『風の歌を聴け』『コンビニ人間』『格闘する者に○(マル)』他5月に読んだ本(Ⅳ) | レイモン大和屋の <シネ!ブラボー>

レイモン大和屋の <シネ!ブラボー>

映画感想、読書感想を備忘録として書いてます。
三浦しをん氏のエッセイを愛読しています。
記憶に残る映画と1本でも多く出会えることを願っています。

5月初めに図書館で借りた本10冊が返却期限までに読み切れなかったので、今回5月18日に借りるのは半分の5冊くらいにしようと思って図書館に行ったが、結局10冊借りてしまった。

文庫版の薄い本を多めに借りたので5日前に全冊読了、記事にするために再読(拾い読み)する必要があり返却まで5日あって余裕と思っていたら、拾い読みと言っても頭から読んでいかないと記憶も戻ってこないのでやっぱりしんどかった。

 

自分のための備忘録として文章を一部抜粋しています。

 

 

『風の歌を聴け』 村上春樹 (講談社文庫) 

 

<「完璧な文章などといったものは存在しない。完璧な絶望が存在しないようにね。」

僕が大学生のころ偶然に知り合ったある作家は僕に向ってそう言った。僕がその本当の意味を理解できたのはずっと後のことだったが、少なくともそれをある種の慰めとしてとることも可能であった。完璧な文章なんて存在しない、と。

しかし、それでもやはり何かを書くという段になると、いつも絶望的な気分に襲われることになった。僕に書くことのできる領域はあまりにも限られたものだったからだ。例えば象について何かが書けたとしても、象使いについては何も書けないかもしれない。そういうことだ。>

 

<僕にとって文章を書くのはひどく苦痛な作業である。一ヵ月かけて一行も書けないこともあれば、三日三晩書き続けた挙句それがみんな見当違いといったこともある。それにもかかわらず、文章を書くことは楽しい作業でもある。生きることの困難さに比べ、それに意味をつけるのはあまりにも簡単だからだ。十代の頃だろうか、僕はその事実に気がついて一週間ばかり口もきけないほど驚いたことがある。少し気を利かしさえすれば世界は僕の意のままになり、あらゆる価値は転換し、時は流れを変える・・・・・・そんな気がした。

それが落とし穴だと気づいたのは、不幸なことにずっと後だった。>

 

<もしあなたが芸術や文学を求めているのならギリシャ人の書いたものを読めばいい。真の芸術が生み出されるためには奴隷制度が必要不可欠だからだ。古代ギリシャ人がそうであったように、奴隷が畑を耕し、食事を作り、船を漕ぎ、そしてその間に市民は地中海の太陽の下で詩作に耽り、数学に取り組む。芸術とはそういったものだ。

夜中の3時に寝静まった台所の冷蔵庫を漁るような人間には、それだけの文章しか書くことはできない。

そして、それが僕だ。>

 

<僕は29歳になり、鼠は30歳になった。ちょっとした歳だ。「ジェイズ・バー」は道路拡張の際に改築され、すっかり小綺麗な店になってしまった。とはいってもジェイはあい変わらず毎日バケツ一杯の芋をむいてるし、常連客も昔の方が良かったねとブツブツ文句を言いながらもビールを飲み続けている。僕は結婚して、東京で暮らしている。僕と妻はサム・ペキンパーの映画が来るたびに映画館に行き、帰りには日比谷公園でビールを二本ずつ飲み、鳩にポップコーンをまいてやる。サム・ペキンパーの映画の中では僕は「ガルシアの首」が気に入ってるし、彼女は「コンボイ」が最高だと言う。ペキンパー以外の映画では、僕は「灰とダイヤモンド」が好きだし、彼女は「尼僧ヨアンナ」が好きだ。長く暮らしていると趣味でさえ似てくるのかもしれない。幸せか?と訊かれれば、だろうね、と答えるしかない。夢とは結局そういったものだからだ。

鼠はまだ小説を書き続けている。彼はその幾つかのコピーを毎年クリスマスに送ってくれる。昨年のは精神病院の食堂に勤めるコックの話で、一昨年のは「カラマーゾフの兄弟」を下敷きにしたコミック・バンドの話だった。あい変わらず彼の小説にはセックス・シーンはなく、登場人物は誰一人死なない。>

