イギリスの高等教育専門誌「Times Higher Education(THE)」は2020年9月2日(イギリス現地時間)、THE世界大学ランキング2021(THE World University Rankings 2021)を発表した。上位200位に入った日本の大学は「東京大学」36位、「京都大学」54位の2校だった。 (中略) 日本の大学は、トップが「東京大学」36位、ついで「京都大学」54位、「東北大学」201~250位、「東京工業大学」301~350位。前回と比べて、東京大学は同位、京都大学は65位から上昇した。日本は116校(国立57校、公立12校、私立47校)がランクインし、アメリカの181校についで2位となった。-- LINK

 

おなじみのTHEの世界大学ランキングが発表された。留学生比率なども考慮されており英米の大学有利なランキングなので日本の大学が欧米の大学と比較して相対的に順位が低いといって嘆く必要はない。それにランキングに入った総数でみると日本はアメリカに次ぐので日本の大学がレベルが低いというわけではない。日本は数千人規模のミニマム大学が乱立しており総得点で順位が下がっているだけだ。日本も大学が統合したりして数万人規模が普通のサイズになればトップ100に入る大学も増えるだろう。一橋・東京外大・東工大・東京医科歯科大が統合すれば東京大に匹敵する総合大学になる。大阪市立大・大阪府立大が統合するが、これで世界順位は上昇するだろう。文科省が大学統合を推奨しているが良い傾向だと思う。

 

ちなみに、留学生比率などを省き卒業生や教員の学術的実績・ビジネスでの活躍に重点をおいたCWUR世界大学ランキングがある。評価項目は、大学規模に比較した卒業生の学術賞受賞数・大学規模に比較した卒業生の世界的大企業でのエグゼクティブポジションの雇用数・教員の学術賞受賞数・研究パフォーマンスの4項目である(LINK)。

 

上位2000校を発表しているが、国別でみると米357校・中267校・日126校・英国95校・仏82校・独70校・印64校・韓国61校・露46校・加44校・濠39校となっている。こちらのランキングだと日本はすでに中国の後塵を拝しているが、世界第3位である。

 

ちなみに、総合順位でみると13位までは英米の大学だが、非英米だと東大の世界14位がトップである。ちなみに、TOP100には京大(28位)・阪大(87位)・慶応(93位)の4校が入っており、TOP200まで8校(東北・名古屋・東工・早稲田)がランクしている。中国は北京大(62位)・精華大(71位)・中国科学院大(84位)の3校であり、TOP200だと12校である。トップ校ではまだ日本が上だが、上位層はほぼ比肩しているといっていい水準だろう。韓国はTOP100にはソウル大(31位)のみだが、トップ200に4校入っている。人口規模は日本の4割という点を踏まえると健闘しているといえるだろう。特にソウル大の順位は日本のNO.2の京大に肉薄している。中国は科学予算を大幅に増強しているので日本を追い抜くのは時間の問題だろう。韓国も上位校については日本の上位校に比肩している。ちなみに、TOP100校をみると米51校・英10校・仏5校・独5校・日4校・蘭4校・スイス4校・中3校・加3校、デンマーク・台湾・ノルウェー・韓国が各1校であり、上澄みの大学数については、日本は人口1憶を超えている割に独・仏・蘭・スイス・加あたりと変わらない。

 

上記データをみるに日本のアカデミズムは踏みとどまっているし、旧帝大・早慶は非英語圏の中では最上位クラスであるが、中韓には追い付かれつつあるのも現実である。韓国は日本より経済が弱く少子化も深刻なのでいまがピークだろうが、中国は日本を追い抜くだろう。ただスイス・オランダ・スウェーデン・ノルウェーのように人口は小規模ながら高い研究力を誇る大学を有している国もあるので、そこまで悲観する必要はないと思う。アメリカと経済覇権を争うまでの超大国に挑めるほどの国力はいまの日本にはないが、別に途上国に転落するわけではない。経済規模・人口規模・一人当たり所得でみて大国ではあり続ける。ただ学術大国であり続けるかは、今後の投資次第だろう。莫大な社会保障費に血税がつぎ込まれているが、一部は未来への投資として教育・科学技術に振り向けないとゆくゆくは学術大国の地位は危ないかもしれない。

