新宿のシネマカリテでやっているドキュメンタリーの「メットガラ」「作家、本当のJ.T.リロイ」が面白そうなのだが、どちらを観ようかと悩んだが、後者は時間が遅かったので、「メットガラ」を観てきた。

 

これはNYマンハッタンにある世界三大美術館のメトロポリタン美術館(通称「メット」)で開催されるファッションの展示会の「メットガラ」の裏側に迫ったドキュメンタリーである。一晩のオープニングのイベントには各界のセレブが集結し、収益はメトロポリタンの服飾部門の活動資金に充てられるらしい。ちなみに、オープニングイベントの席は、1席300万円近くにもなり、十数億円が集まるというから、さすがアメリカである。アメリカの美術館の圧倒的な活動力は、収益の潤沢さにある。

 

このイベントを取り仕切るのが、ヴォーグの編集長のアナ・ウィンター(「プラダを着た悪魔」のミランダ編集長のモデル)である。今回迫ったドキュメンタリーは「鏡の中の中国(China:Through The looking Glass)」だが、これを取り仕切るのが、メットのキュレーターのボルトン。中国がテーマなので中国映画監督の巨匠ウォン・カーウァイもアドバイザー(?)として協力している。

 

それにしても服飾品は美術館ではあまり展示されない。アートではないとみなされるためだ。もともと絵画は貴族の館を飾る装飾品に過ぎなかったが、これがフランス革命で貴族が断頭台に送られると、フランスの貴重な美術品が国外流出したため、それを防ぐためにパリの要塞にに集めて保管したのだ。これがルーブル美術館のはしりである。絵画・彫刻は貴族社会の終焉とともに、実用的性格を失い、”鑑賞される美術品”へと変貌するのだ。

 

その点、服飾品は実用的性格が強い。しかし、本映画でも言及されるが、コンセプトや、作製に必要な技術は、絵画に用いられるものとそう大差ない。それに、有名デザイナーのコレクションはひとたび展示されれば、人々の鑑賞に耐えうるものだろう。ファッションはその点ではアート的な性格も持っている。デザイナーのオートクチュールは人にまとわれれば実用品になり、ひとたび脱げばアートになる、そういうマージナルななものだと私は思う。

 

本作をみて興味深いのが、展覧会のコンセプト確定の困難さだ。デザイナーは中国をテーマにドレスをデザインしているが、それはデザイナーの持つイメージに過ぎない。ゴルチエが告白するように中国、韓国、日本は、西欧からすれば東洋と一括りである(もちろん、その逆もしかり)。東洋のイメージの押し付けになりがちなので(サイードが「オリエンタリズム」で1978年に指摘している)、これには最新の注意が必要だ。

 

中国の記者等が、なぜ展覧会では明朝の壺は出すのに、現代の中国アートは取り上げないのか、などと質問するシーンがあるが、ここらへんは中国の歴史の複雑性を物語っている。19世紀以降をみても、満州族の清王朝の崩壊から列強に脅かされた時代、中国共産党政府の確立、文化大革命による著しい文化の荒廃、鄧小平の改革開放後による中国の現代化、凄まじい激動の歴史だ。展覧会では人民服を展示するか否かで議論する場面もあるが、中国のファッション文化を語るのにコントラバーシャルにならないほうがおかしい。現代中国の知識人は、古い中国ではなく、いまの中国をみてほしいのだ。ウォン・カーウァイが、過去の蓄積から新しいものが生まれると主張するシーンがあるが、非常に説得的だ。ここらのやりとりは、ユーラシア大陸の端の島国でのんびり生きてた日本人には理解しがたい話かもしれない。

 

展覧会の裏側を知ることができる非常に良いドキュメンタリーで1時間半程度なので気軽に観れる。美術館、アート、ファッションあたりに興味があればオススメする。中国の近世史、サイードの「オリエンタリズム」がなんなのかぐらいは知ってから観た方がいいだろう。そうではないとキュレーターや中国側の懸念が理解できない。

 

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アナ・ウィンターのドキュメンタリー

 