 

<左手の指が4本しかない女の子に、僕は二度と会えなかった。僕が、冬に街に帰った時、彼女はレコード屋をやめ、アパートを引き払っていた。そして人の洪水と時の流れの中に跡も残さずに消え去っていた。僕は夏になって街に戻ると、いつも彼女と歩いた同じ道を歩き、倉庫の石段に腰を下ろして一人で海を眺める。泣きたいと思う時にはきまって涙が出てこない。そういうものだ。>

 

<ニューヨークから巨大な棺桶のようなグレイハウンド・バスに乗り、オハイオ州のその小さな町に着いたのは朝の7時であった。僕以外にその町で下りた客は誰ひとり居なかった。町の外れの草原を越えたところに墓地はあった。町よりも広い墓地だ。僕の頭上では何羽もの雲雀がぐるぐると円を描きながら舞い唄(フライト・ソング)を唄っていた。たっぷり一時間かけて僕はハートフィールドの墓を捜し出した。まわりの草原で摘んだ埃っぽい野バラを捧げてから墓にむかって手を合わせ、腰を下ろして煙草を吸った。五月の柔らかな日ざしの下では、生も死も同じくらい安らかなように感じられた。僕は仰向けになって眼を閉じ、何時間も雲雀の唄を聴き続けた。

この小説はそういう場所から始まった。そして何処に辿り着いたのかは僕にもわからない。

「宇宙の複雑さに比べれば」とハートフィールドは言っている。「この我々の世界などミミズの脳味噌のようなものだ。」そうあってほしい、と僕も願っている。>

 

感想)1970年8月8日から8月26日までの18日間の出来事について大学の夏休みに神戸に帰省した<僕>の視点から描かれている。その前に、語り手(作者=村上春樹)が文章について多くの事を学んだというデレク・ハートフィールドというアメリカの作家について紹介している。あとがきにもこの作家について語っているので、村上春樹にとってこの作家はよほど大きな存在だったのだろう、と思っていたらこの作家は小説上の架空の人物であった。

この夏休みの18日間に僕は行きつけの<ジェイズ・バー>で鼠という友人に再会し語り合い、左手の小指がない女の子と出会い、昔寝た三人の女の子や高校時代の忘れてしまった思い出をラジオのリクエストから呼び起こされる。青春というカッコつきではあってもその時代、時間を通過した人間にとって生きた場所や形は違っていても、ある種の郷愁を伴ってあの季節が蘇ってくるのではあるまいか。そんな魅力がこの作品には通奏低音(あまりに通俗的だが)として作品全体を目に見えない膜のように覆っているように感じる。ある種の誰もが持っているノスタルジー、過ぎ去った日々への悔恨や思い出。それが一瞬の間に過ぎ去っていく、夏の18日間の出来事として描かれる故に儚さもひとしおである。<ジェイズ・バー>から鼠は姿を消し、左手の小指のない彼女ともいつしか連絡が途絶えてしまう。夏が終われば人は去り、人の心も変わってしまうのか。『スタンド・バイ・ミー』の少年たちのように、『八月の濡れた砂』の健一郎や清のように。

大森一樹監督で映画化された『風の歌を聴け』はどんな出来栄えだったろうか、余りにも昔に観たので正確な印象を言えないが、当時の記憶では満足できる出来ではなかったように記憶している。小林薫の僕、巻上公一の鼠、真行寺君枝の小指のない彼女はどうだったのだろう。この作品は、願わくは『ドライブ・マイ・カー』の濱口竜介監督でリメイクしてほしい。

 

 

 

『コンビニ人間』 村田沙耶香 (文春文庫)

 

