2022 12月の読書記録Ⅱ『永井荷風』他 | レイモン大和屋の <シネ!ブラボー>

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映画感想、読書感想を備忘録として書いてます。
三浦しをん氏のエッセイを愛読しています。
記憶に残る映画と1本でも多く出会えることを願っています。

12月の読書記録(2022年)

 

 

『シェリ』 シドニー=ガブリエル・コレット 河野万里子訳                              

                   光文社古典新訳文庫

感想)主人公のレアは49歳の高級娼婦、恋人は24歳年下の青年。題名の『シェリ』は二十五歳の青年のほうである。シェリの母親も元高級娼婦でレアの同僚だった間柄で、レアはシェリがまだ子供だった頃から知っている。シェリは母親に甘やかされて育ったせいかマザコン気味で、レアにも母親的な甘えを持って接していたように思える。49歳という年齢を考えれば普通なら”おばさん”で、性的魅力は感じないのがノーマルな若者なのだろうが(シェリがレアと関係を結ぶのは19歳の頃)、レアは元高級娼婦だけあって知識や教養も兼ね備え、外見的にも肉体的にも魅力を保持している。10代の若者のシェリが40代半ば過ぎのレアの魅力から逃れない様がレアの側から精細な心理描写によって生き生きした息遣いで伝わってくる。自分の本心を中々明かそうとしないシェリへの謎めいた興味をレアも持っている。

<「彼女は待っていた。その人生で初めて、報われることなく。これまでは必ず手に入った若い恋人の信頼を、くつろぎを、告白、誠意、せっぱつまった心情の吐露を、待っていたのだ ―ーー青年がほとんど子供のような感謝の念に駆られて、もう涙をこらえようともせず、心にとどめていた秘密も恨みも、包容力のある大人の女性の熱い胸に残らず託してしまう深夜のあのひとときを、待っていたのだ。<どの男も、わたしはそうやって手に入れてきた>レアは粘り強く考える。<どれぐらい価値のある男か、何を考えて何を欲しているのか、わたしはいつだってわかった。なのにあの子は・・・・・・とても一筋縄ではいかない>

いまは体つきもがっしりして、十九歳という年齢に誇りを持ち、食事の席では陽気、ベッドでは性急だが、思いがけない一面などけっして見せようとせず、シェリはまるで高級娼婦のように謎に包まれている。>

男女の関係はそこに何らかの秘密めいたミステリアスなものがあるからこそ、トキメキが生まれる。知りすぎてしまったことの不幸は谷崎の『秘密』の主人公でも顕著。そして年月が経ることによって生まれる肉体的衰え、容色、容貌の変化。レアの美貌にもやがて翳りが見えてくる。『シェリ』の続編に『シェリの最後』という作品があり、その中でレアは60歳くらいの女性として登場するらしい。49歳だったレアはそこではまるで別人のように肥え太った女性として登場するという。男性の視線を意識しなくなったとき、女性は生涯初めての解放感を味わうのだろうか。それは幸福なのか、不幸なのか。

 

 

 

『永井荷風』 ちくま日本文学全集

 

収録作品  あめりか物語より 林間・落葉 ふらんす物語より ローン河のほとり・秋のちまた すみだ川・西遊日誌抄・日和下駄・墨東奇譚(墨はさんずい、きは糸へん)・花火・断腸亭日乗より

感想)永井荷風は二十四歳の時に渡米して、そこで娼婦のイデスという女性と知り合い深い関係になったあと、父の斡旋で憧れていたフランスに渡りリヨンの「正金銀行リヨン支店」に勤務することになるが、自分の性に合わない銀行業務や同僚たちとの関係に常に満たされないモヤモヤを感じていた。再びアメリカに戻りイデスとの関係に悩む所は同じくドイツに留学して踊り子のエリスとの関係に煩悶する森鴎外の『舞姫』に通じるものを感じた。荷風の晩年の生き方を非難する文学者もいる。昭和二十年(1945)三月の東京大空襲で「偏奇館」が焼けたあと各地に避難したり、岡山に疎開した後も罹災するなど60代半ばを過ぎてから苦労をしている。晩年を気の向くまま自由に生きた荷風が羨ましい。

 

 

 

『佐藤春夫』 ちくま日本文学全集

 

 

収録作品  蝗の大旅行・西班牙犬の家・李太白・お絹とその兄弟・美しき町・F・O・U のんしゃらん記録・別れざる妻に与えうる書・神絃記・殉情詩集(全)・殉情詩集序・同心草・我が一九二二年より ・秋刀魚の歌ほか 佐藤春夫詩集(補遺)より 背徳歌・狂人 車塵集

