司法制度改革前、司法試験合格者は約500人で、弁護士は1万数千人で安定していた。平成元年は13,541人、平成10年16,305人であったが、現在は37,596人(2016年11月1日付)である。あと2~3年で4万人に達する。司法書士の人数も年々増加しており、2016年4月1日時点で22,013人である。10年前に比較して約1.3倍に増加している。弁理士も2000年に比較すると約2倍に増加している。社会保険労務士も2006年に3万人を超え、現在は4万人に達する。

 

司法制度改革は、欧米に比較して日本は弁護士の数が少ないという観点に基づく改革だったが、法律資格が欧米のように弁護士に一元化している国と、多様な法律職がある日本と安易に比較したのがそもそもの誤りだった。司法制度改革は、司法試験の改革だけではなく、他の法律資格の整理もあわせて行うべきだった。司法制度改革を推進した学者は法科大学院教育の推進による法学者の権威の復活、文科省は法科大学院設置による利権の拡大、日弁連は法律サービスの拡充と弱者救済、経済界は弁護士増加による弁護士費用の削減をそれぞれ目論見んでいて、見事な同床異夢だったが、単に司法試験合格者を増やしたことは、士業間の争いを招き、法律資格全体を凋落の方向に向かわせている。しかし、この凋落は法律家側の視点であり、企業や一般消費者からすれば、法律サービスが安く手軽に受けられるのでメリットである。

 

【日本の法曹及び隣接法曹】
弁護士、司法書士、土地家屋調査士、税理士、弁理士、社会保険労務士、行政書士、海事代理士

 

上記の法曹及び隣接法曹の士業のうち、製図が試験科目の土地家屋調査士と、理系の知識が求められる弁理士、簿記・会計知識が必要な税理士を除いた、弁護士・司法書士・社会保険労務士・行政書士・海事代理士は1つにまとめられるだろう。それらの資格を廃止し法曹一元化すれば、年間3000人合格であっても、現在ほどの弁護士の凋落を招かなかっただろう。難関だった時代に弁護士になった人からすれば、試験の難易度低下は心情的に受け入れられないだろうが、米国の場合、ロースクール入学時点で選別されているとはいえ、ワシントン州の司法試験の合格率は75%、ニューヨーク州も65~70%、カリフォルニア州もおよそ半分が合格する試験である。

 

とはいえ、日本では法律資格が認定団体も異なるので、省庁間の利権問題もあり、実質的には実行不可能である。それにしても、司法制度改革では、弁護士が増えれば、企業法務部において採用が増えるだろうと予測されたが、実際には思ったほどに増えていない。というのも、企業からすれば専門性が高く配置転換できない弁護士を雇うのはデメリットが大きい。弁護士は独立してしまう確率も高いので採用コストをかけて雇っても数年で消える可能性が高く、高い給与をかけて雇うより外部の弁護士と顧問契約を結んで必要な場合だけ利用するのがコスト的に合理的なのである。それに、司法試験に合格しているからといって営業部と折衝しながら契約書を作成する能力が高いとは限らない。社会性の問題で企業組織に向かない弁護士が多いのも事実であろう。それに景表法違反を起こして消費者庁から命令を受けた「アディーレ法律事務所」もあるように、弁護士は司法試験で出題される法律には詳しいのだろうが、企業法務に必要な法律に詳しいとは限らない。高度な会社法の解釈の問題など、日本のほとんどの企業では不要な知識だ。景表法や古物登録などに関して弁護士確認しても「消費者庁に確認しました」「警視庁に確認しました」と連絡が来るのが落ちだ。日本は行政サービスが充実しているので、弁護士を介する必要性がない。商業登記も法務局が懇切親切に教えてくれる。企業法務をやってみるとわかるが、普段の業務からすると弁護士はかなりのオーバースペックである。高度な法律問題もあるが、毎日生じるわけではないので、訴訟などが生じた場合に都度、その分野で有名な弁護士先生に頼むのが合理的なのだ。

 