<スマイルマート日色町駅前店がオープンしたのは、1998年5月1日、私が大学一年生のときだった。オープンする前、自分がこの店を見つけたときのことは、よく覚えている。大学に入ったばかりの頃、学校の行事で能を観に行き、友達がいなかった私は一人帰るうちに道を間違えたらしく、いつの間にか見覚えのないオフィス街に迷い込んだのだった。ふと気が付くと、人の気配がどこにもなかった。白くて綺麗なビルだらけの街は、画用紙で作った模型のような偽物じみた光景だった。まるでゴーストタウンのような、ビルだけの世界。日曜の昼間、街には私以外誰の気配もなかった。異世界に紛れ込んでしまったような感覚に襲われ、私は早足で地下鉄の駅を探して歩いた。やっと地下鉄の駅を探して歩いた。やっと地下鉄の標識を見つけてほっと走り寄った先で、真っ白なオフィスビルの一階が透明の水槽のようになっているのを発見した。>

 

<「この店ってほんと底辺のやつらばっかですよね。コンビニなんてどこでもそうですけど、旦那の収入だけじゃやっていけない主婦に、大した将来設計もないフリーター、大学生も、家庭教師みたいな割のいいバイトができない底辺学生ばっかりだし、あとは出稼ぎの外国人、ほんと、底辺ばっかりだ」「なるほど」

私みたいだ。人間っぽい言葉を発しているけれど、何も喋っていない。どうやら、白羽さんは「底辺」という言葉が好きみたいだった。この短い間に、4回も使っている。菅原さんが、「サボりたいだけなのに言い訳ばっかりやたらと口がまわって、そこがますますキモい」と言っていたことを思い出しながら、私は白羽さんの言葉に適当に頷いていた。

「白羽さんは、どうしてここで働き始めたんですか?」素朴な質問が浮かんだので聞いてみると、白羽さんは、「婚活ですよ」とこともなげに答えた。「へえー!」私は驚いて声をあげた。>

 

<「出ていくなら鍵はポストにお願いします」そう書置きを残し、私はいつも通り8時に店に着くよう出勤した。私の家にいるのは本意ではない、というような口ぶりだったのでもういないだろうと思ったが、帰ると、白羽さんはまだ部屋にいた。何をするでもなく、折り畳み式のテーブルに肘をついて、白ぶどうサイダーのヘコ缶を飲んでいる。「まだいたんですね」声をかけると、びくりと身体を揺らした。「はあ・・・・・・」「今日一日、妹からのメールが凄かったんです。妹が私に関することでこんなにはしゃいでいるのを初めて見ました」「そりゃあ、そうですよ。処女のまま中古になった女がいい歳してコンビニのアルバイトをしているより、男と同棲でもしてくれたほうがずっとまともだって妹さんも思ってるってことですよ」 きのうのまごついた様子はなくなっていて、いつもの白羽さんに戻っていた。「はあ、まともではないですか、やっぱり」「いいですか。ムラのためにならない人間には、プライバシーなんてないんです。皆、いくらだって土足で踏みこんでくるんですよ。結婚して子供を産むか、狩りに行って金を稼いでくるか、どちらかの形でムラに貢献しない人間はね、異端者なんですよ。だからムラの奴等はいくらだって干渉してくる」「はあ」「古倉さんも、もう少し自覚したほうがいいですよ。あんたなんて、はっきりいって底辺中の底辺で、もう子宮だって老化しているだろうし、性欲処理に使えるような風貌でもなく、かといって男並みに稼いでいるわけでもなく、それどころか社員でもない、アルバイト。はっきりいって、ムラからしたらお荷物でしかない、人間の屑ですよ」「なるほど。しかし、私はコンビニ以外では働けないんです。一応、やってみようとしたことはあるんですが、コンビニ店員という仮面しかかぶることができなかったんです。なので、それに文句を言われても困るんですが」「だから現代は機能不全世界なんですよ。生き方の多様性だなんだと綺麗ごとをほざいているわりに、結局縄文時代から何も変わってない。少子化が進んで、どんどん縄文に回帰している、生きづらい、どころではない。ムラにとっての役立たずは、生きていることを糾弾されるような世界になってきてるんですよ」 白羽さんは散々私に毒づいていたのに、今度は世界にたいして怒りを露わにしている。どっちに怒っているのかよくわからなかった。>

 