混雑していると噂で避けていたミュシャ展に先日行ってきた。国立新美術館。行ってみると、入場の待ちはなく、単にチケットが行列なだけでした。オンラインチケットで購入すればチケットの行列に並ぶ必要性はない。会場内は確かに混んでいるが絵が大きいので鑑賞には問題無し。混雑しているので文字の説明文を読むのは大変なので、音声ガイドはあった方がベター。
 
ミュシャはチェコの有名な画家である。挿絵で有名だが、スラブ民族への誇りを持つ画家で、愛国者であった。本展示会のメインはなんといっても20枚からなるスラブ叙事詩。最大のもので6m×8mもある巨大な絵のシリーズである。スラブ民族の祖先の描写から、スラブ民族にとって重要な歴史の場面、フスの宗教改革の様子等が描かれている。しかし、この絵が完成したときにすでにチェコは独立し、また絵画では抽象画が流行していたため、時代遅れだと特に注目もされず最近まで忘れられていた絵画らしい。半世紀以上の時を経て、遠い日本でここまで人を集めるから芸術はやはり偉大だ。
 
それにしても意外なのがあの愛らしいアールヌーボーの挿絵画家のミュシャが、愛国者ゆえにナチスによって逮捕され、その後、激しい尋問故に体調を崩してこの世を去っていた事実には驚いた。ここまで民族主義的な画家とは知らなかった。音声ガイドでは、スメタナの「我が祖国」が流れていた。展示室の奥にスラブ叙事詩についての説明動画が流れていたが、その動画で流れていたのはドボルジャークの「スラブ舞曲第10番」。両者は日本で人気だが、このノスタルジックで哀愁のある旋律は日本人に馴染みやすい。音楽でも絵画でも、日本人には、スラブ的な要素を解する文化的土壌があるのだ。
 
下記は私が撮影したスラブ叙事詩の作品。もちろん、撮影許可あり。
 
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イヴァンチッツェのモラヴィア兄弟団学校

 

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ロシアの農奴制廃止

 

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聖アトス山

 

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スラヴ菩提樹の下で宣誓する青年たち (未完)

 

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スラヴ賛歌

 

まことに色彩が美しい。そして淡い。写真撮影が可能なものには宗教的なものがないが、個人的に非常に印象的だった絵は、「ペトル ヘルチツキー」。悪に悪で応戦してはいけない。宗教戦争において非暴力を訴えた中世の偉人のヘルチツキーの精神に胸を打たれた。苦難の多いスラブ民族の歴史だが、それが最後の「スラヴ賛歌」に集約する。ミュシャは、スラブ民族の歴史を4つの色で表現し、希望に包まれたこの作品でこのシリーズの幕を閉じた。ミュシャの「愛」と「叡智」のメッセージは、スラブ民族特有のものではなく、人類普遍のメッセージである。1世紀以上を経過し、スラブ叙事詩は再評価が進んでいるという。

 

ちなみに、スラブ叙事詩で特徴的なのは、こちらを見つめる人の存在だ。下記がその一例である。何か訴えかけるようなその瞳。何か意味深な表情。これは絵画に深淵さを与えるだけではなく、絵画の鑑賞者に歴史の重みを問いかけてくるようである。

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ミュシャ展を出て、気をみると何やら水玉模様になっている。何かと思えば草間弥生展を同時に開催していた。時間もあったので、こちらも鑑賞することにした。もちろん、掲載の写真はすべて撮影許可及び掲載許可がある。

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草間弥生は長野県松本市出身。裕福な家に生まれるも、家庭の問題、母親との確執もあり、精神に異常をきたし、幻覚・幻聴に悩まされる。しかし、それらから逃れるため絵画に没頭し、生きる希望を見出す。1957年に渡米し、前衛芸術の分野で注目を集め、2016年にはTIMEの選ぶ世界で最も影響力のある100人に選出されるまでになるのだ。

 