 

 

現在、米中が対立しており「新冷戦」ともいえる状況にある。米国や中国の関係性やこれまでの外交などを振り返り、日本の外交方針にも示唆を与える一冊。ただ途中は中国の思想家の基礎的な話が延々と続くなど、本の論旨が散漫な印象を受ける。日本では地政学がブームになっているのか関連書籍は多いが、肝心の国際政治学には疎いので現実主義・理想主義などの理解がなおざりにされている感は否めず(p.67あたりの説明は地政学の観点からの説明?)、地政学ではカバーしきれない外交の説明力は薄い。著者は予備校の先生で、教育のバックグラウンドも非公開であり、参考文献も書いていないので(一次資料までちゃんと調査しているのかは不明)、どこまで論の説得力に学問的下地があるのかは不明であり、ある程度は割り引いて読む必要がある。

 

ただランドパワーとシーパワーの見立ては参考にある。日本はシーパワー(海洋国家)であり、ランドパワーを志向したり、ランドパワー国家と同盟すると失敗するという。つまり、関東軍のユーラシア大陸への侵攻やドイツとの同盟は大失敗した。これは大陸国における統治ノウハウがないからだろう。一方で、日英同盟時代や日米同盟は上手くっているので、シーパワー国家と組むべきだというのは一聴に値する。現在ではアジアが世界経済の中心になっているが、アジア諸国は島国が多いため東南アジアでの外交に日本は向ているかもしれない。特にオーストラリア・台湾などとの連携は現実的である。一方で、ランドパワーの中国は東南アジアの海洋権益を巡って国際的な非難を受けており、たしかにあまり海洋の外交には弱い印象がある。

 

どうしてランドパワーとシーパワーで違いがあるかといえば、ランドパワーにおいては灌漑が必須になるために巨大な権力機構が取り仕切る必要が出てくるため中央集権の官僚国家になり、一方でシーパワーは勝手に民間レベルで交易がはじまり、国がそうした交易を保護することで、民需主導の分権的な国家になりやすいという。ランドパワーは中国・ロシア・東欧であり、シーパワーはイギリス・日本・オランダなどがそれにあたる。前者が中央集権的な共産化に傾倒したのもランドパワー国家のメンタリティーゆえだろう。

 

そんな米中も実はもともとは関係は悪くない。というのも、米国は南北戦争で忙しく中国の分割には参戦していない。どちらかといえば、米国の懸念は急速に大国化した日本である。キッシンジャーは周恩来に日米同盟について懸念を伝えられると、日本は軍国主義化するからそのキャップとして米軍駐留が必要だと説いたという。近現代において東アジアの重要な変数は日本だったのだ。

 

一方で現在の米中対立は地政学だと説明力が弱い。ここらへんはオフェンシブリアリズムのミアシャイマーなどの攻撃的現実主義の立場からの本を読むほうが遥かに説得力があると思う。彼はウェストポイントを経て軍人になりコーネル大で博士号を取得した学者である。本書がとは言わないが、日本が大学院などの高等教育や研究者軽視で、市井の学者などがやたらと多く、床屋談義が蔓延するのもいかがなものかと思う。

 

 

 

 

百貨店不況といわれて久しい。ネットに押されて地方では百貨店の閉店が相次いでいる。そんな百貨店だが大丸・松坂屋・伊勢丹・三越など数多い。そんな百貨店の興亡をまとめたのが本書が。コンパクトに屋上庭園・催事場・お子様ランチなどの発明など、流行をつくってきた百貨店の推進力が分かるのでおすすめだ。

 