<18年間の勤務が幻だったかのように、あっけなく、私はコンビニ最後の日を迎えた。その日、私は朝の6時に店に行き、ずっとカメラの中を眺めていた。トゥアンくんはレジに慣れて、手早く缶コーヒーやサンドイッチをスキャンし、「領収書で」と言われても素早い手付きで操作している。本当はアルバイトは辞める一ヵ月前に言わなければならないが、事情があるというと二週間で辞めさせてくれた。私は二週間前のことを思いだした。「辞めさせてください」と言ったのに、店長はとてもうれしそうだった。「あ、ついに!? 白羽さんが男を見せたってこと!?」バイトが辞めていくのは困る、人手不足なんだから次を紹介して辞めてほしいといつも言っていた店長なのに、嬉しそうだった。いや、もう店長なんて人間はどこにもいないかもしれない。目の前にいるのは人間のオスで、自分と同じ生き物が繁殖することを望んでいる。突然辞めるひとはプロ意識に欠けるといつも憤っていた泉さんも、「きいたよー! よかったねー!」と祝福してくれた。私は制服を脱ぎ、名札を外して、店長に渡した。>

 

<私は、皆の脳が想像する普通の人間の形になっていく。皆の祝福が不気味だったが、「ありがとうございます」とだけ口にした。夕勤の女の子たちにも挨拶をして外に出た。外はまだ明るく、けれどコンビニは空からの光よりも強く光っていた。店員でなくなった自分がどうなるのか、私には想像もつかなかった。私は光る白い水槽のような店に一礼し、地下鉄の駅へと歩き始めた。>

 

感想)古倉恵子は子供の頃から自分は人とは違う人間らしい、自分が正しいと思ってとった行動もただただ大人たちを困惑させるだけであると気づき、必要な言葉以外はしゃべらず、自ら行動を起こすこともするまいと決心する。恵子にとって合理的で最善だったその処世術も高学年になると「あまりに静かすぎること」が問題視され、父の車で遠くの街までカウンセリングに連れていかれたりする。何とか中学、高校をやり過ごし大学生になるが、<ぼっち>であることに変わりはない。そんな恵子がある日たまたま見かけたコンビニの<オープニング店員募集>の貼り紙を見てコンビニ店員に応募する。そこは意外にも恵子にとって最高の<仮面>を被る自分が許された至福の「水槽」であった。そして初めて自分は世界の正常な部品になり、世界の歯車になり、そのことだけが自分を正常な人間にしていると自覚する。その「水槽」で、針金のハンガーのように痩せて骨に皮がこびりついたような30代半ばの、白羽という世をすねたような新人アルバイトに出会う。勤務態度が悪く、店に来た女性客をストーカーしている白羽は首を宣告され、行きがかりから恵子は白羽を自宅のアパートに泊めてやる。恵子に散々嫌味を言っていた白羽は自分で働こうとはせず、屁理屈をこねてアパートに居座る。しばらくして恵子も18年間働いたコンビニ店員から卒業するかと思われたが・・・。

世間の常識とは何か、その常識の根拠とは何か、人間社会(人間世界)の様々な矛盾を30代、独身女性、コンビニアルバイト店員に世間から貼り付けられる「こんな人だろう」「こんな女だろう」というレッテルの不条理をユーモアを込めて描き、上質のエンターテインメント作品になっている。余りに面白過ぎて、これが「芥川賞受賞作」かと疑がった。

 

 

『欲ばらないのがちょうどいい』 岸本葉子 (中公文庫)

 

感想)日常の何気ない出来事を肩肘はらずにサラッと笑えるエッセイに仕立て上げる筆者の文章センスはコーヒーブレイクに読むのにちょうどいい。

 

 

 

 

 

『格闘するものに〇(マル)』 三浦しをん (新潮文庫)

 

<授業がない五月のはじめのよく晴れたある日、私はアルバイト先の喫茶店に出かけた。最近勢力を伸ばしつつあるチェーン店の古本屋で仕入れた、『アルペンローゼ』をじっくり読もうと思ったからだ。マスターに窓際のいい席をあてがってもらって、コーヒーを飲みながら『アルペンローゼ』をめくる。そうそう、血のつながらない兄妹で、反ナチ運動が絡んでくるのよね。夢中で読んだ記憶がよみがえり、私は知らぬ間に集中していった。高校の時の友達は、髭をたくわえたオジサマの「将軍」が好きだったといい、私は彼女の幼いころからのオヤジ趣味をからかったものだ。それが今や、私もオジサマどころかおじいさんと交際してるもんなあ。しかしそこまで考えて、弟の言葉がまた思いだされた。私は捨てられたのだろうか? 普通は、若い娘の方がおじいさんを捨てて、若者と町を出たりするものではなかろうか。じいさん、だまされてたんだよ。あの娘は財産目当てだったのさ。ところが私の方が捨てられるとは、どういうことだ。ジジイめ、許せん。私の中ににわかに怒りと悔しさと哀しみが吹き上がり、今すぐに町内の西園寺さんの家に押しかけてやろうと決心した。>

