法科大学院入学者数が1,704人で過去最低を更新した(リリース)。前年より8.3%も減少したが、前記事で予測した通りだった。そもそも法科大学院志願者数がピークである初年度の9分の1にまで超激減し、定員割れの法科大学院が43校中41校。もともと司法試験合格者数は3,000人を目指していたが、法科大学院入学者が減少する中で目標維持は困難と判断し、現在は1,500人合格まで目標は下げられている。当初の想定からすれば制度はすでに破綻している。河北新報は社説で、「もはや政策の失敗は明らかで、抜本的な改革は不可避ではないか」と指摘している。

 

当たり前だが法科大学院入学者数が減少傾向であれば司法試験受験者数も減る。今年は受験者が前年比で13.5%減の5,967人で過去最低である。平成15年頃だと旧司法試験受検者が40,000人を超えていたので、信じられないような人数の少なさである。司法修習が貸与制から給費制にかわったが減少傾向は止められなかった。冷静に考えれば、いままでは貸与制度でマイナスだったのが、ちょっとばかしマシになったに過ぎないから当然だろう。例えば地方自治体である平成28年の鳥取市の高卒採用の初任給(一般行政職)14.4万であるが、司法修習生の給費額は月額13.5万に過ぎない。大卒で法科大学院を経て司法試験合格して高卒公務員以下の給費ではそこまで大きなインセンティブにならないということだ。

 

弁護士が1万数千人だったのが、来年には4万人を超える。このまま増加傾向が続き2030年には5万人規模になる。裁判件数は2003年のピーク時から4割減少。弁護士所得は減少傾向で、1年目弁護士の所得は中央値が317万円。つまり、1年目弁護士の半数は317万円を下回る所得である。そもそも司法修習所修了者の7.5人に1人はそもそも弁護士会への一斉登録時点で、就職未定等の理由で登録できない。その後に登録する人もいるが、ノキ弁やタク弁が主だろう。

 

もはや弁護士に大きな所得が期待できない以上、法科大学院に進学する人が減少するのは経済合理的に考えば至極当然であり、このような制度は維持することは相当な無理がある。法科大学院のような資格を目標とする大学院は、資格試験に落ちれば何の意味のない学歴であり、それどころか進学にかかる機会費用と学費の分だけ損であり、学歴的にもマイナスである。このままいけば2020年ころには法科大学院入学者が1200~1300人にまで減少する。さすれば司法試験1500人目標の達成も不可能になる。2020年頃にはさすがの文科省も制度転換を決めなければならなくなるだろう。

海外ドラマでここ1年はまっていたのがグッドワイフ。7シーズン続いた人気シリーズで、1年ほど前から見続けてついに本日視聴を完了した。なんだか感慨深い。アメリカでは2009~2016年にかけて放送されていた。


弁護士のアリシアが主人公。アリシアの夫は、選挙で選ばれる政治ポストの州検事を務めていたが、娼婦との不倫や汚職によって職を追われる。アリシアは夫の逮捕により、家計を支えるために専業主婦から弁護士に転身し、弁護士として働きながら、子供二人のために良き母をつとめながら、世間的には夫を支える妻を演じる。アリシアを主軸の法廷ドラマであるが、アリシアの所属する法律事務所内部での権力争い、また舞台であるシカゴの政界や法曹界が絡まりながら話が進んでいく。


出演陣も豪華で、その演技力もさるものながら、シーズンを経るごとに面白みを増す脚本に思わず観にいってしまう。日本の勧善懲悪のアホみたいなドラマに比べると、時事問題や法律問題を組み込むあたり、アメリカのドラマの脚本の質は異常に高い。


 ただ本シリーズのラストは賛否両論で、どちらかといえば否の意見が多かったらしい。たしかに、アメリカのハリウッド的な明快な終わり方ではない。スピンオフのシリーズがその後放送決定したらしいので、あえての不完全な終わりだったのだろうか。とはいえ、この問題をスッキリしない中での終わり方は個人的には嫌いではなかった。この不完全燃焼が、余韻を残し、良い味を出している。 


シリーズ終盤におけるカリンダやウィルの喪失はたしかに大きかった。おそらくここで話を切り替えてもう少しシリーズを延長させたかったのかもしれなかったが、カリンダやウィルなどは話の柱であって、これらを失ったのは大きかった。グッドワイフのラストは、シカゴの政界などを描きながらも、夫の失脚によって人生を翻弄されたアリシアという一女性の成長の物語というような終わり方だった。


夫の浮気によって夫への愛情を失ったものの子供を愛し、一方でかつて何もかもを捨ててでも愛してくれようとした学生時代の恋人ウィルへの愛を再燃させた女性の物語である。ウィルが亡くなり、夫の喪失感を埋めるために男を求め、いつしかジェイソンへと行き着く。しかし、ジェイソンは根無し草で最終話で人知れずどこかへと旅立っていく・・・。 