世界初の百貨店は19世紀にできたフランス・パリの「ル・ボン・マルシェ」である。一方、日本で最初の百貨店は三越の「デパートメント宣言」(1904年)とすることが多いという。日本で三越が最も格式があるというのは呉服店に起源があり、さらに日本初ということだろう。ちなみに、三越とは創業家の「三井家」の「越後屋」から発展したので、それぞれ文字をとって「三越」になったらしい。近代化を遂げた日本では大都市が発展し、そこではホワイトカラーの新たな上流~中流層が生まれていた。そんな社会階層をターゲットにしたのが百貨店だった。そんな百貨店は庶民のあこがれの的になり、帝劇と並ぶ都会の顔になっていったという。高島屋もなかなかの老舗のイメージだが、関係者は「歴史が浅いので・・・」と謙虚らしいが、これは1831年創業と呉服店系の百貨店では後発だからだという。

 

西武や阪急は若干格式において格下にみられることがある。これは呉服店から発展した三越・松坂屋などと違い電鉄の百貨店だからだ。ただ電鉄系が革新的だったのは、阪急の創業者小林のように、街開発を行い、電鉄利用者を増やしてターミナルデパートの消費者を創り出したのだ。現在では電鉄系の百貨店は売り上げでは呉服店にルーツがある老舗百貨店を凌駕する勢力である。

 

渋谷はもともとは田舎の農村で、昭和初期もパッとしない街だったが、パルコが出来て以降は若者が集まる流行の最先端の街として栄えるようになる。百貨店は流行を創り出し、街の形成にも影響を与えてきたのだ。百貨店は最先端ファッションを扱っていたが、それはアパレル業界との結託を生んだ。それが「オンワード樫山」、「三陽商会」、「ワールド」などである。昨今はそれらの百貨店とアパレルが揃って苦境にあり、従来のビジネスモデルが崩壊しつつある。ちなみに、前述のパルコは「セゾングループ」だったが、西武百貨店・ロフト・無印良品・ファミマなどもセゾングループ発である。セゾングループ自体は経営不振やバブル崩壊の余波もあり2001年に瓦解しているが、池袋だとこれらの企業がフルセットで揃っているのは、その名残だ。

 

あと、勝手に丸井は百貨店だと思っていたが、日本百貨店協会会員ではなく、自身も百貨店と標榜していないので百貨店に含まないことも多いようだ。丸井は家具の割賦販売の会社がルーツで、日本で初めてクレジットカードを発行した。丸井の「エポスカード」は強いが、やはり会社のルーツに理由がある。そんな丸井は物を売るのではなく体験重視らしく時代を先取りしている。若者支持を集めるのも、それが理由だろう。

 

そんな百貨店だが、もはや小売りの王様としての地位を失いつつある。黒船のAmazonが勢力を伸ばしており、国内勢力の楽天も強い。だが、百貨店には百貨店ならではの良さがある。実際の店舗で品物をみて、オンラインショッピングをすれば手ぶらで自宅に帰れるというメリットもある。たしかにオンラインショッピングの台頭で百貨店の苦境は続くが、実店舗が減れば減るほど、実店舗の良さも見直されるのではないかと期待している。重厚な建物の中で、丁寧な接客をされたときの買い物の感覚は絶対にオンラインショッピングでは味わえない。

 

 

イスラエルは非常に稀有な国である。2000年以上前にイスラエル王国は崩壊し、イスラエルの民は世界中に離散した。しかし、各地で迫害を受けるも信仰は保ち続け、1948年にイスラエルは約束の地に再び建国されるのだ。そんなユダヤ人だが優秀な人が多く多数のノーベル賞受賞者がおり、さらに著名な音楽家にもユダヤ人は多いし、最近だとIT分野でも最先端をいっている。そんなイスラエルを、イスラエルに詳しい新井氏が綴っているが、ただいかんせん技術者ゆえ宗教理解などは割り引いて読む必要性がある。ユダヤ人の本だと、イザヤ・ベンダサン(山本七平のペンネームと言われている)の「日本人とユダヤ人」が文化論としてはおすすめしたいが、本書はより現代的な内容を扱っており、特に教育面に着眼している。

 