行政書士は合格しても登録しない人が多い資格の筆頭だろう。県庁行った友達や会社の同僚も登録していない。専業で行政書士だと食っていくのが大変だし、登録だけしたくても登録料が高いのだ。一応持っておけば企業法務部の就活の際にアピール材料にはなるかもしれない。その点からいえば行政書士は企業法務向けの国家資格に意義替えしてみたら良いかもしれない。

 

2050年には日本は人口が1億人をほぼ確実に割っている。刑事事件・交通事故も減り続け、法曹が必要な市場は縮小する一方である。全裁判所の全新受事件の推移をみると、2003年がピークで6,070,201件で、2015年は3,529,977件である。過払いバブルだったこともあるが、ここ5年でみても減少し続けており、平成23年を100とした場合、平成27年の全裁判所の全新受事件は86.9である。ここまで縮小が顕著な業界は他にあるまい。法律家の増加はこれからも続くので、業界としてジリ貧である。

 

平成28年の法科大学院入学者数はわずか1857人。2000人の司法試験合格者数の目標は達成不可能だ。予備試験合格者も年々増えているので、法科大学院進学のメリットはない。制法科大学院の廃止は個人的な予測では2020年には決定がなされるだろう。その頃、隣接法曹のあり方も含めて再度司法制度の議論が起きると思われる。

先日、仕事帰りに「ファンタスティック・ビーストと魔法使いの旅」を鑑賞してきた。まず衝撃だったのが、TOHOシネマズのIMAXのクオリティ。本当に立体的で、現実を観ているのとほぼ変わらないクオリティ。

 

ハリーポッターの通ったホグワーツ魔法学校の教科書の1つ「幻の動物とその生息地」の編纂者のニュートが主人公。しかし、ハリーポッターの設定を承継しているとはいえ、時代も違えば(本作は1926年が舞台)、国も違うので、ハリーポッターにあったファンタジー性は弱い。

だが、全体としてはかなり楽しめた。時代の考証も力を入れており、服装等から米国の「狂騒の20年代」を感じられる。特にCG技術が素晴らしく、IMAXの3Dとあいまって魔法が現実に存在するかのよう。主人公のニュートを演じたエディレッド・メインも良い味を出している。他の配役も演技派をそろえてかなり良い。

 

ただ、「新セーレム救世軍」のクリーデンスの下りは異常に重く、ストーリーのバランスは失していると思う。ハリーポッターシリーズも1・2作目までは子供向けの魔法ファンタジーだったが、監督交代により3作目で突如暗く重い色彩に変調するが、今回の作品は魔法ファンタジーのポップさと重々しい社会風刺が混在していてその差が極端で、観ていて若干の困惑を覚える。少なくとも子供向きでは決してない。

 

ファンタスティック・ビーストはすでに全5作と公表されている。「新セーレム救世軍」のクリーデンスは、ヴォルデモートのような設定で登場するのだろう。あと4作の展開が楽しみである。興味があるのであれば観て損だと思うことはないだろう。

 

 

積読していた本をやっと読了。イザヤ・ベンダサンというユダヤ人が書いた本という設定だが、実際は山本七平と言われている。彼は、文藝春秋読者賞菊池寛賞を受賞した評論家で、大平内閣では諮問機関の議長・中曽根内閣では審議会の委員も歴任し、戦後の保守系の論壇で活躍した。彼の思想は「山本学」ともいわれ、現在でも読み継がれている。彼の『「空気」の研究』は、日本社会を支配する”空気”を分析した名著で、ルース・ベネディクトの「菊と刀」などとともに日本人論として言及される機会が多い。

 

なぜ偽名で書いたかといえば、彼は自己の経営する出版社から本書を出しており、そんなに売れるはずがないと、軽い気持ちだったのだろう。しかし、これが300万部の大ベストセラーになってしまい、後戻りができなくなったのだろう。だから、彼はイザヤ・ベンダサンが自身とは認めていない。300万部のベストセラーとはいえ、内容は結構難解なので、スノビズムによる購入がほとんどだろう。私も長々しい引用は読み飛ばしている。

 