草間弥生の肉声が収録されているので、草間弥生展では音声ガイドを強くお勧めする。彼女のインタビューで印象的だったのは、海外に行きたいと熱望していたが、実際に渡米が決まった時、日本を捨てたのだという。そしてアメリカで大輪を咲かせ、彼女の才能は飛躍した。日本では彼女の奇行のみがクローズアップされゴシップ的に報道され、草間は大いに失望したという。草間の創造性は日本の枠にはおさまらなかったのだ。

 

それにしても自殺を考えない日がない草間だが、一方で猛烈に生に対して執着しているのだという。その生への執着こそが彼女を創造に駆り立てるそうだ。彼女の芸術は、不遇な環境に苦しみながらも、それでも生きたいと希う魂の叫びなのだ。

 

 

 

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力強く生命力あふれる作品である。彼女の作品は水玉と網目が多様されるが、彼女は幼少期に、目の前が水玉と網目に覆われることがあり、それが反映されているという。彼女の作品ではカボチャの作品がとても有名だが、幼き日、家の畑にあるカボチャが慰めてくれたからだという。下のカボチャは野外展示品。
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こちらのスペースは撮影可能。作品はシリーズ作「わが永遠の魂」である。異常な存在感と、躍動・活力・精力に圧倒される。彼女の作品を観るとゾクっとくる。何か危機を知らせるような色使いが、人の生存本能を刺激するからだろう。現代芸術の女王、はたまた前衛の女王の名をほしいままにする草間の才能を感じられるアート空間である。

 

P.S.

ミュシャ展と草間弥生展、どちらもオススメ。ただ草間弥生さんの作品は刺激が強いので、ミュシャの後にみると、ミュシャの作品をみた印象が薄れるので、別日に観に行った方がいいと思う。あと、草間弥生さんのショップコーナーは20~30分待ちなので、グッズが欲しい方は有給とって平日に行かれる方がいいと思う。あと、チケットはオンラインチケットを強く推奨。

 

 

 

ロシアは偉大なピアニストの宝庫である。リヒテル、ギレリス、ソコロフ、アファナシエフ、ニコラーエワ、ホロヴィッツ、アシュケナージ、ブーニン、キーシン・・・。世界最高峰のピアノコンクールであるショパンコンクールで国別で入賞者をみると、ロシア(旧ソ連含む)がダントツで1位である。ロシアはなぜここまでのピアニスト大国になれたのか。ロシアンピアニズムの秘密はなんなのか?リヒテルと首位を争った大巨匠メルジャーノフの愛弟子である原田英代が、ロシアンピアニズムに迫った本である。ロシアのピアノ史からロシアンピアニズムの特有の響きまで多面的に扱っており、非常に優れた一冊である。ピアノ学習者であれば一読をお勧めする。

 

ロシアのピアノは日本と関係ないじゃないかと思う人もいるかもしれないが、ショパンコンクール初の日本人入賞者の田中希代子、数奇な人生をたどり今日高い人気を誇るフジ子ヘミングはレオニード・クロイツァーに師事していたが、彼はロシア出身である。日本ピアノ界の重鎮だった豊増昇や園田高弘の師は、レオ・シロタだが、彼もロシア生まれである。日本のピアノ演奏にロシアンピアニズムの存在を見出すことは容易である。

 

原田英代さんは本書で初めて知った。東京芸大等を経て、ジュネーブ国際音楽コンクールで第2位、シューベルト国際ピアノコンクールで優勝という実力者である。日本はロシアほどではないが音楽教育が成熟しているので、国際ピアノコンクール入賞者は実は相当な数がいる。しかし、欧州に移り住んだり、大学の先生になりコンサートピアニストから教育者に転じたため、知名度はそう高くはない人がかなり多い。本書もドイツを拠点とするピアニストの一冊である。

 

