英教育誌「タイムズ・ハイヤー・エデュケーション(THE)」が発表する世界大学ランキングの日本版が3月30日に発表され、世界ランキング43位の東京大が1位、同201-205位の東北大が2位、同88位の京都大が3位という結果になった。THEを運営する「TES Global」とベネッセグループが共同で調査。協力を得られた大学は国内の435大学で、ランキングでは上位150校を公表した。日本版と世界ランキングの違いは、世界ランキングが研究力に焦点を当てているのに対して、日本版では学部教育に重点を置いている。具体的には、学生一人あたりの資金、教員数など教育リソースの比重が高く(38%)、これに高校教員の評判調査による教育満足度(26%)や企業人事や研究者の評判調査による教育成果(20%)、外国人の教員や学生の比率による国際性(16%)を加味した。-- 毎日新聞

 

THEの世界ランキングは、QSや上海交通大の発表する世界ランキングとともに世界の高等教育機関のレベルを示すランキングとして有名である。そこがこの度、世界大学ランキングの方式において、ベネッセと共同で日本版の大学ランキングを公表した。偏差値だけでははかれない教育力を示すという。

 

ただ世界ランキング方式のランキングがどの程度大学のレベルや実力を示すかについては、かなり疑問符を付けざるを得ない。例えば、国際性の分野で評価の高い上位をみると、正直入試レベルが高いとは思えない大学が散見される。留学生の多さは国際性ということで加点となっているが、実際には日本人にはレベルが低過ぎて見向きもされないから、経営のためにレベルを度外視して留学生を受け入れざるを得ない大学もあろう。低レベルな大学においては、留学生を不節操に受け入れて、その後不法滞在になっているケースも少なくないと聞く。問題は、留学生の多さではなく、留学生の質であろうが、質は評価されず、ただの割合だけが評価されている。国際性で評価が高い大学をみると、教育成果(人事や研究者間の評価)・教育リソース(学力・論文引用回数等)は評価がついていないところが多いが当然だ。

 

総合ランキングの17位に長岡技術科学大(二次試験:二教科偏差値42.5)がランクして話題になっているが、これは評価指標からすれば当然だ。例えば、論文の引用回数。これは文系の日本文学や法律学などは海外では引用されない。英語で論文を書けというが、日本の法律学を英語化など不可能だ。理系が有利なのは当然であろう。他にも、学生一人あたりの資金という項目も、お金のかかる理系、特に医療系学部があると一人あたりの資金は多くなるので評価が上がりやす。理系のみの会津大(23位)、豊橋技術科学大(37位)、秋田県立大(58位)が入試レベルの割に上位なのは上記の理由だ。この一方で、不利になりやすいのが、ドメスティックな学問である法学だろう。法学部は学問の性質上ドメスティックなので留学生比率は低くなりやすいので、法学部を主力学部として抱えている大学は不利だ。

 

他にも、東大に次ぐ入試レベルだが、文系のみの一橋大は、神戸大の・広島大よりも総合順位は下に甘んじている。他にも、学部構成の影響が大きく、医学部を有している山口大は41位、福井大は42位、山形大は43位にランクする一方、医学部がない静岡大は71位、茨城大は72位、文系学部のみの滋賀大に至ってはランク外になっている。滋賀大はランク外だが、医療・理系学部のある滋賀県立大は121-130位、滋賀医科大は131-140位にランクしている。学部構成の影響があまりにも大きいので、総合順位は大学のレベルを示しているとは到底言えない。

 

あと、極めて馬鹿馬鹿しい評価基準が、「教育満足度」である。教育満足度といいつつ、学生ではなく、高校教師への調査になっている。おまけに満足度の項目は、「グローバル人材育成の重視」、「入学後の能力伸長」の2項目。グローバル人材育成の重視と、教育満足度は全くイコールではない。入学後の能力伸長については、一体全体、高校教師が、数多い卒業生の能力伸長のどれだけを把握しているというのか。地元を離れた学生のその後など知らない教師が大半だろうし、地元贔屓にもなるだろう。こんな項目は無価値で無意味だ。しかも、これが評価基準の26%を占めているというからお笑いである。

 