ジェイソンはアリシアの喪失感を埋めてくれないのだ。アリシアはラスト、夫を守るために裁判において、お世話になった法律事務所のパートナーを裏切りながらも不貞を働いた夫をそれでもかばおうとする。妻として義理なのか、子供のためなのか・・・。最終話は初回と同じような状況だ。夫が謝罪会見を開き、夫に付き添う。しかし、そのアリシアの喪失感を埋めくれるジェイソンはおらず、法律事務所のパートナーからは裏切ったことから平手打ちにされてしまう。それでもアリシアは苦難な状況でも気丈に前に進んでいこうとする。そう、最初、夫のスキャンダルに翻弄された時と同じだ。法律事務所の経営はどうなるのか?親友だったカリンダはどうなったのか?ジェイソンの関係は?などと考えるのは野暮だ。現実の人生でもそう明快なものなんてない。人生は出会いと別れの繰り返し。突然転機が訪れて好転したかと思うと暗転する。しかし、それでも人生は進んでいくのだ。運命には気丈に立ち向かうしかない。そうアリシアのように・・・。 


もっとハッピーなラストは用意できただろうが、あえてこのラストを選んだ脚本家は良いセンスだ。本シリーズは歴史に残る名シリーズだろう。ラストシーンで流れるRegina Spektorの「Better」はシーンに見事にマッチしている。苦しむアリシアの苦悩と歌詞がうまくマッチし、見事なラストとなっている。

"Better"

If I kiss you where it's sore もしあなたが痛いと思うところにキスすれば
If I kiss you where it's sore そうもしあなたが痛いと思うところにキスしてあげれば

Will you feel better, better, better あなたは気分が良くなるのかしら
Will you feel anything at all  あなたはなんでも感じられるんじゃないかしら
Will you feel better, better, better あなたは気分が良くなるのかしら
Will you feel anything at all  あなたはなんでも感じられるんじゃないかしら
※訳はブログ主

 

Schulze BLOGにて、今年も法科大学院の入学者数のまとめが集計されている。未判明10校あるが、判明分で前年比を100とすると今年は92.7で、約8%も減っている。誤差を含めても7~9%程度の減少率になろう。減少率はここ5年で平均約12%なので減少率は低下したが、減少傾向には歯止めがかかっていない。適性試験も任意化され、入試倍率も低下したため、法科大学院はまともな選抜が行われているとは到底言えない。

 

こうした惨状は法科大学院の話かと思ったが、法科大学院にとどまらない。例えば、会計大学院である。こちらを卒業すれば公認会計士の試験で科目免除もあるが、公認会計士は一時期4000人も合格させたので、一気に就職難になり、そのイメージが強い。現在では、国際会計基準等で一時的に人手不足らしいが、会計ソフトが普及する中で、公認会計士・税理士の需要は伸びないと見込まれる。北海道大・東北大学・早稲田大・青山学院大・中央大・法政大・明治大・立命館大など16校に設置されていたが、有力私立大の中央大・法政大・立命館大がすでに募集停止に踏み切っており、おまけに北海道大・東北大・早稲田大等も定員割れの状態で、制度維持も危ぶまれる惨状である。

 

ただ法科大学院・会計大学院の悲劇から、専門職大学院全体が終わってるという人もいるが、実はそうでもない。平成22年の入学者数を100とした場合の、平成27年の入学者数の数値を下記でみてみると40%以上の入学者数の低下は法科大学院・会計大学院のみである。教職大学院やMBA・MOTにいたっては増改傾向である。

 

入学者数:平成22年→平成27年(文科省資料
・法科大学院:53.3
・教職大学院:113.9
・MBA・MOT:117.8
・会計大学院:55.2
・公共政策大学院:80.4
・公衆衛生大学院:117
・臨床心理大学院:84.1
※平成22年の入学者を100とした場合の平成27年の値

※少数第2位切り捨て
 

法科大学院・会計大学院がここまでの大幅減少になった、それらの大学院の共通項は難関資格を目指す大学院ということである。もともと弁護士や公認会計士はプラチナカードで高収入が約束された仕事だった。だが、合格者数を激増させたことで、就職難・収入低下が起きてしまった。その結果、それらの資格職が、勉強量や求められる努力の割に、経済的に割に合わない職種となってしまったのである。難関の資格職は試験に不合格になる可能性が高いが、不合格になった場合、何らのセーフティーネットがないまま社会に放り出される危険が高い。これが進学を忌避される理由である。おまけに法科大学院の抜け道としては予備試験があり、会計大学院は修了が受験資格ではないので(一部試験科目免除の特典はある)、あえて1~2年の時間と費用をかけて進学するメリットに乏しい。明らかにリスク及びコストが、期待される所得を上回っている。一方で、教職を目指す教職大学院、公務員を目指す公共政策大学院は採用されるところにこだわらなければどこかしら採用してくれる自治体や企業はあるので、リスクが低い。公務員の給与はある程度は平準化されているので、希望のところに入れなくとも経済的なリスクが低い。MBA・MOTはそもそも目標とする明確な試験がなく、自己研鑽や人脈づくりで入学する人も多く、そこそこ経済的余裕のある社会人等が進学しやすく人気が高い。

