『ポルノ時代劇 忘八武士道』『日本侠客伝 昇り龍』他7月の映画鑑賞記録2020 | レイモン大和屋の <シネ!ブラボー>

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映画感想、読書感想を備忘録として書いてます。
三浦しをん氏のエッセイを愛読しています。
記憶に残る映画と1本でも多く出会えることを願っています。

 7月14日以降に観た映画の備忘録的感想と星取りです。粗筋は脳内再生したアバウトなものなので(信憑性はありません)、詳しくは専門的な映画サイトを参照されるようお願い致します。(星取りは☆5が満点) 

 

「男はつらいよ 望郷篇」(山田洋次監督・宮崎晃・山田洋次脚本1970年) シリーズ第5作。北海道で世話になったテキヤの親分が危篤と聞いて舎弟分の登(津坂匡章・現秋野太作)と札幌の病院を訪ねた寅次郎。瀕死の親分が一目会いたいという音信不通だった息子(松山省二)を訪ねるが、女遊びや博打で母を泣かせた親父とはとうの昔に縁が切れていると言われ追い返される。兄さんに地道な暮らしをして欲しいという妹のさくらや親分のみじめな最期を見た寅次郎は浦安の豆腐屋で働き始める。店はおかみさん(杉山とく子)と美容院で働く娘(長山藍子)の二人暮らし。娘に惚れた寅さんだったが、娘には国鉄(現・JR)に勤める恋人(井川比佐志)がいて・・・。思い込みで最後に振られるのはいつものパターンだが、地道な暮らしに目覚める寅さんが新鮮。さくらのアパートに札幌行きの列車代を無心に行き、「満男に飴玉でも買ってやんな」と過日(何作か前)さくらに手渡した5千円を貰い嬉々として飛び跳ねる寅さんと登が可笑しい。

あの当時二人5千円で札幌まで行けたのかな?(☆☆☆☆) 

 

「男はつらいよ 純情篇」(山田洋次監督・宮崎晃・山田洋次脚本1971年) シリーズ第6作。おばちゃんの遠縁にあたる夕子(若尾文子)が夫と別居して家出、”とらや”で働く事になった。柴又に帰ったばかりの寅次郎はおいちゃん、おばちゃんと揉めて”とらや”を飛び出すところで、買い物から帰って来た夕子にバッタリ。手のひらを返したようにそのまま”とらや”に居すわり、夕子の世話を焼く。美人で気品のある夕子にぞっこんなのは寅さんだけでなく、おいちゃんやタコ社長、近所のやぶ医者(松村達雄)も同じ。そんな折、博がタコ社長の印刷所を辞め独立するという話を聞いた寅さん、言いだしかねている博に代わりタコ社長に話を通すと請け合ったものの、今度はタコ社長に博さんを説得して欲しいと頼まれたことから一騒動。疑心暗鬼になり夕子と一緒に歩いていた午前様まで怪しむ寅さんが可笑しい。

若尾文子の美しさに見惚れる。(☆☆☆☆★) 

 

「男はつらいよ 奮闘篇」(山田洋次監督・朝間義隆・山田洋次脚本1971年) シリーズ第7作。旅先の沼津で少し頭の弱い娘(榊原るみ)に出会って世話をやく寅次郎。故郷の青森へ帰るという娘を駅まで見送るが心配になって、何かあったら柴又の”とらや”を尋ねるように言い含め、メモを渡してやった。数日後、”とらや”に電話すると件の娘が来ていると聞き飛んで帰る寅さん。娘は”とらや”で働く事になり、面倒を見ているうちに「寅さんとなら結婚してもええ」と言われその気になってしまう。そんな最中、娘の学校時代の恩師(田中邦衛)が訪ねてきて。

新人・榊原るみが好演。(☆☆☆☆) 

 

「日本侠客伝 関東篇」(マキノ雅弘監督・笠原和夫・野上龍雄・村尾昭脚本1965年) シリーズ第3作。関東大震災後、大正末期の築地の魚河岸市場。老舗の魚問屋・江戸一は父亡きあと娘のお栄(南田洋子)が妹(藤純子・現富司純子)たちと力を合わせ切り盛りしていたが、新興の協同組合理事長・郷田(天津敏)の暴力的なやり口に手を焼いていた。そんな折、風来坊の船乗り緒方(高倉健)がやって来て、お栄の店で働く事になった。天津敏の手下に山本麟一、関山耕司、遠藤辰雄など強面軍団。