もちろん、本書も指摘するようにロシアンピアニズムも多様であり、一面的ではない。しかし、共通項はいくつか見受けられる。一音一音が真珠のように鳴る美しい響きと、歌うような演奏である。この歌う演奏というのは、本書によるとロシア正教の影響だという。ロシア正教では楽器の演奏は禁じられ、人間の声だけで典礼が行われていた。また、ロシア音楽の担い手は農奴が多かったという - 貴族は労働を忌避したから当然であろう。ロシア音楽の底流をなすのは貴族的音楽ではなく、農奴の民衆の歌なのだ。ピアノ演奏においても、歌わせることを重視することは極めて自然なのだ。本書も指摘しているが、「色彩の中の思弁」というように、東方正教の偶像崇拝の忌避は、キリスト像等を嫌い、必然的に二次元的なイコンから無限の神の世界を想像しなければならなず、それがロシアの鋭い洞察を育み、奥深い精神世界を育んだという。

 

歌わせる演奏のため生まれたのは「重量奏法」である。よく日本だと、無知な教師はいまだに手首は動かさないで指の力で弾くという化石染みた指導をするが、これはハイフィンガー奏法という、チェンバロなどの軽い鍵盤楽器の時代の奏法である。重量奏法は、腰に重心を据えて、肩から腕、そして指の力を用いて弾く。ハイフィンガーは腱鞘炎になりやすく、また音が硬く響かないが、重量奏法は体への負荷が軽く、音もよく響くのだ。そしてレガートとノンレガートの絶妙なバランス。そこから紡がれる「ジュ・ペルレ」(真珠のように煌びやかな音)。ピアノのペダルもゼロか百ではなく、踏み方によって無限の演奏芸術を創造することができる。これらの総体としてロシアのピアニズムが形成されているのだ。

 

それにしても、ロシアを知るにはやはり文学は欠かせないという。ロシアンピアニズムの体得にはドフトエフスキー、チェーホフ等の理解は必要だという。音楽に編みこまれる多様な色彩、感情は文学的素養なくしてはあり得ないのだ。本書を通し、ピアノ界を席巻するロシアンピアニズムの奥深さを知ることができた。

 

P.S 私もピアノを弾く。先月も発表会があり、夏には演奏会もある。しかし、その前に、「カラマーゾフの兄弟」ぐらいは呼んでおこうかなと思う。ただ、個人的にはロシアンピアニズムは重過ぎ、高度過ぎる。聴く分には、射抜かれるような演奏も好きだ。ただ自分が弾くなら「気まぐれで、ちょっとテキトー、でもなんか心地よい雰囲気」みたいな風に弾きたい。無為自然な演奏だっていいじゃないか。オンボロのピアノで流しのピアノ弾きがどこか知らない曲を弾いている。そんな風情が私は好きだ。

50歳まで一度も結婚したことがない人が2015年に男性で4人に1人、女性で7人に1人いたことが、国立社会保障・人口問題研究所の調査で分かった。こうした人の割合を示す「生涯未婚率」は、10年の前回調査から男女とも3ポイント以上増えて過去最高を更新した。-- 朝日新聞デジタル

 

50歳時点で結婚していないと、その後も統計的にほとんど結婚しないので、50歳時点の未婚率を生涯未婚率と呼んでいる。これが過去最高を記録したらしい。我が国の少子化の最大の要因は非婚化だが、それが一段と進むようだ。少子化の要因は、前に記事でも書いたが、いくつかの要因が複合的に影響している。

 

これを踏まえるに、非婚化の流れを食い止めることは不可能だと思う。男の一人暮らしだと、それなりに好きに楽しく遊んで暮らせる。所帯を持つとそうはいかない。特に相手方専業主婦なら生活水準は、結婚すると下がる。ここで「等価所得」という概念を紹介しよう。

 

例えば、一人暮らしの300万円のAさんがいる。一方、年収300万円同士が結婚し二人暮らし世帯年収600万円のB家庭がある。一人あたりの年収は同じだが、生活水準は、B家庭の方が高い。なぜなら、二人で住めば家賃も半分になるし、電化製品なども1つで済むからだ。だから、二人暮らしの生活費は、一人暮らしの単純に二倍にならない。では、異なるの世帯同士の生活水準を比較するにはどうするか。ここで、平方根を用いるのだ。

 