というわけで、今回発表されたランキングをみる限り、正直あてにならないと思う。とはいえ、いろんなランキングがあって良いとは思う。偏差値だとか就職だけが大学の価値だけではないということだ。国際系の学部が、実力不相応にやたらともてはやされるのも、島国の日本が内向きにならないようにするには、致し方がないことかもしれない。しかし、もしランキングを発表するのであれば、単科大が多い日本の状況に配慮し、総合大と単科大は分けるべきだし、理系と文系によってランキングは分けるべきだし、もっと言えば社会科学・人文科学・理系・医療系の4パターンぐらいで分類すべきだろう。欧米より入試時の学力重視の日本においては学力試験の比重を増すべきだし、「教育満足度」の比重を下げて学生にも調査すべきだろう。他の教育機関もTHE以外のQSとかと合同で日本版ランキングを発表したら面白いだろう。

 NHKがビジネスホテル大手「東横イン」とグループ会社に未払い分の受信料の支払いを求めた訴訟の判決が29日、東京地裁であった。中吉徹郎裁判長は「放送法の定めに基づいて受信料契約を結ぶ義務がある」として、東横イン側にほぼ請求通りの総額約19億3千万円の支払いを命じた。 NHKによると、受信料を巡る訴訟の判決が支払いを命じた額としては過去最高。-- 日経新聞

 

東横インとNHKが争った訴訟で、NHKが勝利した。東横インは控訴の方針らしい。ただ、現行法上、放送法第64条「協会の放送を受信することのできる受信設備を設置した者は、協会とその放送の受信についての契約をしなければならない。」であるから、これを拒むのは難しいだろう。NHK不払いは、法解釈では限界がある。放送法という立法の問題なのだ。野党もNHKの既得権益にメスを入れれば票になると思うのだが、どういう政治力学なのか知らないが、なぜか手を付けない。しかしながら、法を逆手にとれば、NHKの放送を受信することのできない受信設備を開発するのも手だ。東芝は起死回生で、NHKが映らないテレビでも開発してはどうだろうか。もちろん、手っ取り早いのはテレビを捨てることだ。ネットで情報が手に入る時代にテレビは必需品ではない。

 

NHKへの支払い額は19億円だが、東横インの純利益は177億だから、純利益の1割以上が吹き飛ぶことになる。民業圧迫もいいところだ。NHK代は宿泊費に跳ね返るだろう。東横インはテレビ非設置の部屋を設け、テレビ付きの部屋とで、価格差を出したらどうだろう。いまどきテレビなんかより、Wi-Fi設備のほうが重要だ。

 

だいたいNHKは地上・衛生で4波もあり、無駄な電波が多い。海外ドラマを流したり、大リーグ等、公共放送でやる必要性に乏しい。不払い問題はスクランブル化すれば解決する。受信料を払わない世帯はNHKが視聴できないようにすればいいのだ。スクランブル化は技術的に簡単にできる。公共放送は災害の時の役割もあるが、災害の時はスクランブルは解除すればいい。公共放送を強調するなら、国営にするなり、必要の分を国庫補助すればいい。野田首相も国会で認めたように、NHK職員の待遇は国家公務員より恵まれている。なぜ東横インの職員、宿泊客、投資家の利益を犠牲にして、NHKの高待遇を維持しないといけないのか。おまけに国際放送での地位も絶望的に低く、NHKやBCCに比較すると影響力はゴミに等しい。NHKの高い受信料は、いかようにも正当化はできない。

 

新聞もオワコンだが、テレビのオワコンだ。もはやITに疎い情報弱者の高齢者向けメディアなので、世代交代とともに、凋落の一途だ。日本のテレビ番組の粗悪さは異常だ。ニュースもレベルが低過ぎる。最近は森友学園のニュースを同じような内容で延々と放送して、バカなコメンテーターがアホなコメントをする。森友学園のニュースは、毎日内容があまりに同じで再放送かと思った。夜はお笑いにスポーツ。若者がテレビをみないのは、コンテンツのレベルの低さゆえだろう。BCCとCNNを字幕放送すれば日本のリテラシーは上がるだろうか。日本のジャーナリズムはついに成熟しないまま、日本のメディアは衰退期に突入していく。

 

 

ブランド論として「ブランドの条件」などの本を読んだが、これはどちらかといえば、人文科学的視点である。よりビジネスの視点からブランド論のみてみたくて本書を読んでみた。著者はマーケティング会社を経てフリージャーナリストと活躍している三田村氏である。いまはタイに在住らしい。