一方に高倉健、鶴田浩二、長門裕之、北島三郎一派。郷田の悪辣なやり口に収まりがつかない寿司屋の北島三郎が郷田のもとに殴り込む。帰って来た侠客・鶴田浩二が北島の意思を受け、江戸一一派の窮地を健さんを知る漁労長(丹波哲郎)が救う。笠原和夫・野上龍雄・村尾昭の脚本の台詞の面白さとマキノ節の演出が相俟って「侠客伝シリーズ」でも出色の出来。(☆☆☆☆☆) 

 

「日本侠客伝 昇り龍」(山下耕作監督・笠原和夫脚本1970年) シリーズ第10作。前作「花と龍」に続き北九州若松が舞台。石炭荷役の<ごんぞう>たちの為に小頭組合の結成を呼び掛けていた玉井金五郎(高倉健)は慰安旅行に行った賭場の帰り道、組合の結成に反対する友田(天津敏)の一味に襲われる。

傷ついた玉井を救ったのは女賭博師で彫師のお京(藤純子・現富司純子)。賭場の勝負で負けたお京は玉井に一目惚れ、一世一代の彫り物を彫りたいと願い出る。お京の願いを聞き入れた玉井は傷も癒え、女房のマン(中村玉緒)が待つ若松に帰っていった。組合の結成に向かって動き始めた玉井らに友田一党が立ち塞がる。監督がマキノ雅弘から山下耕作監督に代わり、映画のムードが一変した印象を受ける。お京の玉井への恋やつれで荒んでいく姿、お京を思慕する伊吹吾郎、女房マンとお京の間で揺れ動く健さん。お京の命懸けの願いを聞き届けるどてら婆さん・島村ギン(荒木道子)。任侠映画でありながら愛のアラベスクのようにも見える山下「侠客伝」(☆☆☆☆) 

 

「ポルノ時代劇 忘八武士道」(石井輝男監督・佐治乾脚本1973年) 虚無的な無頼の浪人”明日死能”(丹波哲郎)は捕り手に追われた橋の上で、「もう、斬り飽きた。死んで行くのも地獄なら生きていたとてまた地獄」と言い残し、川に飛び込んだ。

女忘八者に助けられ、吉原一帯を取り仕切る忘八者・白首の袈裟蔵(伊吹吾郎)の仲間に入る。女と麻薬の酒池肉林に溺れた”死能”はやがて白首の頭領でもある吉原の総名主・大門四郎衛兵(遠藤辰雄・現遠藤太津朗)の裏切りで、黒鍬者と呼ばれる忍者(内田良平)に命を狙われる。ひし美ゆり子、相川圭子、池島ルリ子、一の瀬レナ、城恵美ら女優陣が裸の乱舞。石井輝男の映画美学が燃え盛る。(☆☆☆☆☆) 

 

「夏の終り」(熊切和嘉監督・宇治田隆史脚本2013年)

 瀬戸内寂聴の実体験を基に書かれた小説が原作。妻がいる年上の小説家(小林薫)と年下の青年(綾野剛)の間で揺れ動き、葛藤する満島ひかり。形こそ違え、今まで何度となく繰り返された内容のように思えるが、作り手の新しい解釈やアプローチは感じられず想定範囲を超えない内容で新鮮味がない。かつて「鬼畜大宴会」「青春☆金属バット」「ノン子36歳(家事手伝い)」「海炭市叙景」など予想できない狂気を孕んでいた熊切和嘉の作品が、一定水準の演出技術さえあれば誰でも作れそうな映画でしかなかったのは熊切監督のファンとしては寂しい限り。(☆☆☆★) 

 