イスラエルはまさに砂漠地帯で資源は何もない。しかし、経済は堅調に成長を続けてきた。移民を広く受け入れて人口も増加が止まらず1980年には392万人だったが、2019年には900万人を突破。2050年には1500万人を突破するとも言われている。人口政策はイスラエルにとっては国土防衛の要なので移民受け入れに積極的なのだ。

 

イスラエルは天然資源がないこそ人こそが資源であり国力の源なのだ。本書の特徴は「タルピオット」を紹介しているところだ。高校生から50人を選抜し、科学技術や軍事訓練などを通してエリートを教育しているという。同プログラムの卒業生は一定期間は軍隊に勤務し、その後、角界で活躍する技術エリートになるのだ。ユニークなのは日本と違い知識偏重ではなく、ディスカッション力や面接での不測の質問への対応力なども評価するという。問のない答えへの探求心が重要なのだ。日本のように答えのある問題の試験だけだと、クイズ大会の様相を呈し、机にただひたすら向かい答えるのある問題しか受け付けないガリ勉ばかりが集まってしまう可能性がある。受験エリートの行きつく先が「クイズ王」では笑えない。

 

イスラエルは研究力があるが、その源は教育にあるという。子供の自主性の尊重や体験の重視などを通して子供の好奇心を育むという。ここは筆者がインタビューした内容などをベースに書かれているが、教育については「ユダヤ人の教養」のほうが分かりやすいし的確だと思う。

 

 

本書は興味深いが、あまり話の展開がこなれておらず、教育の話やらビジネスの話が交じりやや論旨が分かりにくい個所がある。また、些末な点をあげつらうようだが、筆者はキリスト教の理解がだいぶ怪しい(pp.61-62の記述)。キリスト教は三位一体説をとっているとしているが(カトリックはたしかにそうだが)、三位一体説を採用しない諸派も存在する。ユダヤ教では神と人間の間に介在者が存在しないがキリスト教には存在するというような書き方だが、キリスト教でもプロテスタントの場合は神と人間の間に介在者は存在しない場合も多い。

 

また、資源がない日本はイスラエルに似ているという論調だが、日本の国土は山に覆われ森林資源が豊富で、南北に長いので1国内に雪国から南の島まであり、河川も多く水資源に恵まれ、排他的経済水域も含めれば世界第6位の面積を誇り海洋資源に恵まれた人口1憶2600万人を誇る大国である。金・銀・銅山・炭鉱もあり一時期は日本はそれらの一大輸出国だった;マルコ・ポーロは「東方見聞録」で黄金の国と描いている。レアメタルやレアアースのほかにも、最近注目のメタンハイドレートも日本海域に豊富にあることが分かっている。また、都市鉱山ともいわれるが日本国内のレアメタルの蓄積量は世界でも指折りである。砂漠にポつんとあるたかだが人口900万の国に似ているといわれても違和感しか感じない。

 

ただイスラエルの研究力や実践的な政策には、日本も見習うべきところは多いのはその通りだと思う。日本は平和な島国で適度に技術や文化を受容して独自の文化・文明を作り上げてきた。一方で排他的で硬直的な社会となっている点は否めない。日本人は1を10にする術に長けているが、ユダヤ人は0から1を生み出すのは優れているとよくいわれる。日本もイスラエルのように0から1を生み出すような新しい発想などを受け入れる柔軟な教育に舵を切らないとまずいが、でも日本人は「イグノーベル賞」の常連だし、日本は私立大も多く教育の多様性を育んでいる。硬直的なのは既得権益にしがみつく日本の大企業や官公庁だけじゃないの?と思ってしまう。

 

 

実は今年はベートーヴェンイヤーである。生誕250周年なのだ。しかし、コロナのせいでコンサートも中止が相次いでいまいち盛り上がらない。本書はベートーヴェンを銘打ってはいるが、実際は西洋音楽史で、西洋音楽のルーツから二十世紀の音楽までを扱っている。西洋音楽の歴史だと、やはり中公新書の「西洋音楽史」がやはりベストだと思うが、本書も筆者の独特の語り口でなかなか興味深い一冊に仕上がっている。

