を現実と回想のシーンという解釈がおおむね支持されている模様。この定説?で十分理解可能だが、YOUTUBEの某氏による解釈は、『マルホランド・ドライブ』は『夢』や「現実」を描いた作品ではなく、「スピリチュアルなパラレルワールドを表現した作品」という説である。この説によれば「現実」のシーンとして描かれているのは冒頭のピンクのシーツの下ですすり泣くような、うなされているような(喘ぐような)シーンだけでそれ以後はスピリチュアルなパラレルワールドで起きている出来事なので時系列的には直線的に進行しているという見解になっている。

(一度聴いただけなので勘違いがあるかも知れません)

デヴィッド・リンチはこの作品が『サンセット大通り』のオマージュであり『ハリウッドのダークサイドを描いた」と語っている。さらに、「音楽のようにとらえて欲しい。音楽は抽象的で言葉では表現されにくいと思われ、一方で映画に対しては人々の見方が異なり音楽とは違うぶん分かり易い解説が求められる。理屈抜きで音楽を聴くのと同じで映画も理屈ぬきで体感してほしい。映画でも抽象的な表現が用いられるが、自分の直感や感性を働かせれば理解できるはずだ。見た時に自分が感じたことをもっと信用して欲しいと思う」と。

 

以下は最初の記事投稿後4度目の鑑賞をした後の感想及び確認、もしくは新たに気付いた事。(2023、1・22時点での『マルホランド・ドライブ』の解釈)

ただ、難しい解釈や考察をせずとも『マルホランド・ドライブ』は理屈抜きで楽しめ、テーマも伝わる作品。

 

1 時系列は回想シーン(幻覚と考えても)後戻りしているシーンもあり、必ずしも直線的な時系列ではない。

 

2 ベティと呼ばれる女性はナオミ・ワッツ以外にも2人登場している。(この2人もベティの分身と考えられる)

 

3 老夫婦は元ハリウッドの人気俳優又は映画関係者だった可能 性。(現在はハリウッドで高級リムジンに乗っている成功者)

 

4 ベティ(ダイアン・セルフィン)=リタ(カミーラ・ローズ/ダイアン・セルフィン)ダイアンの分身がカミーラ。

 

5 前半、ハリウッドの黒幕と思われる人物から部下を経由して最後にかけられた電話の相手は後半ダイアンの住んでいる17号室に住んでいた人物で、赤い電気スタンド(リンチの赤いランプに注目せよの赤いランプ)、四角い灰皿(吸殻多数)から推測すると殺し屋のジョーもしくはブラックリストを持っていたエドの可能性。

 

6 前半ウィンキーズというレストランで話していた二人の男のダンと呼ばれていた青年は後半のダイアンがジョーに殺しを依頼するシーンでレジに立ちダイアンを見ていることから、ダイアンにとって殺人の依頼を目撃された怯えを表現し、レストランの裏にいる顔が黒ずんだ浮浪者(ベティ=ダイアン自身が恐れている自分の将来、あるいはそうなってしまった自分自身)にとって抹殺したい人物と考えられる。ダンはレストランの裏に男がいて、その男は「夢の中でしか見たくない顔だ」と言っている。浮浪者の男(性別不明のような姿のダイアン)を見たダンはショックで倒れる。

 

7 同じく前半、ウィンキーズでダイアンという名札をつけていたウエイトレスは後半シーンではベティという名札をつけおり、これはベティ(ダイアン)やリタ(カミーラ)が以前このウィンキーズで働いていてベティとリタは同一人物ということを示唆しているのではないか。この時点でリタは自分がダイアンという名前だと思っている。ダイアンという名前の女性は現実ではナオミ・ワッツの方。ウィンキーズにあったものと同じ茶色のコーヒーカップがダイアンの部屋で、現実と思われる後半シーンにも出てくる。

 

8 後半の現実シーンで白いバスローブを着て茶色いコーヒーカップを手にしたダイアンがソファーの方へ進んで行くと(カメラは後ろから)ソファーに裸のカミーラがこちらを向いて微笑み、ダイアンがソファーをまたぐと、手に持っていたコーヒーカップがコップに変わり、テーブルには前のシーンで12号室の女が持って行ったピアノ型の灰皿が置かれ、時系列が前後している。