※臨床心理や公衆衛生はそもそもの母数が少ないのでブレが大きいのでノーコメント。

 

法科大学院・会計大学院がオワコン化している理由は明確である。進学して無事に修了しても、試験に受からなければ、学費と勉強に費やした月日が無駄になる可能性があり(さらに試験に受からなかった人との烙印を押される)、おまけに就職率や期待される所得も低下の一途のため、進学するリスクが進学によって生じるメリットを大幅に上回るのだ。一方で、これらのリスクが低い教職大学院やMBA・MOTは志願者が増えている。専門職大学院制度自体はそこまで悪い制度ではないということだ。

「一橋大学アウティング訴訟」を覚えているだろうか?これは2015年4月に同性愛者であるとSNSを通じて暴露された被害者(一橋大法科大学院生)が自殺した事件である。この事件に絡み、遺族が加害者と大学を相手取って民事訴訟を提訴し現在でも係争中である。この事件経過報告がこのGW中に、明治大学で行われたので、時間があったので行ってきた。といっても、この事件というより、パネリストとして参加していた新進気鋭の憲法学者である首都大の木村教授の話が生で聴きたかったのが目的であったが、なかなか有意義な講演であった。会場は立ち見が数十人出るほどの盛況で、本訴訟の関心の高さがうかがわれた。

 

事件の概略は、wikiの記事を参照のこと(wiki)。といっても、報道レベルでしか私も知らない事件だったので、なかなか勉強になった。木村教授によると、まだいじめ問題、特にLGBTに関するアウティング訴訟の判例は少なく、間違いなく今回の訴訟は判例集に載るような重要な事件であるという。

 

そもそもアウティング(本人の同意なく、当人がオープンにしていない性的指向や性自認等の秘密を公にする行動)は何が問題かといえば、LGBTであるというセンシティブな情報を、本人の意思に反して無断で公開したということが、憲法によって保障されるプライバシー権の侵害にあたる。プライバシー権とは、自己に関する情報のコントロール権である。つまり、本件のように被害者の意思に反し、アウティングを行ったことが自体が不法行為に該当するのだ。

 

加害者側の見解としては、交際は断ったにも関わらず、その後も連絡をしてきたため、精神的に追い詰められ、その状況を打開するために行ったアウティングは正当な行為だという。しかしながら、本人にこれ以上連絡をしないように通知する、大学側に事情を説明し仲裁してもらう等のアウティング以外のとりうる手段がある中で、憲法上の権利を侵害しアウティングを正当な行為というのは相当苦しい。

 

一橋大は、被害者は同性愛を苦にして自殺したのであり、大学側に落ち度はないという。さらには、法科大学院生は高い倫理観をすでに有しているのだから、LGBT理解などの教育を院生に行う必要性もないとの見解だという。であれば、なぜ今回のような訴訟が起きたのだろうか?また、LGBTの自殺率が高いのは事実であるが、被害者は「〔加害者名〕が弁護士になるような法曹界なら、もう自分の理想はこの世界にない」と残しており、自殺は自己のセクシュアリティに悩んだのではなく、アウティングに起因することは自明である。パネリストの広島大横山教授は、アウティングに関しだれも加害者の行為を咎めておらず、また今回の相談を受けた際に性同一性障害のクリニックを紹介するなどLGBTへの理解に欠落し、大学側の対応にも問題があると指摘していた。同じくパネリストの明治大鈴木教授によると、一橋大はエリート主義に陥っており大学の名に傷をつけたくないのではないかという。一橋大は、遺族に対して数個の日付を提示して面会を求めるものの、遺族が弁護士の同席を求めると一方的に面会を拒絶し、以後は高度な守秘義務があると遺族に何ら謝罪も報告もしていないという。鈴木教授は、こうした一橋大の対応をみて、あまりの杜撰さに「絶句」したという。今回遺族のメッセージも放映されたが、遺族は驚くほどに冷静であった。原告側弁護士によるとと、大学側が本件を隠ぺいするので、本件について一橋大を席に付かせるには訴訟による他なかったという。

 