 

<卒業論文の資料探しと銘打って、図書館の暗い書庫に朝からこもり、私は『東映任侠列伝』を眺めた。これは古本屋で八万円で売っているのを見かけた事もある豪華本だ。真っ赤な表紙に金箔でタイトルが書かれた恥ずかしいくらい大きな本である。仁侠映画のシリーズが名場面の写真入りですべて紹介され、なぜか巻末には「手打ち式次第」などまで説明されている。任侠スターの勇姿を、映画を思い出しながらじっくり堪能した。そういえば先輩で、卒業記念にと大学のパソコンルームのプリンターをこっそり持ち出して自分の物にしてしまったつわものがいたが、この『任侠列伝』を私の卒業記念にできないだろうか。鞄に入れるのはまず無理な大きさだから、とにかく抱えて盗難防止用の柵を飛び越えなければいけない。そして追いすがる図書館員を、『任侠列伝』で殴りつつ振り切って逃げる。こんな重い本で殴られたら首の骨ぐらい枯れ木のように折れるだろう。しかし生れてこのかた、百メートルを二十三秒以内で走れたためしがないのだ。屈強とも思えぬ図書館員たちだが、脚は私より速いだろう。何人も追って来たら、『任侠列伝』の猛威をくぐり抜けて私を捕まえる者も、一人ぐらいは出てくるはずだ。やはり卒業記念を大学からもらうには、度胸も体力も不足しているとあきらめて、私は棚に本を戻した。読書と悪だくみに熱中したあまり、昼を食べ損なったことに気づき、書庫から地上へと上がった。>

 

<太った男がモゾモゾと尻を浮かせてハンカチを取り出し、額の汗を拭った。なんだか彼は気疲れしているようだ。ちょっと可哀想になったし、こんなスカした男たちを怒鳴っても馬鹿らしいと思い、次の質問を待った。「本はどんなのを読んでいますか」 あくまで出版社らしい質問をしようと、太った男は心を砕いている。しょうがねぇなあこいつは、といった目でニヤけた男は彼を見て、今度はこの男が煙草を吸い出した。この野郎、いいかげんにしやがれと、私も自分の鞄に入っている煙草を点けて、奴の額でグリグリと消してやりたい誘惑にかられたが、汗を流しながら必死に面接の体裁を取り繕おうと努力している人間がいる。彼がいるかぎりは、私もその努力に誠意で報いることを放棄するわけにはいかない。「はい、日本の小説が多いです。最近では中田薔薇彦を読んでいます」「売れないなあ」 探偵小説界にその名を残し、孤独の中で真摯に自分の美的世界を表出しようとあがき続けた偉大な小説家を、横合いから口を挟んだニヤけた野郎は一言で片付けた。絵に描いたような俗物ぶりに、この人は面接においてそういうキャラクターを演じる役目を割り振られたのかなあと、真剣に考えてしまう。売れる売れないだけで物事を論じて、よくも出版社で働いていられるものだ。「御社から一冊だけ文庫が出ているはずですけれど」「はははー。未だに残ってんだ。すぐ絶版だろ。読んだことないけど」 そうだろうとも。今まで経験したことがないほどの軽蔑を覚えた。>

 