感想)佐藤春夫=詩人という認識だったが、この本に収録されている小説はどの作品も佐藤春夫の面目躍如と言えそうな作品ばかりで特に、『西班牙犬の家』は怪奇幻想的な(副題が夢見心地になることの好きな人々のための短篇)『のんしゃらん記録』はSF小説の傑作とも呼べるような作品で、佐藤春夫が「秋刀魚の歌」(~さんま、さんま、さんま苦いか塩つぱいか~)を書いた国民的詩人という自分の中の認識はあらためられた。詩『海辺の恋』は小椋佳の歌になっている。童謡のような詩に隠された不倫の恋(谷崎潤一郎夫人との)をうたったものらしい。

 

こぼれ松葉をかきあつめ  

をとめのごとき君なりき、

こぼれ松葉に火をはなち

わらべのごときわれなりき

 

佐藤春夫の詩が文学者の間や詩人もどきの批評家にどのような評価をされているかなんぞという事は私には全く興味がない。

 

 

 

 

『仁義なき戦い 菅原文太伝』 松田美智子著 新潮社

感想)菅原文太の評伝で著者(松田優作の元妻だった人)自身が直接菅原文太に会ってインタビューをしたという本ではない。

本の企画が通ったのが2017年の夏だったそうだ。(菅原文太が亡くなったのは2014年11月28日)

菅原文太を知る映画プロデューサーの吉田達、日下部五朗、文太と仲の良かった監督の中島貞夫、脚本家の高田宏治、俳優の梅宮辰夫ほか学生時代の友人や文太の付き人だった司裕介、菅田俊、宇梶剛士、文太夫人への直接的な取材インタビューもあるが、基本的には本、雑誌、新聞等の記事からの引用が多いため、もとになっている記事自体そのまま信じていいのかという疑問が少なからず残る。菅原文太の言動にはしばしば矛盾したところが見受けられる。しかしそれが人間であり、そもそも言行一致の人間なんてどこか胡散くさい。一番驚いたのは文太夫人の文子さんが立教大学文学科の卒業で、父が英米文学翻訳者として著名だった飯島淳秀だったこと。(『チャタレー夫人の恋人』(D・H・ロレンス)『雨の朝巴里に死す』(フィッツジェラルド)『大地』パール・バック)等を翻訳している)。文太より9歳年下で文太とは再婚だったが、卒業論文で伊藤静雄を取り上げ、論文が優秀と認められ卒業の翌年には堀辰雄の生涯と作品を描いた『堀辰雄人と作品』(福田清人編、飯島文(文子)、横田玲子共著)を出版するなど才女だったようだ。映画界ではつるむことを嫌い一匹狼的存在だった菅原文太には才媛の夫人が果たした力が大きかったように感じられた。『トラック野郎シリーズ』の同志的関係だった鈴木則文監督とはシリーズの継続をめぐって考えが分かれ、文太が出演を拒否したことで後年は決別状態だったようだ。そのことに関して鈴木監督は自身の著作『新トラック野郎風雲録』の中で次のように書いている<人間はお互いがいちばん必要な時に出会い、必要でなくなった時別れていく。それが人の世の宿命である>。

鈴木則文監督は菅原文太と同じ2014年5月15日に亡くなった。文太とコーブン(鈴木監督の愛称)名コンビの作品よ永遠に。文太のもう一人の戦友深作欣二との別れは深作の家族とともに看取ったそうだ。 菅原文太よ永遠に

 

 

 

『存在の耐えられない軽さ』 ミラン・クンデラ 西永良成訳

                      河出書房新社

 

感想)クンデラの母国であるチェコスロヴァキアの歴史的背景を知識として持つことは重要であろうが(特に1968年の「プラハの春」)この作品はそのような背景を抜きにして、人間(男と女)の実存的な生き物としての性(セックス)の問題を探索したものであり、実存としての人間を哲学的に考察する作品でもある。

<もし私たちの人生が毎秒毎秒かぎりない回数繰りかえされる運命にあるなら、イエス・キリストが十字架に釘づけされたように、私たちは永遠性に釘づけにされることになる。この思想は恐ろしい。永遠の回帰の世界では、どんな身振りもそれぞれ、とても耐えられない責任の重みを担うことになるのだ。だからこそニーチェは、永遠の回帰という思想はこのうえなく重い荷物だと言ったのである。もし永遠の回帰がこのうえなく重い荷物であるなら、それを背景として、私たちの人生はそっくり素晴らしい軽さを帯びて立ちあらわれてくるかもしれない。だが、本当に重さは恐ろしく、軽さは美しいのだろうか?>

訳者によれば、クンデラは小説を「さまざまな実験的自我(登場人物)を通して、実存のいくつかの重要な主題を徹底的に検証する」芸術だと定義している、ということだが、『存在の耐えられない軽さ』もまさに登場人物をさまざまな実験台にのせて、その反応を一瞬たりとも見逃すまいとするクンデラの人間に対する興味、探求心が生み出した作品のように思える。この作品は映画化されたが(鑑賞済みだが記憶はほとんど残っていない)クンデラはその時の不快な経験に懲りて以後自作の小説の映画化を一切拒否しているという。気になった箇所に付箋を貼ったが多すぎて(80箇所以上)収拾がつかなくなった。