さらに今回の講演で興味深かったのは、法科大学院制度についての言及である。勉強ストレスを抱えた学生を離脱可能性の無い空間に閉じ込めることの異常性を指摘していた。おまけにこの異常性について法科大学院の教員はその認識が欠如しているという。日本は大学院進学は一般的ではなく、新卒カードを捨てて院に進学すること自体がリスキーであり、おまけに法科大学院では膨大な課題をこなし、10人中8人は落ちる試験のために2年間もストイックに勉強しなければならない。試験に落ちれば試験に合格しなかったとの烙印を押されて放り出されるのだ。こうした環境は膨大なストレスを生む。これだけストレスある環境は正常ではないし、学生を追い詰めるだけである。

 

アメリカだと、同性婚を認めた結果、自殺が減少したという(ワシントンポスト)。世界的にLGBTの権利保障が進む中、日本は法整備も進まない。ジェンダーギャップ指数はロシアや中国以下の世界111位(144か国中)で、おまけにLGBTの対策もこの惨状では、国家ぐるみで人権意識の低さを世界にアピールしたいのかと思われても仕方がない悪水準である。鈴木教授は今回の訴訟はLGBTに関して波及効果を及ぼし、ポリシーメイキングに影響があるのではないかという。

 

なんにせよ本訴訟が原告勝訴になることを願っている。

さて、今年も、「ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン2017「ラ・ダンス 舞曲の祭典」」に行ってきた。1995年のフランス・ナント誕生の音楽祭で、クラシック音楽の祭典。一流のアーティストによる40~50分の短いコンサートが朝から晩まで開かれ、それも低価格で観ることができる。GWに丸の内・有楽町エリアで開かれ、クラシック音楽に関する展示や講演会などもある。今年のテーマは「舞曲の祭典」のため、舞踏に関する音楽が多数取り上げられている。
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今年の目当てはピアニストで作家の青柳いづみこ氏の講演会。青柳氏は作家で、ブログでも女史の本は取り上げたことがあり()、興味があったので実際の講演を聴いてみたかったからである。5日はドビュッシーとバレエ、6日はショパンとバレエがテーマだった。意外だったのが、ドビュッシーがバレエ曲を書いたのは、バレエ曲は高く売れたからという点である。また、ドビュッシーの収入なども細かく判明しているのに驚いた。映像資料を取り入れながらの講演は段取りも良く聞きやすかった。ドビュッシーより、バレエになったショパンの曲のほうが、私はショパンが好きなので個人的には楽しめた。ショパンの曲に振付を付けるとこうなるのかと勉強になった。バレエは正直興味はなかったが、映像資料に思わず見惚れてしまった。

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せっかくの音楽祭なのでコンサートも聴いてきた。私が聴いたのは小山実稚恵さんの演奏。小山実稚恵さんは、チャイコフスキーコンクール第3位・ショパンコンクール第4位と二大コンクールに入賞歴のある日本人唯一のピアニストで、メディアで目にする機会も多い。曲目は、ショパンの「アンダンテ・スピアナートと華麗なる大ポロネーズ」と「ピアノ協奏曲第1番」。会場は東京国際フォーラム・Aホールで5012席の大ホールだった。2階席だったが、相当な傾斜。

 

音楽ホールは音響も良く、ピアノもスタインウェイだったので高音部がなんとも見事に煌びやかに響き、ピアニッシモもクリアに聴こえる。ただなぜか音量の割に、低音部が全然鳴ってないのが不思議だった。小山さんは指回りが良くまた安定しているので、音は優しく、粒がそろっていて、またショパンの流麗な旋律が気持ちよく流れる。アンコールは子犬のワルツだったが、早めのテンポでさっと弾き切った。尚、協奏曲の1楽章が終わった時点で、拍手が起きてしまい(基本的に楽章の間では拍手しない)、曲の連続性が若干切れた感じがしたが、これは聴き手である私の問題。

 

 

この音楽祭と一緒に、東京ステーションギャラリーで開催の「アドルフ・ヴェルフリ 二萬五千頁の王国」にも寄ってきた。ちなみに、東京ステーションギャラリーは東京駅併設のこじんまりとした美術館で、モダンでお勧めである。

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 ヴェルフリはスイス生まれだが、貧しい出自で、犯罪を犯して逮捕されるも、統合失調症と診断され精神科病院に収容された。精神科病院で創作活動に目覚め、2万5000ページにも上る作品群を残した。日本では無名だが、アウトサイダーアートでは評価が高いという。アウトサイダーアートは芸術教育を受けていない者による作品でアートにみなされているものをいう - もともとアールブリュット(囚人・精神病患者の作品)の狭い意味だったが、英語化する際に広義に用いられるようになった。非現実的な物語、余白を埋める音符、不思議な模様の連続はたしかに彼にしか創作できなかっただろう。しかし、アールブリュットを、芸術分野で語るのは慎重になるべきじゃないかと正直思う。