「ポンチョに夜明けの風はらませて」(廣原暁監督・大浦光太・廣原暁脚本2017年) 高校の卒業式を数日後に控えた3人の仲間たちが親の車を拝借してドライブに出かけ、たまたま出会ったイカレたアイドル(佐津川愛美)や風俗店を逃げ出した風俗嬢(阿部純子)を乗せ目的も無く走り続け、海岸でドンチャン騒ぎをして一夜を明かす。朝になると女たちは車にメッセージを残して消え、残された3人は途方に暮れる。映画の流れから判断すると作り手はファンタジーとしてこの映画を作っているようにも見えるが、「ナック」(リチャード・レスター)のような映画を作るには才能不足。一見荒唐無稽な映画でも感情面のリアリティはきっちり押さえて欲しい。原作(早見和真)がどうなっているのか分からないが、又八(太賀・現仲野太賀)と母親(西田尚美)を中心にストーリーを組み立てていれば違った映画になっただろうし、染谷将太を加えた4人を中心にした話にも出来たはず。

若手で演技力もある佐津川愛美や阿部純子を活かしきれていない。この作品にはクラウドファンディングに参加していて、エンドクレジットに自分の名前が出たのは嬉しいが、この内容では素直に喜べない。脚本段階でもっと練って欲しかった。残念。(☆☆☆) 

 

「名前」(戸田彬弘監督・守口悠介脚本2018年)

 経営していた会社が倒産し色々な偽名を使って生きている男・中村(津田寛治)と父の居所を探してやって来た高校生・笑子(駒井蓮)のハートフルな物語。主人公(津田寛治)が本名の中村正男ではなくアルバイト先や知人に吉川や石井や久保という偽名を使う理由に説得力がないのが惜しい。久保という偽名でアルバイトをしている中村の前に正体が分からない女子高生笑子が現れた後、中村の章と笑子の章に分かれ最後に一つに繋がる構成。中村の章は別れた妻に未練を残し彷徨う男の話で、笑子の章は母から死んだと聞かされていた父が生きていると思い込み、高校生活で自己のアイデンティティを探して彷徨う女子高校生の話。結びつかない話を無理に一つに合体させようとした為ちぐはぐな印象。茨城県在住の作家道尾秀介に原案を依頼して作り上げた、守谷市、取手近郊を舞台にした一種の<ふるさと映画>。

津田寛治と筒井真理子の同窓会シーンは見もの。(☆☆☆★) 

 

「雪の轍」(ヌリ・ビルゲ・ジェイラン監督2014年)

カンヌ国際映画祭パルムドール受賞作。チェーホフの「妻」が原案。トルコの世界遺産、カッパドキアにある洞窟ホテル。経営者のアイドゥンは元舞台俳優で、出戻りの妹・ネジラ、若く美しい妻・ニハルと生活している。妹は口うるさい皮肉屋でアイドゥンの神経を逆撫でする。美しい妻ニハルは自尊心を満足させるためか慈善事業に精を出している。アイドゥンは父の残した莫大な財産で生活に不自由はなくホテル経営の実務や家の賃貸管理を他の人間に任せ、地方新聞にコラムを書いたりしているが妹のネジラは兄の書いている事は上っ面で意味がないとけなす。アイドゥンとネジラの意見はどこまで行っても平行線で噛み合わず、慈善事業に熱心な妻ニハルとアイドゥンの考えも平行線。アイドゥンとニハルに生活の心配は無く、現実の煩わしさや有り余る時間を埋め自尊心を満足させる行為が新聞へコラムを書く事であり慈善事業であったりする。一方で、生活苦から家賃を滞納している宗教家の家族や慈善事業に情熱を燃やす貧しい独身男の厳しい現実も描かれる。富める者と貧しい者にも互いの考えや言い分があり、富める者の貧者への善意も時には地獄への道に繋がりかねない。監督のヌリ・ビルゲ・ジェイランは「登場人物を通して、人間の魂の暗部を探索したかった」と語っている。その意味では成功作に違いないが、一生活者の視点で見るとある種の醒めた感情も湧いてくる。自分の主張を押し通してイスタンブールに行くよりも若く美しい妻の側にいることを選んだアイドゥンはプライドを捨て、妹のネジラの意見も受け入れて自尊心を捨て去り、自分自身に正直になったと言うべきだろうか。(☆☆☆☆)