 

現代日本でも最もメジャーなラグジュアリーブランドは、ルイ・ヴィトンだろう。本書が描かれたのが2004年なのでもう13年も前だが、当時はヴィトンの売り上げの3分の1は日本人が支えていたという。日本人女性の2人に1人がヴィトンを所有している計算になるほどの普及率だ。ここまで普及しているにも関わらずヴィトンのブランド力が落ちないのは、ヴィトンの戦略がとてもしたたかで徹底しているからだという。

 

本書によれば、日本人が欧州のブランドに目覚めたのはやはり海外旅行の自由化が発端らしい。貧しかった日本は旅行を通し、欧米のハイソなファッションに触れ、ハイブランドに憧れるようになるのだ。おまけに日本人は上流階級が存在しない総中流社会で誰しもがブランド品を身に着ける権利を持っており、ブランド品を持っていると後ろ指をさされない。こうしたブランド熱を煽ったのがファッション雑誌という。個人的にはそれ以前に、皆同列を志向する日本の全体主義・社会主義的学校教育が素地になるように思われる。日本人のヴィトン熱に、みんなが持っているブランドを私も持ちたいという同化志向と、一方で他の人とは違うという優越感志向が混在しているように思われる。

 

一方で日本のようなマーケットでは、集団にダサいと思われたら一巻の終わりという怖さもある。ナイロンのプラダのバッグはかつては一世を風靡したらしいが、今ではそれをオシャレという人はいないだろう。ダサいというコンセンサスが形成されたらブランドは終わりなのだ。その点、ヴィトンは微妙な綱渡りをしている。ここまで普及しながらハイブランドのイメージを維持しているのは奇跡ともいえる。

 

本書を読んで、「商社」のあり方は勉強になった。伊藤忠などの名門商社もブランドの仲介をしているが、やはり欧米ブランドからすると日本は未知の市場で、流通も良くわからない国で自社展開は怖いので、商社を使うのだという。日本にライセンス品が多いのも、日本市場を熟知した日本元来の企業に任せた方が安全だという欧米ブランドの打算である。とはいえ、昨今はブランド力の維持の目論見もあり、ライセンス品の展開の打ち切りが目立つ。三陽商会がバーバリーにライセンス契約を打ち切られたが、これはサンローランやカルダンの同じ轍である。

 

よく日本人は身の丈に合わないブランド品を持つと批判的に言われるが、一方で、身の丈に合わないブランド品を持っていてもおかしな目で見られない社会というのは、それはそれで幸福である。日本人は分かりやすいブランド品を好むという。学校教育を通し、無理に平等を押し付けられた人々が、自分はちょっとでも特別だと思いたいが故に、ブランドを買うのだと思う。他社に特別性を示すために分かりやすいブランドを買うのだ。日本人のブランド好きは、その反骨精神がその素地だろう。程度の問題はあれど、ヤンキーが分かりやすいヴィトンの財布を持っているのと同じ原理だ。著者は無邪気にブランドに群がれる社会がまだ健全だろうというが、たしかにそうかもしれない。貴族文化なき日本では、ブランドのもたらす夢や幻が迫真性を持ちうる。ハリボテのディズニーランドが日本で人気なのも同じ理由だろう。

 

 

この前、「ブランドの条件」の記事を書いたが、この本の続編にあたる「贅沢の条件」を読んだ。こちらはファッションの高級ブランドではなく、もっと一般的な「贅沢」に関するヨーロッパ史・ヨーロッパ文化学的な考察である。

 

日本だと贅沢というとお金を使うことと考える人が多い。ヴィトンなどの高級ブランドを身に着けて、高級なレストランで食事をする。こういうのが贅沢と言われるとそんな気もする。しかし、ヨーロッパでは事情が違う。贅沢というと、多くの人は、家族と長く時間を過ごせるとか、趣味に好きなだけ時間を費やすことを贅沢と考えるらしい。これはヨーロッパでは貴族社会が長く続いたためだという。貴族は労働してはならず、時間に追われずに好きにお金を散財しながらゆったり過ごすのだ。ヴェブレンはアメリカの上流層を、大富豪など呼ばず、あえて「有閑階級」と呼んだのは、有閑こそが名誉だったからだ。

 