 

現在の西洋音楽のルーツで楽譜等で遡れるのはせいぜいグレゴリオ聖歌までだ。古代ギリシャなどでも音楽はあっただろうが、もはや考古学の世界の話になってしまう。楽譜は残っていないのでどんな曲を弾いていたはほとんどが想像の世界の産物だ。なんにせよ中世ヨーロッパでは教会が権威を誇り、音楽も宗教音楽がメインだった。しかし、その後、教会に代わって貴族社会が台頭してくると、音楽の担い手は貴族になってくる。特にルネッサンス期には古代ギリシャの演劇を復活させようとするムーブメントの中でオペラが成立する。イタリアがオペラの本場とみなされるのは現代オペラの直接のルーツはイタリアにあるからだ。ヘンデルやハイドンなどは貴族に雇用されて作曲していた雇われ音楽家で、しょせんは貴族の使用人に過ぎなかった。

 

一方で、中産階級が経済的に成長し市民社会が成立してくるといままで貴族に雇われる音楽家は衰退していく。モーツァルトはちょうど過渡期の音楽家だったので、なかなか雇い手が見つからずに就活のために欧州を放浪している。ハイドンも困窮したモルツィン伯爵に解雇され、次にエステルハージ家に雇われるも、音楽に関心がない侯爵が当主になったことで一族お抱えの音楽家はリストラ、それと一緒にハイドンも年金を支給される代わりにお払い箱になる。ハイドンはその後ロンドンで活躍するが出稼ぎ同然である。ハイドンのロンドン時代の曲は分かりやすい曲が多いが、教養ある貴族と違い、伸長してきた中産階級を相手にしていたからだ。貴族向きの曲から大都市の中産階級向けの音楽に潮目が変わったのだ。

 

そんな市民社会の到来を予見し、歓迎し、謳歌したのがベートーヴェンである。ベートーヴェンは貴族に雇用される音楽家ではなく自立した初の音楽家であり、貴族社会の没落にあって市民社会に適した曲、つまりは分かりやすく歌いやすい曲を作曲したのだった。また、ベートーヴェンはボリュームの大きな曲も多いが、それは産業技術の発達で楽器の性能が向上したこと、大都市における喧噪、人口増加による市場拡大によりホールも巨大化したこと、戦争における大砲などの大音量などを反映したものであろう。ベートーヴェンの曲に「トルコ行進曲」があるが、これはオスマン帝国のウィーン包囲のときにトルコ音楽が西洋に影響を与えている証左である;ちなみに、その時期にコーヒーも西洋に伝わっている(ウィーンはコーヒーで有名なのは伝来が早かったからだ)。また、ベートーヴェンの楽譜は何度も書き直されているが、この労作は近現代における勤労の精神とも結びつく。そしてピアノの新約聖書ともいわれるピアノソナタ。それにはヘーゲル哲学もみてとることができる。

 

市民社会では豊かな市民を中心にピアノなどを習うことがステータスとなる。ショパンは富裕層にピアノを教えたり、楽譜を売ったりして生計を立てていた。リストも時代の寵児となり、彼は絶大な人気を誇った。一方でリストは教育にも力を注ぎ、彼自身や彼の弟子が各地に音楽院をつくり巨大なピアニズムの源流をつくるのだった。

 

そんな市民社会も「国民国家」という時代のうねりによって変容してくる。大都市には多くの人が集まるが、彼らは根無し草である。そんな彼らは精神的な不安を抱え、精神的なよりどころとして「民族」を希求するようになる。スメタナやドボルザークなどの「国民学派」がこの時期に誕生したのは偶然ではない。そんな時代に民族的な神話等を取り入れ、総合芸術としてのオペラをつくりあげたのがワーグナーだった。ベートーヴェンは偉大な交響曲やピアノ曲を残したが、そんなベートーヴェンのレガシーを超えるには舞台美術や衣装などをも含めた総合芸術でしかないという自負心がワーグナーにはあったという。ワーグナーは専用の劇場まで作り、長時間にわたり観客を拘束するが、長時間の上演を通して音楽を媒介に観客までが有機的に一体となっていく。個が全体の秩序に埋没していく様は全体主義のようだが、ヒトラーがワーグナーを愛したのは偶然ではなかろう。