<丸川の一次面接は、穏やかに過ぎた。私も相手を試してみようと思っていたから、「好きな作家は?」と聞かれたら「中田薔薇彦」とどこの出版社でも答えて反応を見るようにしていたのだけれど、丸川の一次面接官は、「へえ。彼は短歌の編集者としてうちで働いていた人ですよ。今も若い人が読んでいるのは、嬉しいことですね」と言ってくれた。しかし二次の面接官は失礼な人物だった。「最近見た映画で面白かったものは?」と尋ねるから、「『吉成組外伝・はぐれ犬の系譜』です」と答えて、さらに問われるままに内容を説明した。すると面接官は、「フフン、楽しそうですね。働くと映画を見る時間もないんですよ。忙しくてねぇ。それが会社に入るってことなんだけどさあ」と言う。見た映画を聞かれたから答えたのに、なぜ私が責められなければならないのだ。>

 

<そろそろ夏になってもいい頃だが、雨はまだ降り続いていた。今年はいつまでも夏になってほしくない気分だったから、少し安心した。梅雨の間、私は西園寺さんに会い、喫茶店でマスターをからかい、大小の出版社を受けた。信じられないことに、私は丸川の筆記試験に受かり、一次面接にも二次面接にも受かり、なんと最終面接を受けて、今日はその結果待ちをしているところだった。最終面接に受かっていれば、いよいよラオゾー氏と一対一の社長面接である。そこまでいけば、丸川入社は間違いない。最終に残ったと聞いて、さすがの砂子も、「頑張ってね。絶対受かって、これから雑誌はただで頂戴ね」と真剣に応援してくれた。二木君も、「妙な映画作ってねー」と私に期待してくれているようだ。思えば長い道程だった。私は部屋から郵便受けを監視しながら、しみじみと感慨にふけった。誰からも就職には向いていないと言われ、自分でも内心そうではないかと感じていたが、そんなことはなかったのだ。漫画喫茶は週に一度で我慢し、弟の家出にもめげず、砂子の変なジンクス掛けにもひるまず、ついに私は念願の出版社入社まであと一歩と迫ったのだ!>

 

感想)大学4年生の可南子は出版業界に就職を希望している。数少ない友人の砂子と二木君は希望の職種すらまだ決まっていない。可南子は今日も漫画喫茶で5時間で18冊を読み、まずまずのペースと満足する。可南子には西園寺さんという多分65~70歳近い書道家の愛人?がいる。父と母は別居生活で可南子は義母と腹違いの弟と暮らしている。就職活動が始まり大手出版社のK談社や集A社の試験を受けるが撃沈、中小出版社の丸川を受け意外にも最終面接までこぎつけるが・・・。

三浦しをんのデビュー作品で自身の大学時代の就職活動経験を下敷きにしているので、主人公の可南子が就職活動で感じる違和感は三浦しをん自身が就職活動の中で感じた違和感とリンクしているはず。就職氷河期ということもあり、面接した出版社約20社は全滅だったようだ。三浦しをんはその原作になる映画化作品が同年代の作家に比べて、実際に調べたわけではないが、ずいぶん多いように感じる。『まほろ駅前多田便利軒』シリーズ、『神去るなあなあ日常』『舟を編む』『風が強く吹いている』等々。それは、その小説がある程度の大衆性を持ち、映画化するに足る作品として十分な魅力を持ち合わせている証でもあろう。三浦しをんの作家としての魅力は文庫版解説で重松清氏も書いているように、エッセイストとしての<おぬし何者>的比類なき面白さにもある。

 

 

 

 

『エオンタ / 自然の子供』 金井美恵子 (講談社文芸文庫)

 

<あの四つの残語がある。言葉の背後に拡がる意味を失った、自動的に唐突に語られる四つの言葉。それからPの肉体。Pにまつわるすべて、今やPは彼女にとってすべてであったかもしれない。四つの言葉は彼女の内部で限りなく変容して、無限の連鎖で彼女を取り囲むだろう。そして、Pの肉体は無限の連鎖の夜の中で生きつづけるだろう。永遠に失われた言葉として、多分、彼女はそれを自分の運命のように受け入れ、失われた言葉を見つめつづけ、Pの肉体を見つめつづけることになるだろう。彼女はそうした考えの中でPに近づこうとする。すべての時空に存在する無数のP、記憶と残された作品と、残された言葉と、現在のPの肉体と、沈黙とすべての彼に向って。>『エオンタ』

 

 

感想)ひとこと、頭痛がするような面白さ!

 

 

パソコンの状態が悪いため残りの感想は後日アップする予定です。