カトリックでは、人間はエデンの園で働く必要がなく幸福に暮らしていたが、知恵の木の実を口にしたため、エデンの東においやられ、労働しなければならなくなったので、労働を悪とみなすのだ。ルターはこれを聖書を原文からドイツ語に翻訳の際に、誤訳したからプロテスタンティズムにおいては、労働こそが美徳となった。プロテスタンティズムの精神に始まる近代産業社会の登場によりタイムイズマネーの時代がはじまり、時間は経済的価値に換算され、閑暇が毛嫌いされるようになる。貴族的な「閑暇」と「優雅」は近代の幕開けとともに葬られ、「勤労」と「蓄財」の世紀が幕を開けるのだ。近代におきたのは「贅沢」から「富」への転換なのである。

 

日本は戦後、華族制が廃止され上流階級の文化はついに浸透しなかった。そもそも日本の華族は武家や明治維新の成り上がりが多く含まれ、欧米的な貴族とは性質が違う。日本で過労が美徳になっているのは、高度成長期に東北などの零細農家の次男坊・三男坊が棄民さながら東京に出て、そこから過労の末に成り上がった人が多く、それがサクセスストーリーとして存在しているからだろう。また、寝る間を惜しんで受験勉強をしてエリート大に入り一流企業に入社した人のサクセスストーリーが今日でも増産されている。しかし、彼らがいくら経済的に豊かでも、彼らに優雅さも贅沢さも感じられないのはなぜか。そして、社会人にもなって「予備校の模試で全国何位だった」と自慢してるのに哀れさすら感じ、これ見よがしに有名ブランド品で身を包んでいるのに貧乏くささを感じるのは、彼らが貴族文化なき日本の近代産業社会の申し子だからである。政府が労働環境の改革をしようとしているが、果たして日本において欧米のような余暇を尊ぶ意識改革ができるのだろうか。

 

興味深いのが、シャネルの話。シャネルというとラグジュアリーブランドの代名詞であるが、彼女の出自は貧しく、幼くして母を亡くし、父親も貧しい行商人で、父親に捨てられて修道院で育った。そんな貧乏な彼女は仕立て屋で働くようになり、そこの得意先の軍人を通して上流社会に接点を持つようになる。しかし、シャネルが感じたのは、コルセットで体を締め付け華美に着飾る上流社会への違和感と反感だった。そんな彼女は徹底的に動きやすくシンプルなデザインで、ファッション文化を塗り替えるのだ。シャネルの基調とする色は白と黒。これは修道院での色彩のない生活で育まれたのではないかという。修道院という無機質な世界で白と黒の世界観が育まれたのだ。そして、シャネルが贅沢な服に用いた生地が動きやすいジャージーだった。その当時、ジャージーは下着に使われるような生地だ。シャネルは19世紀の貴族のファッション文化の喪に付す傍らで、パラドックスとアイロニーに満ちたファッションをつくる。安物の生地で高価な服を作り、一日中働くシャネルが贅沢な服を仕立て、貧乏な出自のシャネルが上流階級のファッション文化を塗り替えるのだ。本書の著者は、シャネルはもはや「革命」だったという。

 

本書の最後に著者の旅行記のようなものがついているが、修道院がいまでは改装されて高級ホテルになっているというくだりは面白い。修道院は人里離れたところにたてられたが、いまではそれが絶景を望むホテルになるのだ。著者はこのあり様を禁欲と贅沢のパラドクスと呼ぶ。著者は、泊めてくれた民宿(といっても素晴らしくラグジュアリー)のマダムのオシャレで洗練された風体、プロヴァンスの農家を改装して別荘にするフランスのブームから、フランスの贅沢の伝統の一端を垣間見たという。ヨーロッパではアンティークを好む。アンティークに隠された歴史、風雪耐えた伝統を愛でるのが贅沢なのだ。

 