また、12号室の女はダイアンとは元レズの関係で一時カミーラと三人で生活し別れたという説がある。ダイアンとの関係がどこか険悪に見えるのでこの説は有力。

 

9 殺し屋のジョーが町で少し頭の弱そうな女(売春婦とする説あり)とする会話の中に

「新顔の女はいるか?」

「さあ、見ないわね」

「ブルネットは?ヨレヨレの、よく見といてくれよ」

「いいわ」

があり、このブルネット(黒髪に茶色が混ざった髪の色)はリタ(カミーラ)を指していて、黒幕の男が「女はまだ見つからない」と言っていることから、ジョーはこの黒幕の下で働く殺し屋であると推測される。また頭の弱そうな女性はベティと呼ばれていたことからベティ(ダイアン)の分身とも考えられる

 

10 映画が始まった時点で登場人物は全員死んでいる可能性。

(この作品がスピリチュアルなあるいは幻覚の世界の出来事である事を示唆)

 

オープニングのダンスシーンで白く亡霊のように浮かび上がるベティと老夫婦がその象徴(亡霊と見たのは私の勝手な想像)。

ラストでハリウッドの夜景を背景にして、ベティ(ダイアン)とリタ(カミーラ)がオープニングと同じように白く浮かび上がっている(ベティは自殺、カミーラは殺し屋のジョーに片づけられたことが青い鍵がダイアンの部屋に残されていたことで推察される。2人とも死んでいる)。

 

ラストで浮かび上がるカミーラが黒髪ではなく、ダイアンと同じブロンド(かつら)であることから、カミーラとダイアンは一心同体(分身)を表している。「クラブ・シレンシア」の魔術師の言葉「楽団はいません。すべて録音されているテープです。これらは何もかもまやかし(イリュージョン)です。」

(illusion 勘違い、錯覚すること、幻覚、幻影、まぼろし)

 

映画全体を幻覚だと考えれば、ラストに登場するホムンクルス(小人)の老夫婦もそれが等身大になり嬌声をあげ襲いかかるのもダイアンの幻覚として了解される。

 

カウボーイ姿の男がアダム(映画監督、カミーラの恋人)に向かって言う”人の態度はある程度その人間の人生を左右する。そう思わないか?。態度のデカい奴は考えたりしない。主役だけは君の好きなようにできない” これは暗示的な言葉で、ハリウッドで主役の決定権を持つのは監督ではなく、権力をもつある黒幕的な存在である事を匂わせた台詞である。カウボーイは善なるもの(その人間にとって現在ベストな選択)に導こうとする守護霊のようにも見え、死の世界への案内人のようにも見える。

 

既に各種ブログ等で言い尽くされて蛇足になってしまうが、この映画で見逃せないのが、赤、青、白い煙、黒のドレスなど色の要素。

、熱さ、強さ、情熱、興奮、、冷静、悲しみ、白い煙は、物質から精神領域にシフトしている段階で、肉体という物質的存在から魂(スピリチュアル)の解放と上昇、あなたを見守っている守護霊がいるということを暗示している。は「ハリウッド」の闇、前半シーンではリタの着ている黒や赤の服が目につき、青の箱や青の鍵、クラブ・シレンシアのシーンの青い雷鳴、舞台右に現れる青い髪の夫人。

 

ハリウッドという「夢の都」に憧れやって来た娘たちは、「夢の工場」で生産される製品(映画作品)の部品として使われ、摩耗して傷つき、夢破れ消えて行った無数の彼女たち(ウィンキーズで働いていたウエイトレスも恐らく女優志願者)への祈祷(シレンシア)の思いが込められていると感じられた。(最後に登場するのが青い髪の女性で「シレンシア(お静かに)」という台詞。

 

『マルホランドドライブ』で「ハリウッドのダークサイドを描きたい」と語っていたデヴィッド・リンチの試みは十二分に達成されたのではなかろうか。同一人物である夢の中に登場するベティと現実のダイアンの落差を見事に表現したナオミ・ワッツの驚嘆すべき演技力。

 

最後にテレビドラマシリーズのパイロット版として作られお蔵入り寸前だった本作を映画化で蘇らせてくれたプロデューサー、

アラン・サルドに感謝したい。

 

★★★★★(★5が満点)