例えば、一人暮らしの年収300万円のAさんが、もし結婚して二人暮らしになった場合、同じ生活水準を維持するには年収600万円は不要である。300万円に、√2を乗ずればよい。つまり、約424万円である。3人家族になった場合に年収300万円と同じ生活水準を維持するなら、√3を乗ずるので、約519万円が必要である。この計算を逆算に用いれば、あくまで計算上の話だが、年収600万円の4人家族の生活水準は、年収300万円の一人暮らしと同じといえる。

 

男の場合、年収400~500万もあればそこそこ好き勝手に暮らしていける。わざわざ生活水準を落してまで結婚するかというとNOであろう。相手が働いていないと仮定すると、例えば年収400万円の一人の生活水準は、結婚後、年収282万円ほどまで下がる。女性は結婚後は専業主婦を望む人も少なくないが、男性側からみれば専業主婦は経済的にみればコストでしかない。贅沢にも限界があるので、年収1000万の男性からすれば、生活水準が年収700万まで落ちても大差はないが、年収300~400万だと、これ以上の生活水準の低下は死活問題である。年収300~400万のボリュームゾーンの男性(主に20代)が非婚化の傾向なのは、経済合理的なのだ。結局、現代では一人暮らしも快適なので、快適さになれて結婚しないまま生活する人が多い。

 

若年層の所得が低いのは日本の雇用システムの問題もある。しかし、前の記事にも書いたように少子化には様々な要因が複合的に絡んでおり、これ一挙に解決する手立てはない。日本の少子化は解決はほぼ不可能なのである。日本はこのまま低出生率のまま日本の人口は減り、経済規模は縮小していくのだ。日本の莫大な借金はこれから生まれてくる赤ちゃんが背負う。国家ぐるみの児童虐待に等しいが、今年も政府が少子化対策に及び腰のため、数万人の待機児童が生じている。これが日本の現在の姿だ。この少子化問題をソフトランディングさせられるかどうかが今後の鍵だが、無理だろうと私は思う。

ララランド」を押さえて、第89回アカデミー作品賞に受賞した「ムーンライト」を観てきた。ハリウッド的な分かりやすく大衆的なララランドではなく、本作がアカデミー作品賞を受賞するとは、アカデミーの審査員も玄人向きの作品を選んだものだ。排外的なトランプ政権や、ハリウッドにおける白人贔屓への反動として本作が選ばれたという人もいるが、映画賞も人が選ぶ以上、世情を反映するものだし、それが悪いとも思わない。

 

貧困問題・育児放棄・人種問題・同性愛・麻薬問題などアメリカの社会問題を絡めながら主人公シャロンの成長を描いたヒューマンドラマで、少年時代、ティーンエージャー時代、青年時代に分けて描いている。手振れのカメラであえて撮ることで不安定さ、心情の揺らぎ、主人公の感傷を描写する。そして絶妙的なタイミングで流れる美しい音楽。香港の巨匠ウォン・カーウェイの影響を受けていると指摘する声もあるが、言われてみればたしかに映画描写等は似ている。

 

もともとTarell Alvin McCraneyが執筆した半自伝的な戯曲 ”In Moonlight Black Boys Look Blue”が原作で、McCraneyが本作の監督のジェンキンスと知り合い、本作を作成するに至ったという。本作の主人公がゲイの設定なのは、McCraneyがゲイなので、原作者に敬意を表してということらしいが、LGBTの設定はオマケである。

 

原作の題名にもあるように、本作は「青」が重要なカラーとなっており、映像は本当に美しいのだが、音楽も見事で、特に次の”The Middle of the World”は短い曲だが、シャロンの不安定な内面を見事に描写している。作曲はNicholas Britell。ジュリアードを経てハーバード大卒(アメリカはキャリアが複線的でいいと思う)。電子音楽やヒップポップも手がけ、ラフマニノフ、ガーシュイン、フィリップ・グラス、ズビグニエフ・プレイスネルなどの影響を受けたらしい。

 

ハリウッドのように一から十まで説明してくれる映画ではないので、ストーリーを楽しむ映画ではない。映画を観終わって、一晩寝かせてから思い返すと、なんと良い映画だったと思える作品である。あんまり気軽に観る映画ではないので、その点は注意が必要である。