内容に関しても山本氏の作り話と思われる箇所があり、キリスト教理解も粗が多いと批判されているが、しかし、それでも本書の記す日本人論は説得力があり、今日においても古さを感じない。山本氏の日本人論の基礎となっているのは、戦争体験だという。彼は当時としては珍しいクリスチャンのインテリ家庭に生まれ、メソジスト派の青山学院の学んだあと、戦争中故にいきなり戦場にいくことになる。彼としては戦場で、いままで会ったことがないような日本人らしい日本人と会ったことは、彼にとってコペルニクス的転回だったろう。

 

彼は日本人は「ユーラシア大陸から少し離れた箱庭のような別荘で何の苦労もなく育った青年」といい、ユダヤ人は「ユーラシアとアフリカをつなぐハイウェイに、裸のままほうり出された子供」という。日本人が体験した戦国時代など、ユダヤ人からすれば歴史書にも書かれないであろう日常程度のものだったという。それが国際システムに巻き込まれた世界大戦で日本は荒廃し、戦争を異常に忌避することとなる。日本人の感覚が世界とかけ離れたものになるのは致し方がないのである。「日本では平和と水は空気のようなものだ」というような表現があるが、元ネタは本書だろうか。

 

日本人は、仲が良ければ隠し事はしないというモラルがあるが、ユダヤ人にはない。家族にも重要なことは隠す。なぜなら、ゲットーに暴徒が乱入し、乱暴を受けて金目のものをどこに隠したのかと聞かれ、家族の持つ貴重品の在り処も知っていたら、恐怖故に話してしまうだろう。これはユダヤ人にとっては死活問題だ。重要なことは秘匿することが合理的なのだ。「なんで言ってくれなかったの、水臭いじゃない」という日本人の発想とは到底相いれない。

 

本書での言及で興味深いのは「日本教」というものだ。日本は無神論が多いというが、「宗教」ともいえるものは日本に厳と存在している。キリスト教などの一神教では神が重要な地位を占めるが、日本教では「人」が重要な地位を占める。西洋における「神学」が、日本では「人間学」となるのである。一神教において人は神と対峙することを強いられるが、日本では隣り三軒と対峙させられる。人の顔色をうかがうのは村八分にされたら生けていけない「村社会」で成立した文化だが、これは日本の公立の学校教育を通して現代にも受け継がれている。学校のクラスには全員一致の空気が漂い、体育祭等では一致団結の精神が尊ばれる。これは島国の日本人という同じ文化・人種間でしか成立しえない ― いくらグローバリズムを叫んでも、同質社会に慣れきった日本人には多様性は理解不可能だ。

 

山本七平は一定の世代以上であれば誰も知っている評論家である。彼の博識さ(その理解の正確さはひとまずおいておいて)には恐れ入る。本書を読んでキリスト教や日本社会論への興味が再燃した。読書の秋だし、彼の他の著書も読んでみたいと思った。

 

はじめてリブログしてみる。蓮舫がテレビに出演したが、夫をペット以下に扱っており、炎上しておりネットニュースにもついに登場した。さらに、Twitterで飼猫の画像をあげたが、あまりにも気の毒な姿に批判が殺到中らしい。私も猫好きなのだが、蓮舫さんの飼猫はやせ細って、目ヤニもついておびえているような姿であまりにも気の毒で胸が痛む。獣医師の方によると、目ヤニなどは論外だが、「先端が後ろ向いてる耳」は「警戒・恐怖のサイン」という。華人の蓮舫からしたら猫は食料としかみてないのでは。こんな悲惨な画像を堂々とあげられる蓮舫さんの神経は異常だ。さらにそのペット以下の扱いを受けている旦那様が心配である。

 

蓮舫は、国籍法違反を行っていたが、動物愛護法第2条第2項によると「何人も、動物を取り扱う場合には、(中略)必要な健康の管理並びにその動物の種類、習性等を考慮した飼養又は保管を行うための環境の確保を行わなければならない。」とあるので、蓮舫さんはこれに違反している疑いが強い。動物虐待は違法行為である。いくつ法を犯せば気が済むのか。

 