 

そんなワーグナーに心酔していたのはニーチェも同じだ。市民社会がある程度成熟していたと考えられていた当時、そんな行き詰まりを超克するために「超人」の必要性をニーチェは説いたが、その思想にワーグナーがインスピレーションを得ていた。マーラーの交響曲第3番のような長大な作品にも、時代を超克しようとする意欲が感じられるという。

 

一方で、世紀末の帝都ウィーンでは政治的な凋落に呼応するように、無調音楽が生まれ西洋音楽の骨格だった調性を失うこととなる。その不穏な曲調は、その後の西洋の混乱を感じさせる。スクリャービンは神秘主義に浸り、ストラヴィンスキーは「春の祭典」で原初に回帰しようとする。時代の変革期にあって音楽家たちの模索が当時の楽曲から読み取れる。イタリアでは「未来派宣言」が発表され前衛芸術運動がはじまるなど、混乱の中でも新しい時代、未来への期待が当時醸成されていた。

 

しかし、第一次世界大戦でそうした未来への期待は打ち砕かれ、破綻してしまう。人間は科学技術や軍事力の前では無力な存在だったのだ。そんな中で享楽的なアメリカのポピュラー音楽が人気を勝ち得たのは偶然ではない。第一次世界大戦後、ストラヴィンスキーは、バッハの見直しを図る。バッハの曲は神の秩序を思わせるように理路整然としているが、第一次世界大戦後の世界ではバッハの楽曲は工業化社会における機械的な秩序として受容される。ラヴェルはバレエ曲「ボレロ」を作曲するが、機械的に同じ旋律が反復し、突然、曲は終わる。刹那的な踊りが延々と続き、ぱったりと終わる。そんな刹那的な時代の延長にあるのだ著者はいう。

 

本書は著者の独特の語り口で音楽史を描き出しており勉強になる。ただ著者の独自の見解も含まれているので留意が必要だ。若干、残念なのがラヴェルで終わってしまった点だ。その後の音楽の発展が気になるところだったが、しかし、その後のクラシック音楽は様々な取り組みはあったにせよ、主流を形成するほどのパワーはない。第二次世界大戦後は、西洋が没落し、その時点でクラシック音楽は推進力を失った。戦乱を逃れて多くの作曲家はアメリカに移り住み、アメリカの資本主義のなかでハリウッドの映画音楽を手掛けたりしている。現代でも時折イージーリスニングの楽曲が人気を得ているが、これはロマン派の音楽の焼き直しに過ぎない。

 

個人的には、一般的にいうヨーロッパで栄えた狭義の「クラシック音楽」はロシアやアメリカにも伝播したが、それらもプロコフィエフ、ショスタコーヴィチ、バーバー、ブリテンまでがせいぜい射程で、それ以外をクラシック音楽というと違和感を感じざるを得ない。クラシック音楽は、その作曲技巧のみならず時代性と地域性を併せ持ってこそのクラシック音楽だからだ。同じ作曲法で、一聴するとクラシック音楽に思えても、それが映画音楽のためにつくられたのであればそれはクラシック音楽ではなくクラシック音楽風の映画音楽に過ぎない。欧米以外の作曲家のクラシック楽曲は、狭義のクラシック音楽にルーツがあるので広義のクラシック音楽には含まれるだろう。しかし、日本人の作曲家の曲をクラシック音楽というと若干の違和感を感じてしまうのは、クラシック音楽が持つ時代性と地域性によるためだろう。西洋音楽は世界に伝播し地域に溶け込み様々な形態に発展し百花繚乱となり、もはや定義づけやカテゴライズすら無意味なのかもしれない。