本書を通して欧州的な「贅沢」なるものの一端を知ることができた。特に著者の旅行の話は興味深い。私も学生の卒業旅行でフランスに旅行した際、モンサンミッシェルに行くバスの途中でパリの田舎町に寄ったのだが、雑貨屋の店の人に「なんで日本人はそんなにさっと観て次の場所へ移動するんだい?この美しい町でゆったりすればいいのに」と言われた。当時は効率的に多くの観光地をまわる方が良いと思っていたが、今言われてみると、私の感性はタイムイズマニーに支配されてしまっていたようだ。とはいったものの、今年の夏はタイに行くつもりだが、日本だと連休はそう長く取れないので、どうも時間におわれてしまう。贅沢の世界を垣間見つつも、私はしょせんは「時間の奴隷」、庶民なのだなぁと思ってしまった。とはいえ、本書では真の贅沢を知る人として、貧乏ながら精神面で贅沢を知っていた与謝野晶子を紹介している。せわしない東京に住んではいるが、精神面では贅沢を感じられる人になりたいものだ。経済合理性が支配するなか、芸術や音楽は、現代人に贅沢の精神を教えてくれる貴重なアイテムに思える。

この前はミュシャ展に行こうとして、混雑していたんでエルミタージュ展に行ったのだが、なんと今日もミュシャ展が大混雑。ネットで事前にチェックしたらチケット買うのに20分というので、
ミュシャってここまで人気だっけと思いつつ諦めて、「ナビ派展」(三菱一号館美術館)へ。三菱一号美術館は丸の内のビジネス街にある。こちらの建物、1968年に取り壊されていたが、2009年に当時のまま復元された。設計はかの有名なジョサイア・コンドルである。日本は経済成長が極端に早かったので、鹿鳴館や旧帝国ホテルの名建築は次々に破壊され、見事な日本橋の上には醜悪な高速道路がかけられてしまった。かつての日本の素晴らしき建築を復元した三菱はさすがである。
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ミュシャ展とは違いナビ派展は空いているので快適に鑑賞できた。「ナビ派」って何?という人が多いだろうが、ナビ派とは、1988年にセリュジュがゴーギャンに感銘を受け結成したグループで、19世紀末のパリで活躍した前衛的な美術家の集団である。作風などに統一的な画風があるわけではないので、あまり芸術グループとして知名度はないが、昨今再評価されつつあり、キュビズムなどの近代美術の素地を用意した重要なグループである。

 

今回気になった絵が、ポール・セリュジェ「タリスマン(護符)、愛の森を流れるアヴェン川」である。風景が大胆に単純化され、いくつかの色のセグメントに分類される。単純な図形と色への還元。これがキュビズムの源流だろうかと思わせる作品であった。ちょうどナビ派が生まれたその頃は、1827年に発明された写真機が大衆化しつつあり、写実的に描くという絵画の時代は終わり、絵画は、独自の芸術表現としてそのアイデンティティを求めていたのだ。それがさらによく出ているのがエドゥアール・ヴュイヤール「八角形の自画像」だ。八角形という自画像に不向きなかたちを選び、強烈な色彩で彩り、自画像を人物のただ外見を描くのではなく内面性すら感じられるものに昇華させている。

 

今回、勉強になったのだが、印象派絵画に決定的に欠如していたのが、目に見えないものを描写することだという。宗教・精神世界・夢・非現実的空想・秘教などの視覚的に捉えられない世界を描くことを、絵画に取り戻したのもナビ派の功績であろう。それをよく示すのが、音声ガイド最後の解説のポール・ランソン「黒猫と魔女」だ。19世紀末、世紀の終わりという不穏な雰囲気のもと、近代化という時代のうねりの中でブラヴァツキーにみられるように秘教が流行っていた。そうした不穏な時代の精神世界を垣間見せてくれる絵画である。

 

今回の展示会ではナビ派の様々な性格の絵画を章立てにしており非常に見やすい。あと、特別トラックで、レナルド・アーン「妙なるひととき」という曲が音声ガイドに収録されていたがなんとも素晴らしい歌曲である。歌詞はフランスのヴェルレーヌ(ディカプリオ主演の映画「太陽と月に背いて」に出てくるあのヴェルレーヌである)。レナルド・アーンは初めて知ったが、ベネズエラ出身(但し両親は欧米系)でパリで活躍した音楽家らしい。さすが三菱第一号美術館。音楽のセレクトも洒落ている。

 

三菱第一号美術館は大規模ではないが、こじんまりと絵画を楽しむにはうってつけである。やや玄人向けの展示会が多いので、人もそこまで混雑していないのでとても良い。今後も、見事な展示会を開催してくれるだろう。次の展示会が楽しみである。それにしてもミュシャ展はいつになったら空くのだろう・・・。6/5まで開催だから、5月ぐらいにはテレビの特集番組の効果も落ち着くだろうか・・・。