蓮舫は、口達者で一見すると魅力的だが、国籍法違反をしておきながら嘘八百を並べて言い逃れる嘘つきで、夫を冷徹に扱い、ペットを非道に扱う。ちなみに、ロバート・D・ヘアによると「サイコパス」には次の傾向があるという。
・良心が異常に欠如している
・他者に冷淡で共感しない
・慢性的に平然と嘘をつく
・行動に対する責任が全く取れない
・罪悪感が皆無
・自尊心が過大で自己中心的
・口が達者で表面は魅力的

 

こんな蓮舫を代表に選んで”しまった”、民進党には、衰退の滅亡の将来しかない。

 

 

 

新垣隆といえば、佐村河内守のゴーストライターで一躍有名になった。このスキャンダルの際は、彼の作曲した音楽はもちろん、彼の曲を評価した音楽評論家までもが批判の対象となった。しかし、新垣氏は日本屈指の名門音楽大の桐朋音楽大卒で、彼の音楽自体は緻密で、旋律も美しく洗練されていて、名曲揃いである。玉川大教授の野本氏は、彼の曲を聴いて、「非常に緻密」、「1000年ぐらい前の音楽から現代に至るまでの音楽史上の様々な作品を知り尽くしていないと書けない作品」とテレビのインタビューで言っていたが、様々な作曲技法を知っている新垣氏がつくったのだから彼の指摘は正しい。さすがに許光俊の評論三枝成彰の評論は、無内容でどうかと思うが(まだ読めるが、いま読むとお笑い)。佐村河内守への違和感は、、音が聴こえない中で作曲したにしてはあまりにも精密で、いかにも出来過ぎている点にあり、野口剛夫などはそれに気が付いて、騒動の前から指摘していた。

 

私が彼を知ったのは、ゴーストライター騒動の後だったので、新垣氏の曲としてピアノソナタやシャコンヌを聴いたのだが、率直に「良い曲だ」と思った。だいたい歴史上の音楽家をみても、モーツァルトは、その高尚に聴こえる音楽とは違い、人としては下品だったと伝えられるわけで、音楽は作曲家の人間性とは切り離して聴くべきように思う。もちろん、曲に作曲家の人間性が反映されることもあるだろうが、曲から作曲家の人間性を推し量るのは、「逆は必ずしも真ならず」、論理的な誤りなのだ。

 

新垣氏はその後、飽きられて消えていくかと思いきや、意外とメディアへの露出が多く、ついに名門のDeccaから自己の名で交響曲を発売した。さっそく購入して聴いてみたのだが(私は交響曲にはあまり明るくないのだが)、なかなか良い。一緒にピアノ協奏曲「新生」も入っていたが、これもなかなか聞ける。しかし、正直、佐村河内氏のゴーストだった時の曲のほうが良かった。佐村河内氏は音楽の教育を受けていないので、コンセプトが素人にも分かりやすく、それをベースに新垣氏が作曲したため、聴きやすかったのだろう。その点において、私は佐村河内氏のプロデュース能力は低かったとは決して思わない ― 佐村河内氏の偽装を擁護する気は一切ない。音楽を聴いた私の率直な感想がそうなのだ。

 

佐村河内騒動を聞くとき、私はいつも下記の文章を思い出す。

 

それでも今なお音楽は、単なる使い捨て娯楽商品になりきってはいない。諸芸術の中で音楽だけが持つ一種宗教的なオーラは、いまだに消滅してはいない。カラオケに酔い、メロドラマ映画の主題歌に涙し、人気ピアニストが弾くショパンに夢見心地で浸り、あるいは少ししか聴衆のいない会場で現代音楽の不協和音に粛々と耳を傾ける時、人々は心のどこかで「聖なるもの」の降臨を待ち望んでいはしないだろうか?宗教を喪失した社会が生み出す感動中毒。神なき時代の宗教的カタルシスの代用品としての音楽の洪水。ここには現代人が抱えるさまざまな精神的危機の兆候が見え隠れしていると、私には思える。-- 岡田暁生 「西洋音楽史」p.230、中公新書(第14版)

 

音楽は進化の過程において生じた副次的な文化様式に過ぎず、そこに何らかの神秘性を見出したりすることが、そもそも筋違いなのかもしれない。無味乾燥とする社会への反発として生じたロマン派音楽の呪縛に、我々は縛られ過ぎているのかもしれない。